2010年11月30日火曜日

WHE(世界遺産教育)とアフリカ

奈良教育大学キャンパス
 どうも野球部とは深い縁があるらしい。(10月15日付ブログ参照)元野球部の3年生が、先日進学の相談に来た。教員志望のG君である。彼は、悩みぬいたあげく理科の教師を目指すそうだ。それも、私の大好きな奈良教育大学を目指したいという。私は大いに喜んだ。奈良教育大学は、決して大きくはないが、落ち着いたいい環境で、私の担任したクラスからもS君が今2回生として在学している。そもそも、奈良教育大学には、ESDの関西の中心的な存在のお一人であるT先生がおられる。だから、私はいつも教員志望者には、奈良教育大学受験を勧めるのである。

 今日、昼休みにいろんな奈良教育大学のESDの取り組みの話をした。奈良と言う地は、そもそも世界遺産がたくさんある。(文化遺産としてくくると2つになるわけだが…。)そこで、ユネスコの提唱するWHE(世界遺産教育)をメインに研究を進められている。WHEについては少しだけこのブログでもふれたことがある。(8月28日付ブログ参照)今日はきっちりと、T先生の論文から、その趣旨を少し引用させていただくと、WHEには、3種類の教育がある。
 1.世界遺産についての教育
  ①その世界遺産についての知識や価値を知らせる
  ②世界遺産をめぐる問題を考えさせる
  ③世界遺産サイト内の住民の生活を理解させる。
 2.世界遺産のための教育:行政の政策も含めて、世界遺産に接する態度を考えさせる。
 3.世界遺産を通しての教育:世界遺産をケーススタディとして、ESDにつなげていく。

T先生の論文より借用しました
  私は、このうち、3.の「世界遺産を通しての教育」として、アフリカの危機遺産をテーマに授業をやった経験がある。コートジボアールのコモエ国立公園がその題材である。ゾウの密猟が絶えないこと、牛の過放牧、管理の欠如などを理由として、2003年に危機遺産に登録された自然遺産である。その原因を突き詰めていくことで、貧困問題やコートジボアールのガバナンス、環境問題などを、あるときは講義、ある時は討議しながら、最終的には、生徒自身の手によるコートジボアールの危機遺産を守るためのPRSP (貧困削減戦略文書)の作成まで進めた。

 また、ブルキナでは、奈良教育大学OBでJICAの理数教育専門家のM氏(9月26日付ブログ参照)と出会った。凄い人だった。サバイバル・フレンチで、堂々と理数科教育の根幹を指導していたのだった。(M氏はもともとケニア所属すなわち英語圏の専門家だが、次々とお呼びがかかり、フランス語圏の理数科教育にも携わっていたのだった。)

 生徒に、こういう話をしていると、自分が本当に幸せ者であると思える。G君がもしかしたら、アフリカの理数科教育に携わる日もくるかもしれない。私は英語もできないし、アフリカでは社会科の教師なんて何の役にもたたないが、私の教え子たちは違う。いわば私は種まきをしているのだ。花は彼らが咲かせてくれるだろう。そう思うと、教師はいい仕事だなあと思うのである。何はともあれ、祈!合格。

2010年11月29日月曜日

「紛争の罠」シミュレーション

最底辺の10億人
♪煙も見えず雲もなく、風も起らず波立たず、鏡の如き黄海は…今大変である。今日のアフリカ開発経済学の授業はそんな話から始まった。今日から、3時間の予定(期末考査までの持ち時間である)で、ポール・コリアーの『最底辺の10億人』に説かれた「四つの罠」について語っていく。最初は、「紛争の罠」である。ポール・コリアーは、紛争は、貧困と深く結び付いていることを経済学的に論証した後、こう結論付ける。最底辺の国々(その70%はサブ=サハラ・アフリカ諸国である。)で起る内乱・紛争は、民族間の対立ではない。経済格差が生む経済対立である。しかも貧困は、兵士を生む。明日生きれるかどうかわからない、教育を受けていない若者は、兵士となることでわずかだが、豊かになるチャンスを手に入れることが可能である。
 私はポール・コリアの論は正しいと考えている。
 
 で、冒頭の話になるのだが(別に、黄海海戦を描いた「勇敢なる水兵」の軍歌を歌ったわけではない。)、このところ、例の某国の砲撃騒ぎで、黄海上で米韓軍事演習が行われている。もしやの第二次朝鮮戦争が起こるやもしれぬというニュース解説を『枕』にしたのである。さて、もしもの場合、君たちは義勇兵として戦争に参加するや否や?と問うたのである。今日はうまいこと男女クラスのA組だった。男子に聞くと、全てNOであった。では、もし君たちが今の立場でなく、食事もろくにできず、雨露をしのぐ場所もないような、公園でオヤジに「解散!」と宣言されたような、貧困の中にいればどうか?とも問うたのである。これには、「うーん。行くかもしれませんねぇ。」と、先ほどの威勢は無くなった。非常に強引なシミュレーションだが、「紛争の罠」の中心概念をイメージできたようである。

 さらに話は、1万ドルあれば小規模な軍隊が組織できること、衛星電話があれば鉱産資源を抑え、そのレントを確保する交渉が可能なこと、などアフリカで現実に起っていることを紹介した。
 最後は、アンゴラ内戦の構図である。クラスを海側の石油が出る首都ルワンダ側(政府側)と、ダイヤモンドが出るゲリラ側に分け、大統領選挙をやるというシミュレーションである。

 ESDの重要な柱に、「平和教育」がある。単に戦争の悲惨さだけを訴えるのではなく、貧困との関わりの中で教えて行く意義を私は主張したい。貧困が兵士を生むのである。それだけは、少なくとも生徒に伝わったと思う。

2010年11月28日日曜日

私感/龍馬伝最終回

 所用が早めに終わり、龍馬伝の最終回をリアルタイムで見ることができた。本年の初回の日に感想を述べているので、最終回を見終わってやはり感想を書いておきたい。(1日2回のブログ更新になるが…今月はお休みもあったので…。)先日、なにかの新聞の文化欄で、この龍馬伝の構成が、アマデウスを元にしていると構成作家が語っていたとあった。龍馬=モーツアルトと、岩崎弥太郎=サリエリとの怨嫉を基軸にしていたわけだ。まあ、司馬遼的でない、新しい龍馬像の構築はなされたといっていいと思う。

 私はどっちかというと、日本資本主義論争的な面から、第1回を見て市民革命的な視点ではないかと感じた。その思いは最後まで同じだった。今日の最終回など松平春嶽が殿様の座る場所に龍馬を座らせるという演出がある。これを龍馬は歯牙にかけないし、最後に各藩に送りつけた新政府の中心人物を示した3つの丸を誰とも明かさない。暗殺寸前に、中岡慎太郎には、その真意を『みんな』という意味だと語る。龍馬の言には、極めて明るい市民革命的な視点が、強いのである。この楽天主義的な市民革命論的スタンス。それと好対照のリアルな、言い方を悪くすれば、あまりに汚い演出。このコラボレーションこそが、今年の大河ドラマ・龍馬伝であったように思う。

 まあ、現実にあった史実をアレンジしたフィクションであるから、細かい事に目くじらを立てる必要はないが、最後にお龍が、土佐の浜で兄と乙女姉さんと何を語るでもなく想うシーンがあったが、後に土佐の坂本家を出て、他の男と再婚するのであるから1人佇んでいて欲しかった。(笑)

統帥権の近現代史への影響Ⅱ

ドイツ皇帝ヴィルヘルム1世
 統帥権の話の続編である。伊藤博文が、憲法の草案づくりのために留学した際、ドイツ皇帝に食事に招かれた。その際、皇帝は、議会に予算編成権や軍事権を渡してはならないと(伊藤と日本に対する好意から)意見したといわれる。大日本帝国憲法は欽定憲法となっているが、自由民権運動の高まりの中、土俵際に追い詰められ、ついに制定されたと言った方がいい。そんな状況下で、伊藤は予算編成権は議会に渡したが、軍事権(統帥権)は天皇のものとしたようだ。
 
 ところで、ドイツ皇帝はバリバリの専制君主であったが、日本の天皇はどうか。このあたりかなり政治的な思惑が錯綜する話題なので、慎重にならざるを得ないのだが、私は専制君主であるとは思っていない。昔から「玉」と称され、一種のブラックホール的な性格を持っているという山口昌男の天皇論に近い立場である。今の生徒諸君は、当然天皇について、ほとんど知らされていない。昭和天皇の生活などを紹介して、少しでも興味を引く。皇太子時代の渡英以来、朝食はパンだとか、パジャマを着ておられたとか、日本人初のゴルファーだとか。同時に、大みそかの四方拝など、日本中の神主の頂点に立っていることや、新嘗祭などに見られるように日本農民の頂点に立っていることなども語る。日本の天皇は、宗教的な存在、象徴的な存在でもあるのである。うーん、社会科教師として、政治色を抜くのは極めて難しいところである。

 このドイツ皇帝と日本の天皇の性格の相違は、大きいと私は思う。その専制的でない天皇に、統帥権が設定されたのである。日清戦争や日露戦争では、統帥権はうまく国民皆兵制度とともに作用したようだ。(もちろん、あくまでガバナンスとして私は論じている。)しかし、この統帥権が「玉」のモノであるがゆえに、軍に利用されていくのである。
 …今日は所用が控えているので、さらに”つづく”ということにしたい。

2010年11月27日土曜日

統帥権の近現代史への影響Ⅰ

大日本帝国憲法 発布の図
 大日本帝国憲法について、このところ受験に使わない日本史Bで語っている。昨日は、統帥権が、日本近現代史に与えた影響について一気に語ったのであるが、これはブログで一気に書くにはあまりに長編になりすぎる。で、こんな話から始めて、徐々に書き足して行こうと思う。

 9.11の時、アメリカでは、一気にナショナリズムが高揚した。当時のブッシュ大統領が、「これは戦争だ!」と叫び、各地で膨大な数の星条旗がはためいた。さて、そんな中で、反戦の動きもニュースで伝えられた。1つは、オノ・ヨーコのPEACE。様々な媒体を使ってヨーコは反戦を訴えた。もう1つは無名の女子高校生の反戦運動である。ウエスト・ヴァージニア州のある高校で、反戦を訴えるTシャツを着て、日本で言うと生徒会活動のような形で反戦を訴えた事件だ。これを学校側が規制し、生徒は停学処分となった。当時、久米宏がキャスターをしていた某ニュース番組が、この事件を大きく取り上げ、アメリカのヒステリックな言論統制だ!と批判したのである。言論の自由であるから、キャンペーンをはるのは勝手だが、私は久米宏がエキサイトして、アメリカ批判の論説を重ねるのを冷やかな目で見ていたことを思い出す。
 何故なら、この反戦を訴えた少女のいる場所が問題なのである。ウエスト・ヴァージニア州。カントリーロードの曲で有名なこの州は、アパラチア炭田があるプワー・ホワイトの州である。大した産業もなく、貧困家庭が多く、軍関係者に非常に多い州なのである。彼女がもし、カリフォルニア州のサンフランシスコあたりでこういう反戦を訴えたなら、停学処分などは受けなかったに違いない。場所が悪すぎるのである。久米らは、こういうアメリカの地域事情に無知すぎる。アメリカをステレオタイプに捉える日本のジャーナリズムの馬鹿さ加減に、嫌気がさしたのであった。

 このことと、日本近現代史における統帥権の問題は深く結びついている。すなわち、軍に入るということは、貧困と結びついているということである。当時の学制では、優秀な貧乏人は、軍に入り立身出世するというルートが存在した。幼年学校、士官学校、陸軍・海軍大学、そして陸・海軍大臣にまで昇りつめれば、金持ちの出身である東京帝大出の閣僚とも、堂々と渡り合えた。職業軍人の多くは貧困家庭の出身である。何よりもまず、このことをまず押さえておきたい。…つづく。 

2010年11月26日金曜日

アフリカの工業の問題点を探る

ケニアのTUSKERビール
アフリカ開発経済学も、鉱工業の考察に突入した。今日は、工業について語った。アフリカのこれまでの工業の特徴は、「装置工業」であったことである。ブルキナに行った時、「ファンタ・オレンジ」をアホほど飲んだ。これは国内で製造されているとのこと。製品が重いので、輸送経費を考えて、飲料の製造は、市場立地型の工業になる。しかも価格が比較的安価なので、アフリカ3の人びとも無理をすれば買えないことはない。人口が少なく、市場規模も小さなブルキナでもビジネスが成り立つのであろう。アフリカには、様々な工業製品化された地ビールがある。これらは、国内で造られている。ケニアの”TUSKER”などは有名である。問題は、「装置工業」であることである。

 すなわち、2つの大きな問題点があるわけだ。装置工業は、生産の主体が機械であり、雇用人数が少ない、ということだ。アフリカの工場労働者の賃金はアジアより高いこともしばしばである。もう1つは、設備投資に資金がいる工業であることだ。当然外国資本有利となる。このうち、特に重要なのは、雇用人数が少ないことである。農村から都市に出てきた若者には、工場での雇用のチャンスは極めて少ない。ほとんどの若者は、インフォーマルセクターに滞留することになる。これでは、1人あたりのGDPは上がらないのである。(アフリカの他の業種、たとえば金属精錬とか石油精製とか、他の工業も装置工業であることが多いのである。)

装置工業は雇用を創出しがたい
サブサハラアフリカで多くの雇用を実現し、1人あたりのGDPを向上させた国に、インド洋に浮かぶ島嶼国モーリシャスがある。中国系のツテだと思われるが、香港からの繊維製品の縫製業で1人あたりのGDPを押し上げている。ここは、生産性の高いサトウキビ栽培は行うが、他のアフリカ諸国のように食料とする穀物はほとんど生産していない。人口が少ない(約100万)こともあるが、特化することで成功しているのである。(最近は観光業でも儲けている。)
 
 雇用を多く生む工業の誘導、それに伴う投資を得ることが、農業生産性の向上と共に重要なのである。このところ、あの内乱に翻弄されたモザンビークに、投資が集まり、雇用が創出されていると聞く。モザンビークの市場規模も大したことはないが、モザンビーク海峡に面し海上輸送に有利であるからかもしれない。たとえ、安価な賃金でも、多くの労働者が雇用されれば経済は上向く。
 中国の副主席も頑張ってアフリカを回っているが、日本も頑張ってくれているみたいだ。『25日、丸紅は、アフリカ南部、アンゴラの政府から首都ルアンダにある繊維工場の改修工事を請け負ったと発表した。内戦で疲弊した繊維産業と綿花栽培を復興させ、雇用を創出する政策を支援する。(時事ドットコム2010/11/25-16:17)』これには、他のニュースから、国際協力銀行(JBIC)と三菱東京UFJ銀行の協調融資ということもわかったのだが、アンゴラはかつての内戦で無茶苦茶になった国だ。しかし、最近は石油生産で年10%以上の経済成長を見せている。このレントをうまく生かして開発を進めて欲しいものだ。なにより雇用である。

 今日の授業はちょっと難しかったかもしれないが、やっぱり皆真剣に聞いてくれた。ありがたいことである。

追記:今さっき、NHKニュースで、ルワンダのIT化の国家戦略のニュースを流していた。子供達までが手動の蓄電装置付きのパソコンを持ち、アフリカにおけるITと金融のセンター化を目指していた。20年後を見据えての国家戦略。やはりガバナンスが重要である。頑張って欲しいものだ。

2010年11月25日木曜日

アフリカに緑の革命は必要か?

ケニアのマクエニ県の農家にて
そろそろ期末考査である。3年生国語科の現代社会も、追い上げの時期に入ってきた。今日のテーマは、一通りアフリカの農業について学んだ上で、緑の革命の導入の是非を生徒に問うことであった。アフリカの農業と言えば、コーヒーやカカオなどのプランテーションと考えてしまうが、実際は内向きの食料自給が中心である。気候や土地が悪く、それでも南ア以外の国では食料が自給できず、食料を輸入せざるを得ず、国富をそれに当てているのが現状である。では、アジア諸国が成功したように、緑の革命を導入すべきなのだろうか。品種改良(ハイブリッドなどの品種)、化学肥料や農薬の導入、灌漑設備、土壌改良などで、生産性の向上をはかった緑の革命。さて、これを導入した際のメリット、デメリットを考えてみようと誘う。

 「メリットの意味わかるかぁ?」「利点です。」「いや、シャンプーの名前や。」などと笑わせてから討議に入る。この辺の私のギャグは低レベル=オヤジ級だが、生徒によると、時々極めて高レベルのギャグをかますそうである。本校のOGが昔、国語の授業の課題でこんな川柳をつくった。「Tやんのギャグが時々わからない。」解説には、「皆が大笑いしているのに、そのギャグの意味が判らず悔しい想いを何度もした。」とあった。(笑)ちなみに私は、Tやんという愛称で呼ばれている。

 メリットは?と聞くと、「生産性が向上する。」うむ。だから?「食料を輸入しなくてすむ。」うむ。で?「貧困から抜け出せる。」うむ。他には?「うーん。」という声。テキストに書きこむ者、真剣に考える者、相談する者。いろいろである。さすがに、『保健衛生などの分野で、幼児死亡率が下がれば、人口増となるやんか。その対策として有効かな。』という私の説明に、なるほどと納得の声が上がる。 
 デメリットは?と聞くと、「土地が悪くなる。」うむ。インドなどは塩害が出たと先日教えたのを覚えていてくれている。エライ!…それからが続かない。もっとデメリットはないかな?たとえば、肥料や農薬や、ハイブリッドの種はどうやって手に入れる?「お金がかかります。」うむ。「識字率が低いとうまくいきません。」うむ。で?ここが重要やが…。たとえば、このクラスが一つの村だとする。お金があり、教育もある農家はうまくいくかもしれないけれど…。「格差が開きます。」そう。格差が開くと、どうなる?情の経済は?ハランベー(ケニアの相互扶助の精神を意味する語)は?「アフリカの良さがなくなる」「農村が崩壊する」などの声があがる。

 何度も主張するが、私は、こういう授業が大切だと思っている。社会科は暗記教科ではない。


ブルキナのワガ近郊の農村
ある意味エコな農業であるアフリカの低生産性農業には、伝統的な良さもある。この基盤の上にアフリカ的な情の経済や地縁・血縁社会が育まれてきた。緑の革命は、貧困を克服する可能性があるが、そういったこれまでのアフリカ的なるものを破壊する危険性をも含んでいる。これは、今、日本が回答を迫られているTPPとも絡んでくる。日本の農業を守るべきか否か。グローバルな経済効率と伝統的なニッポンが対立している。自分たちの話でもあるのだ。 受験を控えている者も多いので、ディベートする余裕はない。そこで、とりあえず意見を聞いてみた。

 アフリカに緑の革命は必要か?是40%非30%というところだった。
 ちなみに私は、是と答える。貧困撲滅と人口増に対応するためには必要不可欠である。ただ、環境問題や、教育の普及も含めて慎重に進めていく必要があると思う。アフリカの伝統社会は、そう簡単に崩れないだろう。しかし少しずつ変化することはやむを得ない。授業では判り易く、二元論的に論じたが、現実はもっと複雑である。高校生の授業としては、ここまでがギリギリ限界かと思う。

2010年11月24日水曜日

「アフリカから学ぶ」読了…

 先日紹介した「アフリカから学ぶ」(11月2日付ブログ参照)を今朝読了した。ゆっくりと味わうように読んだので1カ月弱かかった。この本は重要なので、もう一度読んで読書ノートをつくりたいと思うほどである。おいおい、この本に書かれていることは、このブログでも紹介したいと思うが、今日は「あとがき」から、散文的に引用したい。本当は全文引用したいくらいだ。

ブルキナファソの家畜市場にて
 「ぶらりひとり旅だったり、命じられた仕事だったり、自分の研究のための調査だったりするが、私たちがアフリカに通い始めると、すぐいろいろな事に驚かされる。…私たちがとは違う世界、というのは、確かにアフリカが見せる一つの顔だ。そこには極度の貧困や武力闘争の頻発があり、きわめて非効率な政府機関があり、呪術がなお多大な影響力を持ち、音楽が人びとの生活の中で根源的な重要性をもっている。その一方でアフリカは私たちと同じ世界という別の顔も、確実に見せてくれる。…日本とアフリカが全く同じだというわけではない。アフリカの紛争ははるかに暴力的だし、呪術はもっと強烈なリアリティを持っている。ここで提案したいのは、アフリカで起る出来事を、日本ではありえない、自分とは関係ないものだとは捉えずに、自分の周りをよく観察してみよう、ということである。…私たちにとってアフリカは、自分を知る鏡のようなものではないだろうか。」

 「アフリカで起きていることを『わがこと』ととらえる者たちは、自分の財と時間を犠牲にし、知識を提供し、心をこめて、アフリカの人びとと向かい合おうとする。だが、そのような実践者たちも、やはり最後にはアフリカから多くのものを受け取って、アフリカを後にすることが多い。」
サヘルの村の共同井戸にて
 「考えてみよう、日本では毎年3万人が自殺で命を絶つ。しかしアフリカでは自殺は極めて稀だし、2010年のアフリカには、年間3万人が犠牲となるような武力紛争など起っていない。教育の章の言葉を借りるなら、私たちはアフリカで時に『極限の状況』に遭遇する。しかし同時に、エイズの章の筆者が言うように、そのような状況にあるアフリカは、『生きるとは何かという真の答えを見いだせる』ところでもある。そして、市民社会の章の筆者が述べるように、そうした中で尊厳と優しさとユーモアを持って生きる人びとを見るにつけ、私たちはしばしば、彼と彼女たちの『人間力』に圧倒される。

 峯陽一先生の名文は、極めて感動的である。ところで、今日は、『ケニア人生双六』(2月22日付ブログ参照)を授業でやった。この私のオリジナル・アクティビティは、少し間違うと「私は日本人に生まれて幸せだ。ケニアに生まれなくてよかった。」などという、とんでもない感想を生むことがある。(実際、ある大阪のユネスコ・スクールの生徒が、国際理解の会議の席で、途上国の研究発表で同様の感想を述べていたことがある。私は、心から情けなく思い、本校がユネスコスクールでないことを断腸の想いで悔やんだ。)アクティビティの最中は、ワイワイと盛り上がっていたので、黙していたが、最後に、およそ、この「あとがき」の趣旨にそった話をした。
 アフリカから学ぶこと。それは、人間としての生きる力の強さである。あのオマーンが言った「あたりまえ」の生き方(4月17日付ブログ参照)である。つい、あの時の話をすると、感情が高ぶってしまうが、生徒諸君は真剣に受け止めてくれる。ありがたいと思うし、私は、このことをずっと伝えていきたいと思うのである。

2010年11月23日火曜日

旅で発見したしょうもないコト

 今回の所用の旅で、いくつかしょうもない発見をした。今日は、そのことを書きたい。
駅弁/じゅうじゅう亭
新大阪駅の駅弁/じゅうじゅう亭
 新大阪駅の弁当である。松本人志のTVで有名になったらしい。そう言えばTVで見たような気がする。行きの新幹線「のぞみ」で食べた。これが評判どうり美味い。肉は冷めていても美味いし、その下のキャベツも絶妙である。そもそも、今回の所用で、私が最初に感じたのが、駅弁をたくさん食べれるという稚拙な喜びであった。しかしながら、その後、食事時間との関係で東京や水戸の駅弁をついに食することもなかった。結局昨日新大阪で、もう1箱このじゅうじゅう亭を買って家で食べた。情けない話だが、この駅弁には底知れぬ魅力がある。
新幹線における喫煙について
 私は、今夏の東京行きの際も、「ひかり」に乗った。自由席3号車が喫煙車だからである。「のぞみ」には喫煙車がない。そのかわり、喫煙ルームがあるというので、じゅうじゅう亭を食べた後行ってみた。狭い空間に立ったまま…。吸えないよりはマシだが、なんとも悲しい。「のぞみ」は、無茶苦茶早いので、せいぜい1回この高級感と劣等感が二律背反した空間に寄れば十分である。ところで帰路、熱海からは当然「ひかり」3号車に乗った。すごい煙と臭いである。笑わば笑え。私はこの「ひかり」自由席3号車を愛する者である。
常磐線のグリーン車
不思議なグリーン車
 常磐線という仙台と上野を結ぶ、水戸へのJR線には、普通電車に二階建てのグリーン車が連結されていた。初めて見たのでびっくりである。どんな感じなんだろうか。ちょっと乗ってみたい。ところで常磐線は、上野から日暮里まで東北本線で、日暮里からが常磐線の本番らしい。工事中の東京スカイツリーも間近で見たし、隅田川も初めて見た。さらに「亀有」なんて駅もある。おお。葛飾区である。(当然特急で通過したが…)千葉県の「柏」も通過した。茨城に入って「取手」という駅もあった。知っている地名があると、なかなか面白い。
ネーミングの愚と妙
 上野駅で、サウナの看板が出ていた。「サウナ北欧」とある。なんという直截的ネーミングであろうか。ネットで確認したらサウナ付カプセルホテルらしい。笑える。一方、帰りの「ひかり」は、浜松駅で停車したので、「バーデン・バーデン」という名の温泉センターを発見した。こちらの方は、少なくとも、ひとひねりしてある。少なくとも地元の子どもは、このドイツの温泉地の名前をいつか知り納得するであろうと思う。教育的効果から見ても絶対東京より静岡の勝ちである。
「面」をつけると脱構築
面白い恋人
 今回の所用でのお土産は妻が担当した。(私は、土曜日学校から駆けつけたのでよく知らない。)妻は早くに新大阪駅に着いて、いろいろと見て回ったらしい。で、変な土産が増えていると報告してくれた。私が大笑いしたのは、『面白い恋人』である。札幌の『白い恋人』の完全パロディである。まったく、面白ければ良いという大阪のポリシーが爆発である。「こんなことやってるから、大阪は馬鹿にされるんや。」とは妻の言。いやいや、見事な脱構築である。新しき文化創造ではないか、というのが言葉を発しなかった私の意見である。

2010年11月22日月曜日

水戸学の聖地で慶喜を想う


水戸・偕楽園の梅林
  所用で水戸へ行って来た。土曜日の夕方、新幹線「のぞみ」で東京へ。上野駅近くのホテルで1泊して、翌朝常磐線の「スーパーひたち」という特急に乗って水戸へ。午後、今度は、「フレッシュひたち」で上野に戻り、熱海まで「こだま」に乗車、1泊して今日は「ひかり」で帰ってきた。私は、列車に乗るのは決して嫌いではないが、疲れた。宮脇俊三氏(11月17日付ブログ参照)はエライ。(笑)

 水戸では、偕楽園と弘道館に連れて行っていただいた。偕楽園は、日本三大庭園の1つ(高校生の就職試験に良く出る)で、私は後楽園・兼六園には、行ったことがあるので、ついに50を過ぎてビンゴしたのである。(笑)偕楽園に入る前、常盤神社と義烈館という資料館に入った。境内図を見て、義は、義公(徳川光圀)、烈は烈公(徳川斉昭)とすぐ分かった。中には、かの義公が編纂を指示した「大日本史」全巻があった。うーむ、感激である。烈公の倹約を指示した「農人形」も初めて見た。なかなか水戸は深いのである。この義公・烈公を祀っているのが常盤神社であった。義公は、高譲味道根之命(たかゆずるうましみちね の みこと)、烈公は、押健男国之御楯命(おしたけおくにのみたて の みこと) というらしい。明治15年に別格官幣社となったという神社である。やはり、水戸は水戸学の聖地である、義公・烈公は、文字通り神格化されていたのだ。偕楽園は、梅が有名だそうだ。当然その季節ではないので、すこし閑散としていた。とはいえ、良い。紅葉の季節、天候にも恵まれたのも幸いである。
水戸・弘道館にて
 さらに、弘道館へも寄ってもらった。弘道館と言えば、水戸学の中心であり、かの徳川慶喜が江戸の上野寛永寺で謹慎後、ここでさらに謹慎していたところである。正面玄関には、凄い筆力の「尊攘」という掛け軸があった。今にも血が吹き出そうな筆である。奥の方に、慶喜の謹慎していた部屋があり、そこにフツーに入れるのである。素晴らしいスタディツアーであった。我が受験に使わない日本史Bの生徒諸君を連れてきたいと思った。今度の授業で、せめて「行け!」と言っておこう。

 熱海のホテルで、「龍馬伝」を見ていたら、ちょうど慶喜が大政奉還をするところだった。「龍馬伝」の演出では、慶喜を熱情家的、悪役的に描いているが、慶喜はそんなタイプではないと私は思っている。慶喜に対しては、司馬遼と山岡荘八で評価が180度違う。司馬遼は、まさにボロクソに描いているが、山岡は私のオリジナルで恐縮だが「水戸の呪縛」ともいうべきポリシーをメインに置いて描いている。

徳川慶喜
  水戸の呪縛とは、ひとつは、烈公の呪縛であり、もうひとつは義公の呪縛である。烈公は、水戸では人気があるようだ。それは今回良くわかった。良い面でも悪い面でも凄い人物であった。そもそも江戸常駐をゆるされた(つまり参勤交代しなくてよい)水戸家は御三家の中でも最も録高が少ない。江戸にいた烈公は、藩の改革に打って出る。これは地元にいないゆえに、かなり困難だったと思われる。藩士も江戸詰めと地元に分れていたわけだし、そもそも内紛が絶えない事情もそこにあるのだが、これをまとめたのだから、尋常な藩主ではない。しかも、息子が多い。正室は有栖川家からもらっているが、それ以外にもバンバン側室をもって、ガンガン他の藩に養子に出している。その一人が、御三卿の一橋家に養子に出た慶喜である。例の一橋派と南紀派のもめごとのもとは、斉昭の息子故に大奥が反対したからである。(斉昭は大奥でトラブルを起こしている。)斉昭の息子である故に、慶喜は将軍になれなかったのである。これが烈公の呪縛である。以来、聡明で素晴らしい集中力をもつこの貴族の青年は、自重することを旨としたようだ。安政の大獄の時の謹慎の姿はあっぱれだったらしい。一方で合理的な思考(豚肉を食するとか)、整合性のあるするどい論調をはり、しかも雄弁であるとか、まさに烈公以上に尋常ではない貴族青年であったわけだ。

慶喜・謹慎の間をのぞむ
  一方、義公の呪縛とは、水戸藩全体の呪縛である。水戸藩は、義公の大日本史編纂とともにある。以来強烈に尊王の立場である。家康の深い思索ゆえか、御三家でありながら将軍を出さない家であるとともに天皇家を守る立場を与えられていた。慶喜にとって、尊王は”思想”ではない。”DNA”なのである。この点を山岡は何度も主張している。大政奉還は、江戸幕府は滅んでも、徳川家が残り、他の雄藩とともに政治をリードできるとふんだ慶喜の計算の結果であったと思われる。それが、岩倉や大久保の策略で、吹っ飛ばされるのだが、何より慶喜が、貴族青年的脆弱さを露呈したのが、鳥羽伏見での錦の御旗の登場であろう。「朝敵」になるということが、彼には到底耐えられなかったのである。で、江戸逃亡という、ありえない選択を行うのである。司馬遼は士道という観点からコテンパンに批判する。山岡は水戸の尊王DNAから理解を示す。おそらく両方当たっているのではないか。私は偉大な作家の意見を止揚して生徒に教えている。 
 とはいえ、慶喜が凄いのは、その後である。上野・寛永寺での謹慎、水戸での謹慎、そして駿府での隠遁。日本の権力の最上位にいた稀なる能力のある人間が、人生の大半を謹慎・隠遁で過ごすのである。慶喜が自分を全力で抑えたからこそ、明治維新は成ったし、その後の明治はあったのである。私は、やはり凄い人物だと思っている。彼もまた常人では測れない”政治的”サムライなのである。

 水戸の中心街には、映画「桜田門外の変」の幟(のぼり)がたくさんならんでいた。弘道館でもロケをしたようだ。あまり映画を見ない私だが、見に行こうかなと思った次第。 

2010年11月19日金曜日

鵺(ぬえ)

 鵺:(ぬえ)平家物語などに登場し、猿の顔、狸の胴体、虎の手足を持ち、尾は蛇の、日本で伝承される妖怪や物の怪である伝説の生物。この意が転じて、得体の知れない人物をいう場合もある。今朝読んでいた佐々淳行氏の「わが軍師論」の中で、鳩山前首相や民主党政権に対してこういう表現をしていた。(このブログで、この話題にはあまりふれたくない。佐々氏の指摘するところはよく理解できるが、あえて不愉快な話題について書くつもりはない。)ただ鵺という言葉のもつ言霊に、ちょっとビビッと来たのである。
 今、日本史Bで、大日本帝国憲法の話をしている。明治14年の政変で、大隈重信が辞任するのだが、彼は司馬遼の言い方では、「国民を個人として自立させるため、英国憲法を基盤とするべきだと主張した。」らしい。伊藤ら他の参議は、成文法ではなく、慣習法である英国憲法を日本に根付かせるのは、極めて難しいと判断した。確かに私もそう思う。イギリス経験論に裏打ちされた伝統が英米にはある。これを日本にというのは厳しい。群雄割拠していたドイツをまとめたプロシアは、明治維新に重なるし、産業革命も遅くれたというのも日本に重なる。ドイツの観念論に裏打ちされた合理的精神から生まれた成文法も、わかりやすい。そこで、日本はプロシア憲法を元にするのである。まあ当時の状況からは妥当だと思う。言い換えれば、日本政府は、”個人”としての自立を問題とせず、皆兵となる”国民”を作りたかったのである。”市民”をつくりたかったわけではないのだ。
 ひどく社会学的な話になるが、私たち日本人は、国民なのだろうか、市民なのだろうか。個人として自立しているのか、いなのか。この話題は、先日紹介した「アフリカから学ぶ」の、「アフリカの地方分権や市民運動」にも出てくる。うーん。、私は社会の教師だが、この辺、非常に勉強不足を感じている。で、「鵺」なのだ。日本人は、英米的な経験を基礎に泳ぐプラグマティックな側面をもつが、それだけではない。ドイツ的な合理主義的なロジックに即して生きる生真面目さを持っているが、合理主義で押し通すことは苦手だ。それよりも感情的な部分を大切にする。まさに鵺である。市民でもなく、国民でもなく、個人主義でもなく、地縁・血縁の集団主義のみでもない。5・6限の現代社会でのアフリカ・バーチャルツアーが盛り上がって終わってから、何故かそんなことを考えていたのであった。もっと社会哲学をやらねば。次の課題がうっすらと見えてきたのであった。

 さて、大日本帝国憲法の話にもどる。司馬遼のプロシア憲法有利の説明の最後にこんな事が書かれている。「それに、ドイツは田舎である。」これは、おそらプロシアが、ローマ帝国領でなかったことを指している。(司馬遼の街道を行く:愛蘭土紀行に、そのことが書かれている)
  自虐的に言えば、ユーラシア大陸の果てに住む我々日本人は、超田舎者故に、グローバル・スタンダードから見れば「鵺」のかもしれない。

追記:NHKの世界街歩きがバスチーユだったので見ていました。パリはあまり好きではないのですがなつかしい。OGのあやっぺが、いつか歩くことになるかもしれないと思いつつ見ていたのでした。さて、明日はオープンスクールで登校日です。その後、夜の新幹線で所用のため東京へ向かいます。2泊3日の予定故、ブログ更新は2日間はお休みをいただくことになると思います。

2010年11月18日木曜日

ジャパニーズ・スタンダード


Let's forgive and forget.
  今年のMW校留学生は、明るく楽しい連中である。2時間目に日本文化論の初授業を行った。日本文化の多層性について説明した後、(こういうとカッコ良いが、サバイバル・イングリッシュとボディランゲージで教えるのである。)最下層に位置する日本の伝統的思考について、稲作による集団主義と、古事記や日本書紀をもとに、八百万の神をいただく多神教世界を概説した。(こう言うとカッコいいが、同上。)結局、結論は、『水に流す』というケガレとミソギの話になった。「日本人は、すぐ忘れる。と、言うより水に流すのである。」「?」「もしJ君とホストが喧嘩しても、きっとホストは、嫌なことは忘れようと努力する。J君にはケガレがインサイドしていた。きっと今は大丈夫だと考え、2,3日したら仲直りできるよ。」「?」「祓ったんだ。ほら…」と神主のお祓いの真似をする。「えーと、ホワイト・ペーパー。」すると、C君が「I see!」「ヨコズナ!」「そうそう。」と言う感じで、まるで吉本新喜劇である。ふー。かなり体力を消耗した。(笑)多くの日本人は、この『水に流す』という概念をグローバル・スタンダード(世界標準)だと思っている。だから、韓国や中国が、過去の戦争の話を持ち出すとしつこいと感じるのである。これは完全にジャパニーズ・スタンダードである。


Jean-Paul Charles Aymard Sartre
  さて、5限目の日本史Bで、「えーと、今日はどこからだったかなあ。」と相変わらずの気合いの入らない始まり方をすると、生徒諸君が声をそろえた。「サルトルの”人間は自由の刑に処せられている”からです。」…おお、忘れていた。自由民権運動の話から、脱線したままであった。実存は本質に先立つことの説明をして、サルトルはだからこそ、人間は自由に生きるしかないと言う。「自由の刑」という表現について具体的に話した。おお、調子が出てきた。ここで、8月7日付ブログで紹介したマグナム44と抵抗権の話に突入した。アメリカ人は自由を守る為に銃を持つという、勝ち取った自由の話である。ところが、日本の自由はどうか。GHQによって天から降ってきた自由なのである。欧米人が勝ちとった自由には、個人として自立し、責任を負うという裏付けがある。しかし日本人には、その自覚が全くない。これまでの経験を元に、自由であることは、個人として責任を負うことであることを熱く語ってしまった。先年、本校で3年担任の時、クラスの生徒の超重要書類である進学の調査書にミスをしてしまった話をした。私は、正直に生徒にその旨を伝え、結局2日ほど夜遅くまで残り、60通あまりを作り直し、自腹を切って各大学に送った話もした。自由に生きると言う事は、自分の責任を全うする尊厳な世界である。自らの責任をどこかに置き忘れて、権利ばかりを主張する日本人の自由は、自由ではない。単なる未熟な甘えでしかない。日本の自由は、これまたグローバル・スタンダードではなく、ジャパニーズ・スタンダードにすぎないのである。

 奇しくも、ジャパニーズ・スタンダードについて熱く語った1日であった。

2010年11月17日水曜日

最長片道切符の旅 取材ノート

 今日こそは、ゆったりとした日々を過ごせるかと思ったが、やっぱり多忙であった。1時間目。MW校の留学生のJ君が昨夜ネンザしたらしい。さっそくI先生や担任のT先生、養護教諭のS先生と協議。結局授業の関係でT先生が病院へ。私は、土曜日のオープンスクールに間に合うように、国際交流通信の研修旅行の特集のためのポスター撮影。(近日公開予定)2時間目。地理Aの授業にMW校留学生が4人入ってきた。これから帰国まで私の地理Aを受講する。これまではJ君1人だったので日本語7、英語3くらいだったが、英語9、日本語1くらいの授業。サバイバルイングリッシュの臨界点に達した。今年のMWsは明るい!盛り上がったが、私のパワーダウンは凄かった。3限目、国語科の地理Aの授業。4限目、久しぶりにY先生と松屋町のきたなシュラン(4月9日付ブログ参照)へ。明日2限目のMWsの日本文化論の為のプリントを作成。5限目、国際交流通信製作・完成。美術部の予算執行書類作り。6限目、後輩の口の悪いI先生と喫煙しつつ郵便局へ。彼は何十回目かの禁煙宣言をした。(笑)放課後、2年生のLHRの進学指導で来校してきた昨年度の卒業生と歓談ならびに、MWs/・ホスト生とミーティング。…結局なんやかんやと走り回っていたのであった。

 こんな時、非日常に突入したくなる。そんな深層心理からか、先日新しい新潮文庫を手に入れていた。「最長片道切符の旅 取材ノート」である。作者は今は亡き宮脇俊三である。宮脇俊三の鉄道シリーズは、昔から好きで、ほぼ完読してきた。私は鉄道ファンであるとは思わない。時刻表を見るのもめんどくさいし、汽車や特急の名前も知らない。だが、宮脇俊三を読むと、非日常に入れるのである。鉄道に乗って旅している私が、紙面の中にいるのである。しかも今回の文庫本は、私が最も好きな「最長片道切符の旅」のネタ本である。当然北海道の広尾から始まる。期待に胸膨らんだが、北海道が終わった時点で読むのをやめてしまった。北海道の地名、例えば、音威子府とか興部とか、弟子屈とかいう駅名が出てくるだけで胸躍ったが、本州に入ると、なんだか疲れてしまったのだった。どうも、非日常に入れない。

 それは何故だか、考えてみた。それは取材ノートであるからだ。宮脇俊三の生のメモは貴重な資料だが、読者にとって、作者の日常を覗いているような違和感があるのだ。作家は、この日常を非日常と感じれるように再構築するゆえに作家なのであろう。「最長片道切符の旅」本編は名作だが、取材ノートは表に出す必要がないと私は思った。
 私のブログも、今日の冒頭の駄文のように、日常をただ、メモ書きのように記したところで、何も生まない。そう、本校生やOB・OGなら属性もあり面白いかもしれないが、一般の方々には属性はない。そんな日常をどう再構築するかが、私のブログにとっても重要なのである。これが、更新300回を越えた今の率直な気持ちである。

2010年11月16日火曜日

祝300回記念 アフリカ飯の話

  今日の更新で、このブログも300回目となる。最近は、妻が私に向かって小学生に言うように「宿題やったん?」と聞くようになった。宿題とは、このブログ更新のことである。まあ、宿題を英語に直せば、Homeworkなので当たっていないこともない。(笑)そもそも私は、仕事以外で酒を飲むこともないし、ゴルフも釣りもしない。読書は生活そのものなのだし、そう度々アフリカに行けるものでもない。今、私の趣味といえるのは、このブログ更新なのかもしれない。口の悪い後輩のI先生に言わせれば、「授業が趣味みたいなもんじゃないすか。」となる。(笑)あえて反論しないことにする。
 さて、記念すべき300回に何を書くべきか悩んだ挙句、結局授業の話にしようと思う。現代社会でアフリカ開発経済学をやっていて、農業について語っていることは昨日も述べた。アフリカの農業は内向きの穀物自給型で、決してモノカルチャー型ではないというのが、第1テーゼである。その穀物も、自給できず輸入に頼っているというのが第2テーゼなのである。で、私は、メイズやミレット、ソルガム、キャッサバなどについて語るのであるが、生徒諸君にはどうも実感がわかない。そこで、この金曜日にマルチメディア教室(コンピュータ教室)で、パワーポイントによる授業をすることにした。どうせならアフリカの画像をどーんと見せようということで、ここ2・3日、コツコツと作っていたのである。ここにブルキナで食べた料理やケニアの農家の様子などを入れたのである。その内容を少し紹介したい。 まず私が一番おいしいと感じたプゥレ・クスクス。クスクスというのは、地中海沿岸の小麦で、硬質小麦である。イタリアなどではパスタになる。これを塩とブイヨンで味付けしたものと、プゥレ(鶏)を袋に包み蒸しあげたたものである。クスクスは、おそらくブルキナでは作っていないのではないと思われるので輸入物と推測する。(荒熊さん、間違っていたら指摘してください。)さらに、アチャケ。これはキャッサバ(根菜類、要するにイモである。日本ではタピオカとして輸入されている。)写真のアチャケは、その上に魚が乗っている。この身をほぐして食べる。食感はちょっとシャリシャリ。最後は、ミレット。アフリカを代表する雑穀である。うーん、まさに見た目も食感も鳥の餌と言う感じである。決してまずいとは思わないが、カロリーは低くそうなので、これを主食として農作業するのはキツイと私は実感した。アフリカの人びとは凄いのである。
その他にも、ブルキナの赤い土、Iさんの詩「バナナ売りの少女」(5月27日付ブログ参照)を彷彿とさせるゆで卵を売っていた少女の写真、さらにナイロビの水虫(2月15日付ブログ参照)など授業中にした様々な話の証拠写真集となっている。全60枚の大作になってしまった。時間があれば、今は亡きピーター・オルワ氏のVTR(JAMBO BWANAを歌ってる金沢のT先生撮影によるもの/2月16日付ブログ参照)を見せたいと欲張ってしまう。結局、細々と解説していると授業時間がなくなってしまうので、コメントを1つ1つ入れることにしたのである。今から楽しみだ。こんなことをしているから、授業が趣味などと悪口を言われるのである。(笑)

追記:よく見たら、昨日が300回目でした。マヌケな話です。それもまた面白いと思うので、タイトル等、そのままにしておきます。(笑)

2010年11月15日月曜日

スーパーコンピュータとTPP

今日、またまたこの3カ月、中国にGDPで日本が抜かれたとのニュースが流れた。私はさして驚きはしなかったのだが、このニュースには驚いた。スーパーコンピュータの性能で、中国が初めて世界No1になったという話だ。以下読売新聞の記事を挙げる。
【ワシントン=山田哲朗】スーパーコンピューターの性能ランキングを半年ごとにまとめている国際プロジェクト「TOP500」は14日、最新のリストを発表した。中国の国防科学技術大が開発した天津スパコンセンターの「天河1A」が1位を獲得し、中国のスパコンが初めて首位となった。
「天河」の計算能力は1秒当たり2566兆回。前回6月にトップだった米オークリッジ国立研究所の「ジャガー」は2位に下がった。3位にも中国の深センスパコンセンターの「星雲」が入るなど、中国は500位までに計41台が入り、米国(275台)に次ぐ第2のスパコン大国となった。一方、日本は東京工業大の「TSUBAME2・0」が4位に食い込むなど計26台が入り、国別ではフランス、ドイツと並んで3位だった。日本勢は2002年にNEC製「地球シミュレータ」で首位を奪ったが、04年以降は米国が盛り返し首位を守ってきた。(2010年11月15日 読売新聞)

もちろん、この世界は超・日進月歩らしく、日本も頑張っているので、また優位に立つと信じるが、この分野にまで中国が…と絶句するのである。先日NHKの番組で、中国に日本の企業をリストラされた技術者がどんどん流出しているという。彼らの頭脳を生かしさらに成長を続けている中国の姿にしたたかさと富の蓄積への執念を感じた。まさに龍である。

さて、今日アフリカの農業について、開発経済学的視点から説いていて(常設ページの”高校生のためのアフリカ開発経済学テキスト”を参照されたい。)、ちょっと生徒にTPPについてどう考えるか聞いてみた。農業の重要性を訴えた後だったので、是より否が多かった。うーん。難しいところである。この日本にとって第三の開国といわれるTPP、社会科教師としては、生徒に様々な正しい資料を提示して真剣に考えさせたい。彼らの世代こそ、今回のTPPへの対応によっては、影響をもろに受けていくからだ。日本は、これからどうなっていくのか。ちょっと読めない。グローバリゼーションの大潮流の中で、日本はどういう選択をするべきか。開発経済学の範囲が終わったら、TPPについて、模擬APECとかを開いて討議させてみようか、などと考えていたのであった。

2010年11月14日日曜日

リンカーンの親書と招き猫

 朝刊を読んでいたら、このAPECの日米首脳会談の際、オバマ大統領にリンカーン大統領から徳川家茂宛の親書のレプリカが贈られたとか。オバマ大統領は、リンカーン大統領を最も尊敬しており、大変喜んだとあった。ちょうど、同じような外交でのプレゼントの話を読んだ。今月新刊の新潮文庫の佐藤優『インテリジェンス人間論』である。それは、小渕政権の頃である。エリツィン側近で鼻っ柱が強いと評判だったネムツォフと対談することになった小渕氏が、佐藤優にアッと驚くような土産モノを考えるよう指示するのだ。佐藤優は、「招き猫」を提案する。ネムツォフが大の猫好きであることをちゃんと調べ上げていたのである。ワビサビがわかる人間ではないので、金箔ピカピカの招き猫がいいと言ったという。この土産で、日本政府が自分のことをちゃんと調査済みであることを知ったネムツォフは、小渕氏に敬意をはらったという。外交と言うのは、こういう神経戦でもあるのだ。
 外務省は、オバマ大統領がリンカーン大統領を尊敬していること(選挙区も同じイリノイ州である。イリノイ州には車のプレートにリンカーン・ランドの名がある。)を当然知って、そのようなプレゼントを考えたのだろう。これは、なかなかヒットしたように見える。ところで、徳川家茂は、第二次長州征伐の時、大阪で若くして客死した悲劇の将軍である。もしかしたら、外務官僚は菅政権の外交ベタに嫌味をきかせ、短命を望んでいるのかもしれない。これって深読みすぎるかなあ。

2010年11月13日土曜日

BLACK GOLDと構造的暴力

 今日は、前から楽しみしていたアフリカ映画祭に行って来た。大阪国際交流センターとJICA大阪の主催である。修学旅行の前日が第1回目だったのだが、大事をとって行けなかった。今日は、第2回目である。映画は、”BLACK GOLD”というエチオピアのコーヒー生産業の連合会会長を中心に、いかにコーヒー業界に「構造的暴力」が存在するかを扱ったドキュメンタリーである。2006年製作の作品であるようだ。コーヒーの国際価格(その中心となるのは、NYとロンドンの先物市場である。)の下落によって、エチオピアのコーヒー農家は、追い詰められ、連合会会長はフェアトレードを、先進国に訴えて歩いているのだが、現実は極めて厳しい。今日の画像は、その”BLACK GOLD”のHPのフォトギャラリーからお借りしてきたもの。彼女らは、悪い豆を選別しているところである。彼女らの1日の賃金は日本円にして約50円(今なら40円)というところである。もちろん、1kgのコーヒー豆の値段も私が考えていた金額よりさらに安い。ただこれは製作された2006年の話なので、あえて書かない。このような第一次産業の生産品は大きく値が動くからである。この映画で紹介される生産農家は、商品作物たるコーヒーだけを生産し、現金を得て暮らしている。この映画を見ると、まさにアフリカは、プランテーションで生きているかのように見える。現実は違うので、注意が必要だ。この映画の訴えたいところは、生産価格があまりに低く、栽培農家は著しく疲弊している。飢餓さえ起る。先進国は、利益を独占し、飢餓のエチオピアに食料援助を行っている。ならば、妥当な生産価格を支払い、ファトレードすればいいではないか!という訴えである。
 私は、フェアトレードについては、よく理解しているつもりでいる。ただ、グローバリゼーションの自由貿易がさらに進行する中で、この論理、いささか現実的には不可能のように思えてならない。たしかに、先進国の「構造的暴力」がまかり通っている。その構造に楔を打つことは賛成であるが、個々の生産地で、先進国の一部の「良心」と結び、この自由競争を回避するだけでは、問題は解決するとは思えないのである。
 この映画は、そういう意味で、構造に楔を打ち込むという意味合いを、ある程度持っていたと思う。結局のところ、地球市民的な意識のみが、この構造を飼いならすことができるような気がするのである。<BLACK GOLDのHP http://www.blackgoldmovie.com/

2010年11月12日金曜日

「ロボラ」のロールプレイ

 今日は、現代社会で、『ロボラ』のロールプレイをした。ロボラとは、ジンバブエでの名称だが、アフリカの結婚システムのことである。アフリカでは、一夫多妻制が普通である。ただ、この一夫多妻制、買婚とも揶揄されるように、新郎が、新婦の親に対し、牛や羊(都市では現金となる)を渡すことで成立する。このことは、男尊女卑の構造を生む。未婚女性は、親にとって商品となるし、既婚女性は男性の所有物扱いとなるのである。アフリカで、女性の識字率や就学率が低いのも、この結婚構造によると言えなくもない。一方、資産と力のある男性のDNAのみを残すという自然界の摂理であるともいえる。この是非も含めて、今日は、「ロールプレイ」という方法で授業をやってみた。ロールプレイとは、シチェイションと役割を設定し、その役になりきって語りあうことで、疑似体験する参加型学習である。実はこれまで何度もやっている題材である。久しぶりに実践というわけだ。役割設定は以下の6人である。よって、6人グループで行った。ジンバブエの文献を元に作っているので、固有名詞は正確、実際にありそうな名前である。

①結婚前の男性 マイケル・サカニョリ ハラレ生まれ。24歳。センカンダリースクールを優秀な成績で卒業した。現在は、ハラレのダウンタウンにあるスーパーに真面目に勤めている。給料は安いし、インフレが進んでいるのでロボラのために預金しているが、とても目標額までいかない。リンダと早く結婚したいが、ままならない。ロボラさえなければとは思うが、ロボラを払わないでリンダと結婚できるとは思っていない。

②結婚前の女性 リンダ・マジョ ハラレ生まれ。23歳。マイケルとは勤めるスーパーで知り合った。マイケルの稼ぎが悪くてなかなか結婚できないという理由の他にも、ロボラに対しては内心腹立たしい思いがある。母親は、父親に対して絶対的で、奴隷のようだと感じている。またロボラの収入を父親が当てにしているのも悲しいと思っている。だが、そんな思いを親にも彼にも言うことはできない。

③リンダの父親  ジョージ・マジョ カドマ生まれ。49歳。村で白人農場で働いていたが、若い頃ハラレに出てきた。今は食品工場に勤める労働者。子供は長女のリンダと次女のマリアン(17歳)、長男のマザーン(10歳)。リンダをセカンダリースクールのフォーム4まで行かせたのが自慢。マリアンも同様の教育を受けた。彼女らにかけた教育費を始め、養育費をロボラとして受け取るのは当然だと考えている。

④リンダの母親 アロイシア・マジョ カドマ生まれ。40歳。ジョージと結婚し、ハラレに出てからは屋台のサザの店の手伝いをしている。ロボラのおかげで、ずいぶんつらい目にあった。「お前のためにいくらロボラを払ったかわかっているか。」と夫から暴力を受けたり、離婚したくても自分の両親はすでにロボラを使いきっており、どうしようもない。リンダに同じような苦しみを受けてほしくないが、そんな事を言ったらどんな目に遭うか恐ろしいので黙っている。

⑤日本のNGOの女性(自分の名前をつけよう。男子は最後に『子』をつけよう。)大阪出身で、大学で政策科学を学んだ。アフリカ支援のNGOに参加し、ケニアやマラウイで女性の地位向上を目指して、識字率向上のための教室を開いてきた。ロボラに対しては、女性の人権問題として批判的である。ジンバブエには、白人向けの、ロボラを伴わない婚姻法も存在していることを、広く宣伝すべきだと思っている。

⑥日本のNGOの女性(自分の名前をつけよう。男子は最後に『子』をつけよう。)東京出身で、大学で文化人類学を学んだ。アフリカ支援のNGOに参加し現地で活動するうち、アフリカ人が安易に欧米の技術や経済的豊かさを求めていることに危機感を抱いている。アフリカには各部族の伝統や生活の知恵がある。たとえば、マサイ族では、男性は自分の家を持たない。ロボラによって得た3人くらいの妻の家を夜ごとに移動する。客人が来たら、妻の家に泊め、もし客との子供ができたとしてもゆるされる。子供は村全体でぞだてるからだ。ライオンや他部族との戦いの中で、男性が少なくなっても子孫を残す知恵であうと考えている。

 マイケルのつぶやきから、ロールプレイは始まる。まあNGO職員立会いの下の家族会議開始!である。A組もB組もこれが、すこぶる盛り上がってしまった。さすが3年生である。オヤジ役が、「イカンといったらイカン!」と熱弁をふるったりしている。(笑)約15分、楽しい参加型学習であった。結局、皆に聞いてみた。ロボラを是とするものはゼロ。否とするものは、各クラスで、5人から10人。残りは、アフリカの伝統文化を我々が否定することはできないのではないかという意見だった。

 前回、終了間際に、ケニアの”マライカ(天使)”という歌(スワヒリ語である)をCDで聞かせた。
Malaika nakupenda malaika Malaika nakupenda malaika

nami nifayeje kijiana mwenzio nashindwa na mali sina we ningekuoa malaika
日本語訳/ 天使 愛しているよ天使 私はどうしらいいかわからない。私はやぶれてしまいそう。 財産がない、私はあなたと結婚できない。

 今回の授業で、生徒諸君は、この歌の意味が理解できたのであった。

2010年11月11日木曜日

アフリカ日和 その5 マタツー

昨日は、少々体調を崩してブログをお休みしてしまった。(反省)「50を超えると、どうもイカン。」とは、今朝のK老師との会話である。学校では、早々と(と、いっても事務から見ればギリギリらしいが)来年の修学旅行・研修旅行の立ち上がりの委員会がもたれた。どうも体調がイカンなどとぼやいている場合ではない。(笑)明日は、またMW校の交換留学生3か月組が、4人関空に着く。1年生の家庭でホームステイ開始である。国際交流部は、今すこぶる忙しい。
 
さてさて、今日はまたまたアフリカの話を書きたい。現代社会の授業で、アフリカにおける農村と都市との移動の話をしていた。交通事情も悪いのに、彼らはよく移動する。ケニアの国道など、メンテナンスが悪くて、アスファルトにたくさん穴ぼこがあいていたりする。そこを猛スピードで車が走っていく。アフリカのドライブは、十分心臓に悪いのである。(笑)
 特に、ケニアには、マタツー(マタトゥー)という乗り合いバスがある。日本で言えば、トヨタのハイエースといった商業車が、小型のバスに改造されている。これが、ケニアの交通の主力だ。ナイロビ市内を循環するものや、郊外を結ぶもの、長距離といろいろある。私が、JICAで、ケニア視察旅行をした頃は、ちょうどスピーカーでレゲェをガンガン鳴らしながら走るペイントした派手なマタツーは禁止になった直後だった。早川さんの『アフリカ日和』には、そのマタツーのことが書かれていて、粋なあんちゃんの箱乗りとかを楽しみにしていたのだが、あまり見れなかった。その代わり、多くが日本車で、なんとか幼稚園とかのペイントがそのまま残っていたり、どこどこの消防署と書かれた救急車型もあったりで、何度も大笑いしたのを思い出す。そんな思い出話が、生徒は大好きなようだ。その乗り方も、アフリカらしく、満員すし詰めで、ヤギを車中に乗せたり、ニワトリを抱えて乗る奴もいるし、長距離のものなど満員になるまで出発しない。だが、ポレポレ(ゆっくりいこう)なのだ。そう、何事もポレポレ。それでハクナマタタ(問題ない)。アフリカの人びとの、そういうたくましさが私は大好きだ。何人か、是非乗ってみたい!と言ってくれた。いつの日か、実現させて欲しいなと思う。
<今日の画像は、Googleで集めたマタトゥー図鑑といったところ。参考までに。>

2010年11月9日火曜日

風の強い日はシカゴを語ろう

今日は、やたら風の強い日であった。風が強いと言えば、シカゴである。シカゴはミシガン湖からの風が強く、大火にあって一度焼け野原になっている。その時の市長がコンベンションをやって、今の摩天楼を作っていったという歴史がある。風の中、外で喫煙していて、今日あたり、アメリカ研修旅行の国流通信速報版について書こうかなと思ったのである。
 担任のT先生より、写真のメモリを預かり、パッパッパと作り、玄関のイーゼルに張っておいたのだが、生徒諸君、特に英語科の2年生が喜んで見てくれている。その証拠に、毎日コアラの位置が変わっている。(もちろん今も3匹元気である。10月5日付ブログ参照)ありがたいことだ。
 さて、今日は中国修学旅行・アメリカ研修旅行の実施を終えて、来年度へ向けての付き添い教員による反省会が開かれた。その内容はブログで公開することは、当然出来ないが、様々な議論があった。
  こうした旅行だけでも、多くのドラマがある。ネコブル(トラブルと呼ぶほど大きな問題でない故に猫ブル)もたくさん起る。それらをうまく乗り切っていかねばならない。こうした経験知は、必ず次につながっていくのである。「金八先生」などには決して描かれない地道な世界だ。

 恥かしながら、今朝は睡眠不足で、ウトウトしていたら、京橋で乗り過ごしてしまった。気がつくと地下を電車が走っていた。(学研都市線から東西線に入ってしまっていた。)初めての経験である。結局、大阪天満宮から谷町線で学校へ向かった。と、いうわけで今日は早寝をすることにした。今日のブログはここまで。(笑) 

2010年11月8日月曜日

ジンバブエ・ハラレの公園にて

 今日の現代社会・アフリカ開発経済学の授業で、バズ・セッション形式でワークショップをした。お題は、私のジンバブエでの経験である。<今日の画像はハラレの街角>
 首都ハラレの公園。私はベンチに座り、煙草をふかしていた。そこに、小学1年生と4才くらいの兄・妹がやってきた。周りには人影も少ない。彼らは黙って私に手を差し出した。まあ、子どもの乞食といっていい。身なりはそれほど汚れていない。私は、ポケットにあった飴を手のひらに置いた。子供は、ニコッと笑って自分のポケットに入れてから、もう一度手を出した。お金が欲しいわけだ。さて、皆ならどうするか?という問いかけである。6人グループでワイワイと討論していた。なかなか盛り上がる。さすが3年である。男子のいるA組は特にノリが良い。順番に結論と、その理由を発表してもらう。
 素直にあげると言ったグループが、2/6。他は、たとえばゴミを捨ててきてもらって、その対価としてお金をあげる。など、素直には渡せないとしたグループが3/6。残りの1グループは面白い答えであった。その手を握って愛を送るというものである。なんじゃそれ?
 当然、正解などない。ただ私は、その時、お金をいくばくか渡した。親が陰でいることはわかっている。だが、こんなかわいい子どもたちだ。あげていい。別にあげたからといって、インドのように膨大な数のバクシーシが集まってくるわけでもないのだから。これは、彼らのインフォーマルセクターなのである。生徒は、純粋に金をいうものは、労働の対価である、と考えている。金をめぐむのは親も子供も堕落していくのではないか、という危惧を表明した班もある。想定内の回答だ。ただ、私は、そういう考えを否定はしないが、先進国の勤勉を普遍的に捉えている奢りだと感じている。彼らに仕事はないのだ。だから、こうして食いつないでいるのだ。富める者が貧しい者に施すのは当然であるし、貧しい者が富める者にたかるのも当然である。これが途上国のスタンダードである。私は、貧乏バックパッカーだったが、彼らにとっては大金持ちである。だから、子供のかわいさにお金をあげて当然だ、と私は思う。日本的な常識はアフリカでは、高慢である。
 情の経済を説き、ハクナマタタやポレポレを語り、今日は終わった。気がつくと、Yシャツだけになり、腕まくりをし、汗までかいていた。、いつも、「7時限目だしまあ、今日も適当に頑張ろう。ジャンボ!ハバリ?」で始まる。みんなダラーと「ジャンボ!ムズリ!」と答えて始まるのだが、結局のところ、毎回気合いが入ってしまうのであった。…変な授業をしていると自覚している。(笑)

追記:今日OGで韓国籍のP君がやってきた。韓国の大学で国際関係をやることが決まったらしい。しかも、入学までに、知人の外交官が最近ジンバブエに赴任したということで、見聞を広げに行くつもりらしい。嬉しいなあ。是非とも肌で、アフリカを感じてきて欲しい。

2010年11月7日日曜日

奈良の秋の夕暮れは…

 今日は奈良へ家族4人でドライブしてきた。昼前に出たので、日曜日の奈良市内は駐車場が見つからず、ウロウロしていた。結局東大寺の西側にやっと駐車して、大仏殿から二月堂まで散策したのであった。鹿とたわむれ、見事な紅葉をめでながらの豊かな時間であった。<左の写真は、二月堂から下る奈良の道>
 東大寺の裏手に工場跡(どう見ても元校舎のように見えた。)の喫茶店があって、面白そうなので入ってみた。オーガニックの雑貨店もあって、ネパールの厚手の靴下や、ファトレードのチョコレートなどがあってなかなかいい。なにより、カリンバの音色が流れているのがいい。
 息子たちは、来年にはイギリスに旅立つという。ロンドンのユダヤ人街で住みかを見つけ、大英博物館に足を運びながら、英語をスキルアップし、ヘブライ語も使いながら、夏のイェルサレム行きに備えるという計画らしい。ふーん。なかなかいいアイディアではないか、と妻と共に相槌をうった次第。私はカフェオレでほっと一息したのであった。

 さてさて、この喫茶店のトイレには、おもしろい装置があった。ひもを弾くと、むき出しになったCD(取り換え可能)が動きだし、音楽が流れるのである。イーグルスだった。妻が、最初に発見して喜んでいた。<左の写真は、喫茶店の入口。おしゃれである。>
 
 秋の夕暮れは、釣瓶落としである。みるみる暗くなっていく。ちょっと停滞した道をテールランプを見ながら帰宅するはめになった。家に帰って、先ほど買ったフェアトレードのチョコを食べた。糖尿病への配慮で、ビター、ミルク、ナッツそれぞれ1/3ずつ、分けてもらったのであった。(笑)

2010年11月6日土曜日

小説:山椒魚戦争のリアリティ

 カレル・チャペックの『山椒魚戦争』をやっと読み終えた。「アフリカから学ぶ」があまりに面白くて、つい読んでしまうはめになって、さらに遅くなったのである。では、『山椒魚戦争』は面白くなかったのかと言われると、これが面白いのである。ただ、岩波文庫で字がすこし小さめなうえに、この小説は脚注や割注が多いので、さらに字が小さくなっていて、老眼の身には辛かったのである。(笑)この小説は、前に述べたが、佐藤優の獄中記(岩波現代文庫)の終りの方(P436)にある外務省の後輩へのメッセージの中で読むことを勧める文章がある。あらすじや、佐藤優の印象に残った箇所などを示した後、「この本を読めば、ロシア、ウクライナ、そしてヨーロッパのインテリと話をする時のいい材料になる。」と結んでいる。と、言うのも、カレル・チャペックは佐藤優の本来の専門であるチェコの作家であるからだ。
 あらすじを、私なりに書いてみたい。時間設定は、きっちり書かれていないが、この作品が新聞で連載(実際の掲載はナチによるチェコスロバキア併合の2年前)されていた第二次世界大戦前。インドネシアで、山師的な船長が知恵のある山椒魚を発見し、彼らに真珠を取らせることに成功する。やがて、その船長は故郷のチェコ在住のユダヤ人実業家に、山椒魚を利用したビジネスをもちかけ、それが、やがて国際的に大きく発展することになる。山椒魚は、護岸工事や埋め立てなど海中の仕事をこなすようになり、サメなどから自らを守る銃を身につけ、人間の作った爆薬類を使用できるようになった。このビジネスは飛躍的に拡大し、山椒魚を増やすビジネス、あるいはその食料をまかなう農業ビジネス、工事用のあらゆる工具・爆薬などのビジネスも生まれ、世界各地に飛躍的に拡大するのである。一方、この知恵をもち、言葉(英語である:英語が最も単純な言語だという揶揄だと受け取れる。)を話す山椒魚の存在を、ある者は認め、教育を施し、彼等の権利を主張する。一方あくまでも家畜の範疇に収めようとする者もいた。やがて、山椒魚は飛躍的に増加し、彼ら自身が生存するために、人間と戦わなければならない状況に追い込まれる。イギリスを中心とした反山椒魚国家は、ついに山椒魚の要求を入れないゆえに戦争となる。戦争は、結局山椒魚側の勝利に終わり、地球上の陸地は、彼らの優れた土木技術によって、多くの土地が破壊され海となり、海岸線が莫大に伸びることになる。内陸国チェコに住む、山師的船長とユダヤ人企業家のアポをとった老人が、身近に山椒魚を見て、ここも海になるのかと絶望するところで、この物語は終るのである。

 この小説、もちろん全てフィクションなのだが、妙にリアルなのである。世の中には、様々な考え(ここではかなりヨーロッパの臭さを感じる)をもつ人びとがいる。彼らが、このリアリティのないストーリーの中で、彼らの主張を展開する。それが面白い。もし現実ならこういう人が出てくるだろうと妙に納得するのである。面白いのは(本当は面白くないのだが)、日本や中国の扱いである。山椒魚戦争の直前、山椒魚側の弁護士とヨーロッパを中心とした首脳会議では、日本を明らかにアジアの一等国としてヨーロッパのモノマネをする自分の意思のない脇役と設定している。また中国にいたっては、戦争回避のため、山椒魚に割譲する土地として中国中部を提案している。中国代表の異議申し立てなど、誰一人聞こうとしなかった。日本の福建省だけは日本の権益があるのでダメだという反対には耳を貸す。山椒魚側の弁護士は、中国代表が話続けてけているのに、こう述べる。「我々は、日本にその代償を金で支払う用意がある。問題は、中国を抹殺する作業への謝礼として関係諸国は何を用意するかだ。」

 このえげつないリアリティ。外務官僚に佐藤優が読むよう勧めた理由がここにある。外交とは何か。政治とは何か。社会思想とは何か。人権とは何か。また科学とは何か。そして資本主義とは何か。様々な問いかけを、読む者に矢継ぎ早にしてくるような小説であると私は思う。

2010年11月5日金曜日

海瑞罷官を評す?

昨日は、飲み会で帰宅が12時になってしまい、結局ブログを更新できなかった。本当は、昨日は4日付の毎日新聞朝刊の木語というコラムについて書くつもりだった。(私は朝が早く、どたばたしているので、朝刊を見るのは、夕刊ともども夕食後というのが普通である。)そのタイトルは、「危うし中国の温家宝首相」である。要旨を述べると、次の如くである。

温首相が菅首相との会談を拒否した2日前の人民日報に温首相を攻撃する論文が掲載された。「根本を正し、根源を清める」という意味をもじったペンネームの署名入り記事で、「正しい政治の方向に沿い、積極穏健に政治体制改革を推進せよ」という長いタイトルだった。「政治の正しい方向」とは、硬直した社会主義であり、「積極穏健に政治体制改革を推進」とは改革をやるなという風に読めると、香港紙は注目している。論文は、暗に温首相の『民主化重視』や『政治改革の停滞と後退は人民の意思に反する』と言ったことに、かみついた後、「四つの堅持」を主張している①共産党指導の堅持②社会主義制度の堅持③中国の特色ある社会主義発展の道の堅持④手順漸進・着実推進の堅持である。要するに、政治改革など必要ないというわけだ。
一方、同じ日に新華社(通信社)が、胡首席と次期国家主席と目される習副主席が、国防大学の党員と懇談している写真を配信した。2人とも、軍事委員会の制服、人民服である。香港紙は、先の人民日報の記事と新華社の配信から、温首相の政治改革を批判する背後の勢力は、軍ではないか、と微妙な論調で伝えている。

私が9月25日付のブログで書いた、「紅」から変化した「中華ナショナリズム」、要するに人民解放軍が、温首相をゆさぶっているのではないかという私論が、現実味を帯びてきたわけである。私は推察が当ったと決して喜んでいるわけではない。軍という存在は、いつの時代にも、豊かではない集団・階層によって主に構成されてきた。彼らの不満が、ヒシヒシと伝わってくる。

今日のNHKニュースで、「にんにく」の異常な値上がりについて報道していた。需要と供給のバランスではなく、比較的保存のきく食品故に、投機によって値上がりしているのである。その投機筋は中国の「小金持ち」と呼ばれる人びとらしい。たしかに異常な事態である。内陸部の負け組から見れば、中国の革命とは何だったのかという憤慨が起るのは理解できる。

文化大革命も、姚文元の「海瑞罷官を評す」から始まった。中国は少なからず、また「紅」に、ゆれもどるのだろうか。その時、世界は?と私は、ちょっと大げさに危惧するのだが…。

2010年11月3日水曜日

アメリカ研修旅行団帰国の報

今夕、アメリカ研修旅行に行っていた英語科2年生が全員無事帰国したとの連絡を受けた。このアメリカ研修旅行、航空路線は、毎回異なるが、アイオワ州デモイン空港について、その後U校生徒宅でホームスティ、その後シカゴで半日観光して1泊、早朝にオヘア空港を出て、日本に帰国という大まかな日程は変わらない。私の時は、ユナイテッド航空が午前中は団体客を乗せないと直前に発表し、大騒ぎして航空路を変更、伊丹早朝(7:30)発のANAで成田へ飛び、ANAのシカゴ直行便を利用、オヘアからデモインへ飛んで、昼には着いていたのだった。今年は、昼のユナイテッド航空関空発、サンフランシスコ経由シカゴ経由デモインである。デモインに到着はかなり遅い。疲れたであろうと思う。
 さて、私の時(4年前)、U校を朝バスで出て、R80を一路シカゴへという日程にした。途中、イリノイ州に入る前にミシシッピを渡る。とはいえ、まだまだ上流なのであまり実感がわかない(笑)シカゴでは、科学産業博物館に入り、館内のフードコートで食事をとることにした。レストランで食事する時間がもったいないと私は思ったのである。アメリカの博物館は、日本とはかなり違う。なにより写真撮影OKなのが凄い。私は、これまでアメリカで航空博物館を中心に様々な博物館に入ったが、このシカゴ科学産業博物館は5指に入る。なにより、Uボートである。9月28日付のブログでも触れたが、潜水艦を間近で見れるという体験は日本ではあまりない。(ニューヨークのイントレピット航空宇宙博物館や、サンフランシスコ、ボルチモアにも潜水艦の展示があるが…)美術部の英語科2年生には、「是非見ておいで」と言っておいた。<今日の画像はそのUボートである。>その後夕闇せまるシカゴの摩天楼を一望して、空港近くのホテルへ向かうのである。私の時は、ここにシカゴ大学のBOOKSTOREが入っていた。シアーズタワーに昇るのもいいが、時間がないのである。無茶苦茶もったいないが…。シアーズタワーから、東を見るとミシガン湖が海のように広がり、南を見ると、スラム街が広がり、西を見ると遥か地平線が、そして北を見ると、ビッグジョンを始めシカゴの摩天楼が一望できる。(まあ天気にもよるけれども…。)研修旅行の目的は、あくまで語学研修である。ホームステイして自分の会話能力を試し、これからの学習につなげるのが第一である。また是非シカゴに来るようにすればいい。シカゴは全米の交通の要所である。また来る機会も必ずあるはずだ。そう言ってごまかしたことを思い出す。
 さてさて、2年生の英語科の諸君は、どういう感想を持ったのだろうか。楽しみである。

2010年11月2日火曜日

「アフリカから学ぶ」に痺れる

 最近疲れ気味なのか、読書のスピードが遅い。中国修学旅行直前に買った「山椒魚戦争」がやっとこさ佳境に入ってきた。次の本を探しに京橋のK書店に寄ったら、凄い本を見つけてしまった。いつも寄る国際関係の書棚にあった有斐閣の本である。ちょっと高い。2300円+税。編者は、峯陽一先生である。峯先生は、『現代アフリカと開発経済学』の著者である。この本は、私が数年前にアフリカ開発経済学を学びだした時に読んだ。いいじゃないか!しかも、先日このブログで推した『アフリカ学入門』の編者、松田クラーセンさやか先生も第14章に寄稿されている。さらにいいじゃないか!と、いうわけで買った次第。9月15日に発行とある。1か月半の間、損した気分である。ちょっと、各章のタイトルだけ挙げてみる。
 第1章 アフリカの歴史から学ぶー人間の「進歩」とは何だろうか
 第2章 アフリカの独立から50年ー内側から見たアフリカの動態
 第3章 アフリカ史と日本
 第4章 アフリカ史を読み解くー女性の歩みから
 第5章 冷戦後の紛争はなぜ起きたのかーアフリカの紛争から学ぶ
 第6章 人道支援や平和構築の智恵ー難民・避難民の視点で考える
 第7章 ルワンダにおける元戦闘員の社会復帰の試みーDDRと和解促進の関係
 第8章 ジンバヴェー「紛争国」の農村で暮らす人びと
 第9章 アフリカ農村再生への道ー「コミュニティ」開発の可能性を探る
 第10章 アフリカ経済は持続可能かー資源、製造業、南アフリカ
 第11章 アフリカの教育と子どもたちの未来
 第12章 エイズとともに生きる人びとーアフリカ的連帯
 第13章 分権化と社会ー東アフリカからのメッセージ
 第14章 変貌するアフリカ市民社会と日本の私たち
 第15章 アフリカに求められている援助とは?

 凄くいいラインナップである。京橋から津田まで、約40分間、峯先生の書かれた序章と第1章を一気に読んでしまった。凄いのである。あまりに凄いので、序章から、ちょっと引用したい。 
 『編者としては、アフリカに関心を持ち始めたばかりの人たちにこそ、アフリカの多面的な魅力をまるごと感じ取ってほしいと願っている。アフリカが好きな人は、アフリカを一方的に変えようとはしないし、アフリカを利用して自分だけが利益をあげようともしない。むしろ自分が出会ったアフリカとの関係を大切にしながら、アフリカ人に自分が感じた事を伝え、変化するアフリカに寄り添い、アフリカの経験から学び、自分の生き方を反省していくはずだ。その結果自分の価値観が大きく変わってしまうこともある。』
 『私たちは、そんな学び、気づき、省察のプロセスに1人でも多くの読者を巻き込みたいと願って本書を編んだ。だからこそ、本書のタイトルは「アフリカから学ぶ」になっているわけである。(中略)それぞれの章のコアにあるのは、「自分はアフリカからこんなことを学んだけれど、皆さんはどうですか」、というメッセージである。』

 凄い文章である。私は、電車の中で感激していた。峯先生の一言一言が胸に沁みる。業界風に言えば、先日推した『アフリカ学入門』は、もの凄く良く出来た教科書であった。この『アフリカから学ぶ』は、そのスタンスから、もう一歩進めた副読本という感じである。第1章に書かれていたことは、私の『高校生のためのアフリカ開発経済学テキスト』にも載せている内容であった。アフリカ人は我々が考えている以上に、人口密度が低く、広大な大地を比較的簡単に移動してきた。これを峯先生は「遊動」という語で表現されている。…凄い。感激した。マラウイには、「世界をつくるのは人間だ。叢林にはその痕跡がある。」という諺があるという。「遊動」…いい言葉である。アフリカを理解するためのキーワードの1つである。第1章を読んだだけでも、このとおりである。私は、この本にすっかり痺れてしまった。

2010年11月1日月曜日

アフリカ日和 その4 マサイ断片

 今日、現代社会でアフリカ開発経済学をやっていて、なんとなくマサイの話になった。私のマサイの話は、だいたいがピーター・オルワ氏や早川千晶さんの受け売りである。(笑)現地で聞いたり、梅田の道祖神での早川さんのセミナーなんかで聞いた話である。生徒は、さすがにケニアの60あると言われる民族の中でも、マサイだけは知っている。マサイの伝統文化は、なかなか面白い。
 マサイは、牧畜民であり、牛を何よりの財産だと考えている。牛といっても日本で一般的なホルスタインのような牛ではなく、こぶのあるセブ―という乾燥に強い牛である。羊やヤギも飼っているが、これは財布代わり。財産である牛を失うことは彼らにとって大きな責任問題である。ライオンに襲われたなら、その責任として、とにかくライオンを一頭仕留めなければならない。マサイの戦士の掟である。2人1組で、ライオン狩りは行われる。マサイといえば、長い槍である。この槍で仕留めるのだが、彼らは絶対に槍を投げたりしない。1人が、ライオンの口に棒を突っ込み、もう1人が槍で突くのである。かなり過激だ。ライオンは、サバナでマサイに合うと目をそらすらしい。(笑)
 ライオンを仕留めたということは、大いなる栄誉である。ある時、イギリスの貴族がマサイの村を訪れ、自分がいかに金持ちでしかも名誉を手にしているかを自慢したらしい。その時、マサイの長老は、こう言ったそうだ。「おまえは牛を何頭持っている?俺は200頭だ。」「お前は、何頭ライオンを仕留めた?俺は2頭だ。」イギリス人貴族は、牛を持たず、ライオンも仕留めた事がなかった故に、長老にこうたしなめられたという。「なんだ、大したことないな。」
 マサイの三種の神器を早川さんに教えてもらった。それは、懐中電灯、ラジカセ、そしてスニーカーである。あれから5年ほどたつ。今は携帯電話が入っているかもしれない。早川さんに言わせると、「よくわからないんですね。マサイにもいろいろいます。学校を出て、ビジネスをしているマサイもいるし、自転車に乗ってるマサイもいるし、伝統文化を守るマサイもいるし…。」ということになる。マサイの成人儀式(戦士になる儀式)の話も聞いた。長老の命で、マサイの戦士は過酷な試練に挑戦する。ピーターは、もし、独立戦争の時、マサイが権力を求めていたら、ケニアはマサイのものになっていたに違いないと言っていた。マサイは、ライオンだけでなく、他の民族にも畏怖されているのだった。彼らは、そうはしなかった。権力よりも牛が大事だったのだろう。だから、彼らは、マサイマラ(ケニアの国立公園)とセレンゲティ(タンザニアの国立公園)の間にひかれた国境線など関係なく暮らしているらしい。<今日の画像は、ケニア視察の時、友人のM先生が超望遠で撮ったマサイの写真である。まだ羊やヤギだけで、槍も持てず、牛の放牧を任されていない少年だ。だが、視力4.0の彼らは、写真を撮られたことに気づいている。戦士でなくとも、この存在感がマサイなのである。>

追記:今日は、OGのE君が、来年3月からのアメリカ留学の書類を取りにやってきた。着実に頑張っているようだ。国際金融学をやっているそうな。「援助じゃアフリカは発展しない」を知っていた。さすがである。最近は、ほとんど英文を読んで英文で書いているそうである。大したもんだ。退職されたU先生が聞かれたらさぞかし喜ばれると思う。