2011年2月28日月曜日

たこ焼き屋のおっちゃん 閉店

孫自慢・息子自慢のたこ焼き屋
  私が本校に来た時、新聞委員会の係となった。新入生歓迎号で、3年生が近隣のイラストMAPを描いてくれた。そこに、空堀商店街にある『たこ焼き屋』さんのことが載っていて、「おいしい!」「お好み焼きもあるよ!」「イカ焼きも!」「夏は絶対氷イチゴ!」などとコメントが書かれていた。ある意味、本校生にとって大きな存在だったのである。(最近、松屋町駅の方に、新しいたこ焼き屋やクレープ屋が出来て、そっちに行く生徒も増えてしまったが…。)
 私は、仲のいいY先生と、よく「焼きそば(大)」を昼食用に買いに行っていた。Y先生が大好きだったのだ。この焼きそば、最初は550円だった。ところが、2年ほど前から500円に下がった。おっちゃんに聞くと、「デフレやから、下げましてん。」とのことだった。デフレーションをあれほど印象深く感じた事はない。この焼きそば、おっちゃんはシステマチックに作り上げる。最後に、どうしてもカツオブシをふりかけるのだ。大体、Y先生のから作る。味を濃い目にというのがY先生の要望である。(笑)続いて私のだが、私の要望は、『絶対・カツオブシ抜き!』なのである。一度だけふってしまったことがあって、おっちゃんが大いに慌てたこともある。(笑)
 Y先生と2人でよくタバコをふかしながら、おっちゃんと世間話をしていた。おっちゃんの自慢は、息子と孫である。凄い進学校出身のエリートサラリーマンと、輪をかけたような優秀な孫。聞くと、息子がもう引退してほしいと松原市に家を建ててくれたんだそうだ。

 『空堀かるた』の句を募集していた時、私は「孫自慢、息子自慢のたこ焼き屋」という句を作った。結局、選にもれたのだが、おっちゃんは、「こんな句があったらしいんですよ。」と嬉しそうに句を詠んだ。「あのー。それ私の句です。」と言うと、大笑いしてくれたのだった。

 スーパーEのまん前、古いガラス棚にプラモデルが飾られ(おっちゃんは、昔小学生とプラモ同好会をやってたらしい。)、何年も前の相撲の番付が壁に貼られた、あまり綺麗だとはいえない店が閉まる。古くから本校と共に歩んできた庶民の歴史に、今日ピリオドが打たれた。おっちゃんの豊かな老後を祈るばかりである。

2011年2月27日日曜日

教え子の友人 ブルキナへ

ブルキナ・ワガのIさんの『和が家』開店前の様子
 1月31日のブログのコメントで、パリ留学中の教え子から熱い友人を紹介された。彼は、アフリカの幼児教育やその保健体制に興味を持っている学生で、院への進学を考えているとのこと。その後、メールをもらって、ちょっとアドバイスをした。
 国際協力に携わる意志があるのなら、学びと現地での経験をオーバーラップさせる必要がある。学んだことを現地で経験し、さらに学びの必要性を感じて、また学ぶ、そしてまた現地へというスキルアップが必須の世界だということを伝えた。もし、よかったら、ブルキナに行ってきたら?とコメントした。ブルキナの赤い土、I氏にお願いしてあげるよと。
 彼はさっそく、I氏と連絡を取ったようだ。私もI氏とも連絡を取り合い、4月にもブルキナへ行くようである。I氏も私の熱意が、教え子を通して彼に伝わったことを喜んでいただけた。きっと、I氏は彼の将来を見据えて、様々な人との出会いをアレンジしていただけるだろうと思う。私にそうしていただいたように。 

 なんだか嬉しい。彼の関心が幼児教育にあるようなので、ブルキナに短期のJOCVでいかれた立教大学のIさんも彼に紹介した。私は、その方面は全く門外漢だし、その方面で最良のアドバイザーだろうと考えたのだ。ちなみに、私はIさんとお会いしたことはない。ピーター会(JICAケニア教員研修旅行の仲間)で一緒させていただいたN女子大付属のM先生から紹介を受け、何度かメールのやり取りをした関係である。私の1ヶ月後、ブルキナに行かれた方だ。きっと力になっていただけると思う。

 決して多い人脈ではないのだが、やはりこういう人脈が、大事なのだと思う。最近、本校の将来について、後輩の口の悪いI先生や君子のT先生、私の長年の参謀であるU先生たちと語り合う事が多い。結局彼らに私が言う事は、『人は石垣、人は城』という武田節の一節になってしまう。人が全てを決する。人間力を磨かなければ、石垣にはなれない。心しておきたい。

2011年2月26日土曜日

ザンビアの農村の話 続編

C村のダンボの画像
 昨日の島田先生の『現代アフリカ農村-変化を読む地域研究の試み-』を読んでの続編である。このC村を島田先生が調査対象に選ばれたのは、ダンボと呼ばれる湿地帯の農業利用と環境悪化につて調査を希望されていたからである。ダンボは、南アフリカに広く分布する低湿地帯で、雨季には中心部が冠水し、地下水位が他の土地より高いため、乾季に入っても草が枯れずに生い茂っている。島田先生がこのダンボに引かれたのは乾季に野菜栽培が可能な有用な土地であること、利用次第では容易に土壌侵食するような「脆弱な」環境であるという二点である。
 C村では、このダンボの周囲の土地(アップランド)でメイズ(トウモロコシ)を雨季に栽培し、乾季には、ここでトマトなどを栽培している。そういえば、アフリカのウガリ系の主食(2月5日付ブログ参照)には、トマトソースがよく使われる。

 メイズの価格も、94年に価格自由化されると、大きく変動した。IMFなのどの構造調整政策は、C村にも影響を与えているのである。収穫直後の4月から6月は供給が多いので価格が下がり、収穫前の1・2月は最高値になる。これに、地域格差が重なるらしい。同じ時期でも大消費地から離れれば離れるほど販売価格が低下する。商人が輸送費を差し引くからである。なるほど。
 トマトは、さらに変動が激しい。出来の善し悪しと鮮度が価格に直接影響するのである。収穫日と商人の買い付けのタイミングが上手く合えば高値で売れる。下手をすると投げ売りになってしまう。しかし、おそらく最近は携帯電話の普及で効率的になってきているとは私は思う。この辺、アフリカンモバイル、万歳である。

 ところで、1990年から2000年の統計で、世界で最も森林破壊面積が多いのは、ブラジルで、インドネシア、スーダンと続き、4位にザンビアが登場する。意外であるが、その謎解きが、この本には書かれている。昨日も述べたが、ザンビアの農業は、首都ルサカを中心に南北にのびる元白人入植地が農業の中心である。その周囲には森林保護区がもうけられてきた。さて、このザンビアの土地に関する規定は、エスニックグループの長と村長の許可による耕作が基本である。我々から見るとかなりゆるやかな規定だ。しかも村長と村人の人間臭い争いもある。気に入らない村人を追い出すという場合もあるらしい。昨日書いたように2代目の村長の急死で村を出る者もいる。古くから入植している者もいれば、新参者もいる。しかも彼らは多重婚であり、世帯はどんどん分化していく。結婚で新たな世帯を作る者もいるし、未亡人の家族も出るし、彼が生きていくためには、必要な耕作面積を確保しなければならない。そこで、森林保護区を開拓し、耕地を増やしていったのだ。昔は保護区を守る役人がいて、きびしく取り締まったらしいが、首長が保護区開拓の許可発言をしたという流言から、一気にそれが加速したらしい。島田先生は、C村内の人間関係まで調査しつつ、その過程を明らかにしていく。ダンボでのトマトなどの現金収入の差は、世帯の経済格差を生む。森林保護区での耕作は、市場への距離が生まれ、販売価格は低いが村内より広い耕地をもたらす。様々な各世帯の思惑がうごめいているわけで、なかなか興味深いのである。

 人間は生きていくために自然を破壊せざるを得ない。先進国にいて、大量に資源やエネルギーを無意識に消費している我々が、彼らの森林破壊を詰れるだろうか。私は、誰も乗っていないのに、いつも動いている地下鉄のエスカレータを見て、そんなことを考えている。

2011年2月25日金曜日

ザンビアの農村の話

先日の京大のアフリカ研の公開講座の時、島田先生の『現代アフリカ農村-変化を読む地域研究の試み-』という本を購入して、今日読み終えた。前回の講座で、島田先生が話された内容を完全に補てんする内容で、なかなか面白かった。書評というよりも、印象に残った事を書き残しておきたい。

まず面白いと思ったのが、ザンビアの植民地以来の発展のカタチである。ザンビアといえば「銅」だが、この銅鉱山、現コンゴ民主共和国からみれば尻尾、ザンビアからみれば、国の中央部の窪みのようなところにある。宗主国イギリスは、ビクトリアの滝からリビングストン、首都のルサカ、カプウェ、ンドラを結ぶ鉄道を建設した。この鉄道沿いこそが、白人入植地(王領地と信託地)であった。現在もインド系のザンビア人や南ア系白人の大農園が多いそうである。イギリス政府は、入植者がもっと入ってくると思ったらしいが、案外集まらず、鉱山の労働者への食料供給地として、原住民であったレンジェ人(正確には、レンジェ人の首長)に託されたらしい。島田先生が長年調査されたC村は、ルサカの北、カプウェの南45kmの国道沿いにあるという。ちなみにザンビアのJOCV、桐生さんの赴任地だるマザブカは、同じ国道沿いで、ルサカの南に位置するわけだ。
ところで、ザンビアは昔北ローデシアと呼ばれ、現ジンバブエの南ローデシア、現マラウイのニヤサランドと共にイギリスの植民地だった。「高校生のためのアフリカ開発経済学テキスト」にも書いたのだが、アフリカの人々は、意外にもよく移動する。一族や世帯、あるいは個人の場合もある。このC村にも、ジンバブエからショナ人やンデベレ人が土地を求めて移住してきていたりする。当時のC村の村長が認めて、土地を配分したのである。このあたりの牛耕は、ショナやンデベレの人々が白人農園のスキルを学び、ここへ移入したのだと言われている。多民族共生の地なのである。

このショナ人やンデベレ人を向かえ入れたC村の村長は、実は2代目で、なかなか人望のあった人らしい。だが、彼は急死するのである。畑仕事をしていて、急に下腹部に鈍痛を覚え、さらにみぞおちに激痛が走り、しゃっくりが止まらなくなった。近くの病院に行き、レントゲンも撮ったが異常はなかった。結局意識がなくなり6日後に亡くなった。亡くなった時に口や鼻、耳から大量の血が流れ出し、それを拭き清めていた時に皮膚がペロリと剥がれたという。この亡くなり方は尋常ではない。村人は、誰かに呪術をかけられたのだと噂した。また、彼の死は、村の地力が喪失したことを伝えるものだという流言も出て、実際それを信じて村を離れた一家もいるのである。

この話、さっそく今V4.01として書き直している「高校生のためのアフリカ開発経済学テキスト」のアフリカを理解するキーワードの「現代化する呪術」の項に入れさせてもらった。たしかにアフリカの人々は、呪術を恐れている。「アフリカに学ぶ」にも呪術のコラムがあって、コンゴ民主共和国のキンシャサのストリート・チルドレン達の多くは、災いをもたらし人の魂を食う存在として、家族に忌避されたらしい。凄い話だが、日本だってお百度を踏んだり、祈祷をしたり、お祓いを受けたりしているわけで、五十歩百歩なのである。フランスやスペインでもカトリックの巡礼や、聖なるマリアの泉に多くの病人が集っている。アフリカの人々だけを悪く言うのはフェアではないと私は思う。

島田先生の地域研究は、こういった出来事(たとえば村長の死)が、村を出るという変化に繋がっているという、既存の社会科学的にうまく処理できないことも含んでいく。なるほどと思った次第である。(つづく)

追記:今日、ANAの成田空港で働いているOGと、阪大スワヒリ語学科のOGが訪ねてきてくれた。彼女たちの話を聞いていて、なかなか面白かった。ANAに勤めていると、成田ー大阪が片道1800円らしい。(年8回だけらしいが…。)また阪大のスワヒリ語の卒業生は、京大のアフリカ研か、荒熊氏のいる名古屋大の院へ向かって行くらしい。タンザニア土産のカンガ(私たちはMジャクソンを忘れないとスワヒリ語で書かれているそうだ。)を貰った。これで、カンガが2枚になり、アフリカンドレスらしいデモストレーションが授業で出来る。ありがとう。 

2011年2月24日木曜日

ニュージーランド人牧師の言

 ニュージーランドの地震のニュースが続いていて痛たたましい。特に、国際協力のために、スキルアップしに留学していた看護師さんの話など、心が痛む。さて、昨日の投稿への、哲平さんと中村君へコメントの返答を書いていいて、ふっと、ある言葉がよぎったのである。

 「もし、北朝鮮に自由に入れるようになれば、私はすぐに行きたい。神の教えを説くのだ。」

 これは、私がNYCを訪れた後、ソウル経由の便で帰国する際のソウル空港で、偶然横に座ったニュージーランド人牧師との会話の最後に彼の口から出た言葉である。
 私は、トランジットの時間つぶしに、NY滞在の記録ノートの空白に、様々なチケット(エンパイアステートビルやユダヤ博物館など)をスティック糊で貼っていた。(こういう文具を私は海外旅行で持ち歩いていた。最近ハサミが使えないのでやめたが…。)彼は、横からそれを眺めていて、ふと目があったのだ。彼は、「あなたは、ニューヨークへ行ってきたのか。」と聞いてきた。「ええ。ユダヤ教を見てきた。NYはジューヨークだからね。」と私は答えた。すると彼は意外な言葉を発した。「ユダヤ教は間違っている!イエスを救世主だと信じていない。」
 「…。」ここで、彼は、自分が教会(英国国教会/アングリカン/聖公会、いろいろな言い方があるが…。)の牧師であり、日本とニュージランドを常に行ったり来たりしていると自己紹介した。日本では教会で英会話も教えているそうで、「ダカラ、ニホンゴ、スコシ、ハナセマス。」(笑)

 そこから2時間近く彼と、英語と日本語のちゃんぽん会話が成立したのである。(英語だけなら、2時間は絶対無理だ!)話は、彼のユダヤ教批判から始まったが、私は、ユダヤ・キリスト・イスラム3宗教の神が同一なのに、なぜにいがみ合うのか、また殺し合うのかを問うた。また、十戒の『汝殺すなかれ』が何故6番目なのかと批判した。仏教徒から見た、一神教の最大の問題点である。彼は、英語と日本語を駆使しつつ弁明し、最後にはヨハネ福音書を引き、「神は、殺人や戦争を否定してはいない。」と述べた。「そら、あかんやろ。」と言うと、「あなたのブッダという神は、殺人を否定するのか。」と聞いてきたので、「ブッダは、法を悟った人間であり、神ではない。大乗仏教ではあなたの中にもブッダがあると説いている。」などという、完全に平行線の宗教談義をしていたのだった。

 長い宗教談義の後、彼は「日本人は間違っている。彼らはオカネを信仰している。それを、東南アジアの人々も追随している。」と述べた。「特に若者はひどい。彼らは幸せについて深く考えていない。」とも言った。私は、これについては同感だと述べて、握手したのだが、最後に彼が、冒頭のコトバを吐いたのである。私は、宗教的な立場こそ違うけれど、感動した。彼の言は毅然かつ断固としたものだったのだ。

 もういちど、彼の言を引く。「もし、北朝鮮に自由に入れるようになれば、私はすぐに行きたい。神の教えを説くのだ。」

 人間の幸福とは何か。立場こそ違え、彼のコトバに考えされるのである。
 彼が、今回の地震の被害に遭っていないことを、他の多くの行方不明となっている人々の生存とともに祈りたい。

2011年2月23日水曜日

「教授」のガーナ教育事情報告

クマシ教員養成カレッジの教会
 アコソンボダムの話に続いて、ガーナの「教授」より、教育事情についてメールがありました。『こちらの学校生活について簡単にお知らせします。始業時間は早く、Collegeでは午前7:10から始まります。小学校から高校までもほぼ同じ時間に始まります。なぜ早いかというと、ガーナでは電気代が高いと感じられているようで、夜遅くまで起きていることは不経済と考えているようです。従って、夜は8時ごろには休み、朝は午前3時頃から主婦は家事を始めるようです。また、午後二時ごろからは非常に暑く、働くには適していないと思います。正規の授業は午後1時過ぎに終ります。先生方は午後早くに放課となります。授業はCollegeでは英語で行われています。小学校から高校も基本的には英語で行われますが、小学校では現地語も使えると授業がやり易いそうです。生徒は、教科書を購入できず、ノートだけを持って学校に来ます。先生は教科書を読み上げたり、黒板に書いたりして授業をしています。Collegeの学生も含め、生徒は暗記は得意で、いろいろな定義を暗記させられています。理科実験も暗記しています。化学反応の色の変化も暗記しています。見たことはほとんどないにも関わらず。暗記は得意ですが、計算は苦手で、小学校から算数、数学について問題演習の時間が少なく、知識はあっても実際の計算は苦手で計算間違いも多くなります。これは大人でも同じで、計算間違いはよくあります。放課後は部活動などはなく、自由に遊んでいるようです。』
 
 電気があっても、あまり使わないというガーナ人の姿勢はわかりますねえ。ガーナ人は、アフリカでは商売人として有名です。「内戦が終わった。ガーナ人と中国人が商売しにやってきた。」というくらいです。(笑)暗記中心のアフリカの教育については、ブルキナファソの方がもっとレベルが低くかったので、よくわかります。現実的な理解はあまり指導されておらず、ブルキナのSMASSEでは、三角定規の角度の把握や1リットル、1キロなどの経験的概念も、校長の上に立つ人々に教えざるをえない状況でした。ブルキナべの計算能力は、かなり厳しく、私が紙に書いて筆算をしたところ、若者がホォ~と驚いていました。「教授」が理科実験を通じて、経験的な授業を広めていかれることはガーナの教育界にも大きな意味があると思いますねえ。

2011年2月22日火曜日

イスラームは「公」足り得るか

 昨日の「公」と「私」の話の続編である。リビアでの『騒乱』(マスコミはこう表現している。違和感のある表現だ。)がさらに拡大化している。もし、カダフィ政権が倒れれば、その影響は凄い。チュニジアやエジプトは、北アフリカでも、かなり親欧米の国で、欧米的価値観が流入しているわけで、近代化という観点(あくまで欧米的価値観における近代化である。)から見れば、ガバナンスが悪く、個人としての市民意識が強まり、ついに”革命しちゃった”という感じなのだが、リビアとなると、”革命しちゃった”ではすまない。専制君主国で、国際世論を無視して、空軍が国民を銃撃する国である。最も言論統制された、いわば北アフリカの北朝鮮のような国である。リビアがぶっ倒れれば、中国をはじめ全世界の反政府組織は大きな自信をもつはずだ。大混乱が予想される。パンダが日本にやってきたなどと騒いでいる平和日本は、世界の動きから完全に浮いている。

 さて、今日、私は「公」が、チュニジアやエジプトで成立するだろうかと、ずっと考えていた。福沢のいう「公」は、明治期における「私」を制限するルールである。日本には、それ以前「私」をもって実存しえた人々は少ない。戦国時代の終了後、将軍や大名といえど基本は「公」であったと思う。(殿様の通信簿/磯田道史・新潮文庫を参照)日本の近世における朱子学の影響はきわめて大きい。「私」で生きることは悪であり、それがゆるされない社会であった。

 チュニジアやエジプト、あるいはリビアで、「公」となりうるのは、当然イスラームであろう。イスラームは、神のもとの平等を強く強いている。イスラームは、神への服従であって、宗教的な律法も当然あるが、社会的世俗的な法としても生きている。ならば、「公」に十分なりうるように思われる。

 さて今日のWEBニュースで、こういうのがあった。『フランス通信(AFP)によれば、イスラム教スンニ派に強い影響力を持つイスラム法学者カラダウィ師 は21日、「(カダフィ大佐を)リビアから排除するため」、リビア軍兵士は大佐を銃撃すべきだとするファトワ (法的見解)を示した。』

 ところで、私は、上記の「ファトワ」の存在に、イスラームが「公」になりうるか否かについて、大きな疑問を呈せざるを得ないのである。神の意志に従って生きることが最重要なムスリムにとって、その意志を代弁するイスラム法学者の言葉は極めて大きい。彼らが全ての発言を恣意的に捏造しているとは思わないが、彼らは完全なる「公」だといえるのだろうか。時に宗教指導者によって、神の意志(コトバ)が異なる場合もある。彼らが「私」となる可能性も十分あるのである。ここで、私はうーんと唸るのである。

 この「公」、「私」を抑える概念であるとともに、資本主義を飼いならす概念でもある。イスラームが成立した時代とは大きく異なる。ここでも、私はうーんと唸るのである。

 イスラームは「公」足り得るのか。「私」を抑え、新たな国家を作っていけるのだろうか。あるいは、トルコのように政教分離し、欧米的な「民主主義」への完全な移行を行うのか。またまた、私はうーんと唸るのみである。

追記:「アフリカのニュースと解説」を書かれているMiyaさんから「空軍が国民を銃撃する国」という私の表現に対して、マスコミ報道をうのみにするのは危険ですよというコメントいただきました。Miyaさんのブログを見てなるほどと思いました。カダフィ大佐の二男の演説は凄いです。是非、リンクから「アフリカのニュースと解説」をご覧ください。

2011年2月21日月曜日

G0(ゼロ)と「公」と「私」と

 ウガンダの大統領選挙は、どうやら現職のムセベニが勝ったようだ。さて、その後どうなるか。ウガンダもインターネットに制限をかけたらしいが…。ところで、今リビアは大混乱である。あの影武者が何人もいたという不死鳥のようなカダフィ大佐が政権を手放すのだろうか。ベンガジでは、実弾で威圧しているらしいが、トリポリでもデモが行われていると言う。一方、北京でも王府井で反政府集会が開かれそうになったらしい。凄い速さで、世界が動いている。

 昨日、NHKで『ネットが革命を起こした~中東若者たちの攻防』を見た。フェイスブックが大きな役割を果たしていたことが良く判った。インターネットを封じ込める政府へ謎のハッカー集団が攻撃していたこともわかった。興味深く見たのだが、チュニジアでも、エジプトでも、「その後」が混乱していること、その中核を担った若者たち自らが、その混乱に逡巡していたのが印象的であった。「誰もが、好きなことを要求している。…これではまとまらない。」

 G0(ゼロ)…アメリカの没落の影響は、こんなにも大きいのだろうか。多くの途上国で、大混乱が起り、リビアなどは内戦になる可能性もある。えらいことである。グローバリゼーションは、全ての国を巻き込んでいく。

 ところで、先日から、なんとなく妻と「台湾」が話題になって、司馬遼の『街道をいく40台湾紀行』を読んでいる。その中で当時の李登輝総統の話が出てくる。その中で、「公」と「私」の話が語られる。
 「伝統的漢民族は、皇帝も私、官僚も私、これらと潜在的敵対関係にある人民も私であった。資本主義は私から出発している。資本主義の力は巨大で、しかも利潤追求という闘いを目的としている。そのためにゲームと同様、ルールが出来、あわせて公の思想が成立した。このことはプロテスタンティズムの勃興と不離のようである。」続いて、司馬遼は福沢諭吉の『瘦我慢の説』をひいて、福沢は、日本人に「私」であれ、「私」の総和が「国家」をつくるのだと激励しているが、もし福沢が中国人なら「公」への心情を励ましたに違いない、と李登輝に言うのである。

 ムバラクやカダフィ、あるいは多くのアフリカ指導者は「私」であるがゆえに、官僚も「私」であった。同じ「私」である人民が、その潜在的対立関係を、インターネットを駆使して顕在化した時、対立関係に陥るのは必至である。今、なにより必要とされるのは「公」なのだが、果たしてそれを短時間で、しかも平和的に獲得することが出来るか、が大きく問われているような気がする。

2011年2月20日日曜日

ガーナのアコソンボダムの話

アコソンボダム
 ガーナの理数科教師・シニアボランティアの『教授』からメールが届きました。アコソンボ・ダムに行かれたそうです。いいなあ。我がセンター試験対応地理Bでは、ガーナとくれば、まず『アコソンボダム』と教えています。カカオは、コートジボアールが世界一なので、こう教えるのですが、もし私がガーナに行ったら、絶対行く場所の1つです。あとは、アクラの棺桶屋かな。(笑)

導水管と配電線
 『教授』のコメントを引用します。「完成当時は世界最大の面積をもつダムで、現在でも、世界最大級ダムであることはよく知られています。現在、ガーナの電力の60パーセントをまかなっています。また、近隣諸国にも売電していて、外貨収入にも貢献しています。初めはアルミ精錬に使う予定だった電力ですが、現在は、アルミ精錬工場は操業していなようです。昨年は雨が多く、11月には24日間も放水したとガイドが行っていました。ダムはロックフィルダムで土と岩で作っています。日本のダムと比べ、規模は小さく見えます。しかし、ダム湖の面積は非常に広く、写真では分かりませんが、グーグルマップで見ると非常に広いことが分かります。導水路は広くはありませんが、漁業者や漁網が入らないように何重にも防護柵があるようです。発電設備も大きくは見えません。
 導水管と送電網は、太い導水管と全国に送るための送電網が遠くに伸びているのが分かります。水車は古い物を飾ってありました。このダムの水は農業用水にも使われています。また、近隣諸国へ水の輸出も行われるようです。ガーナの発展にはこれからもこのダムは重要な役割を果たすと思います。」今日の画像は、『教授』から添付されてきたものです。

 意外だったのは、アルミ精錬が行われていないことでした。このアルミ精錬の停止については、リサーチしてみると、干ばつで一時的に凄い電力不足になったこと、オーストラリアやブラジルの広大なボーキサイトの発見が、ボーキサイトの供給過剰をもたらしたこと、ジャカイカや韓国のアルミナ(アルミの半製品)生産によって、アルミ精錬を行っていた外国企業が撤退を余儀なくされたということでした。http://www.worldlingo.com/ma/enwiki/ja/Manufacturing_in_Ghana

 いやあ、市販の地理Bの受験用ノートを、いつまでも信用してはいけないという見本のような話でです。諸行無常。諸法無我。どんどん世界は変化しているのでした。地理の教師は、常に最新情報を吸収して…勉強しなければ、ウソツキになってしまいます。

2011年2月19日土曜日

京大 アフリカ研 公開講座

京都大学 飯盛財団記念館
京都大学に行って来た。京阪丸太町駅からすぐの川端通り沿いの薬学部の近くに飯盛財団記念館というのがあって、ここにアフリカ地域研究資料センターがある。先日、ネットで公開講座の存在を知り、さっそく申し込んだというわけだ。今日の講座は、島田周平先生の『可能性に生きる』という、ザンビアの農村の研究だった。が、私が馴染んでいるアフリカ開発経済学とは、ちょっと視点が違う。
島田先生は、「学問の専門化が進むと見えにくくなる問題がある。アフリカの「貧困」を経済学的に狭義に定義すると農村社会の多くは1日数ドル以下の貧困社会となる。しかし実際に日常生活を見てみると、「貧困」では推し量れない何かがある。」と言われる。『地域研究』という学問は、政治学、経済学、社会学、文化人類学などの専門化した科学を利用しながら、専門性の壁を意識しないで『全体的な理解』をすることが地域研究と定め、さらに成果を専門科学へと問いかける存在だと規定しておられる。ただ、この『全体的な理解』の方法論が明確でないゆえに、これからの学問だと謙遜されていた。先生は、長年にわたってナイジェリアとザンビアの農村のフィールド・ワークをされているが、今回はザンビアの農村の話を中心に、『脆弱性』という視点を提起された。アフリカを、長年多用されてきた近代化という視点や、貧困(アマルティア=センの貧困ではなく、数値的に規定する貧困)という開発経済苦的視点、あるいは政治的なガバナンスの善し悪しといった視点で読み解くのでははなく、新たな『脆弱性』という視点を提起されたのである。

では『脆弱性』とは何か?干ばつや虫害、家畜の疫病、地力低下などの「自然的リスク」、政治的疎外や経済的周辺化、病気や人の死亡などの「社会的リスク」の2つから構成される『リスクにさらされる危険性』と、在来技術や在来知の無効化や組織や制度の機能不全、近代技術や援助の不適合などの「自然的リスクへの対処能力」と、組織や制度の機能不全、政治的疎外などの「社会的リスクへの対処能力」の2つから構成される『対処能力の欠如』で構成される。

この『脆弱性』、自然や社会のリスク、また対処能力の欠如によって増大する。ところが、これをザンビアの農村では、個人として、世帯で、あるいは一族で、緩和させていた。政治的変革が生んだ森林保護区への入植やNGOの開発援助と村長の対立から生まれた村民追放、過剰な死(おそらくは、HIVエイズによる)、一族の共同耕作という相互扶助作業の再考、村の貯蓄・貸付組合の私物化と新しい小規模金融の誕生などの、ストーリーを通じて、島田先生は、こう結論付けられた。「慣習法や伝統的組織、近代的法律や公的組織の間で彼らは、社会科学的・法則的に動いたわけではない。その時の状況に応じて、脆弱性の緩和を求めて動いている。様々な出来事の縁起的展開をつぶさに見ること、すなわち専門性(社会科学)の壁を乗り越えねばわからないことが多い。地域研究の学問的意義はここにある。」と。

うーん。さすが京大。出来るだけ平易にまとめたつもりだが、公開講座のテーマが『アフリカ研究最前線』である。ご勘弁願いたい。さて、この講座、参加費が1000円なのだが、カラー印刷のレジュメとノートまでついたフォルダと京大オリジナルのボールペン付き。休憩時には、ソフトドリンク無料。終了後の茶話会ではワインなども出てくる。うーん。さすが京大。次回も参加しようと思ったのであった。
そして、なにより、驚きのエンディングだった。ブルキナのワガドゥグで荒熊さんと共に出会った京大のアフリカ研の研究員・Eさんと再会したのだった。あの時、私は日本から持ってきたカップヌードルをフィールドワーク中のEさんに進呈した。その時のことをよく覚えていてくれて、アフリカ研の所長さんにまで紹介していただいたのだった。Eさんは、4月にまたブルキナに行くそうだ。メデタシ、メデタシ。

2011年2月18日金曜日

ウガンダの大統領選に思う

 ウガンダの大統領選が始まった。WEBのニュースでは次のように伝えられている。 【アディスアベバ共同】東アフリカのウガンダで18日、大統領選が行われた。25年間にわたり大統領の座を保持してきたヨウェリ・ムセベニ氏(66)が4選に向け優位に立っているが、今回が同氏への3度目の挑戦となる野党候補の元内相キザ・ベシジェ氏(54)との接戦も予想されている。
 ベシジェ氏は過去の大統領選での不正を批判し、今回、公平な選挙が実施されなければエジプトのような大規模な抗議行動に出る構え。ムセベニ氏は治安部隊の出動を警告しており、混乱発生も懸念されている。20日にも大勢判明の見通し。ロイター通信によると、ウガンダ当局は携帯電話会社に対し「エジプト」や「チュニジア」「独裁者」などの文字が入ったメッセージの送信を阻止するよう命令した。
 ウガンダは独立後、クーデターが相次いだが、ゲリラ闘争を率いたムセベニ氏が1986年に大統領に就任後、内乱が収拾、政情が安定した。
 同氏は欧米諸国と関係を強化し、順調な経済発展も実現。一方、2005年の憲法改正で大統領の任期制限を撤廃するなど独裁色を強め、汚職体質への批判も出ている。2011/02/18 16:29 【共同通信】
 
 ここ1~2年のアフリカの大統領選をめぐる環境は大きく変化したように私は思う。まず、ポールコリアーの「民主主義がアフリカ経済を殺す」的なレントを権力者が私用し、形式的に民主主義の土俵で自らの権力保持をはかっていることへの世界的な批判が顕著になったこと。特にEUを始めとした先進諸国は、ガバナンスの透明性を求め、グッドガバナンスへの転換を求めていること。(但し、人権問題等で欧米的価値観の押しつけも見られるが…。)もうひとつは、チュニジア・エジプトといった中東での独裁批判が最高潮に高まっていることである。

 外務省のODAホームページでは、ウガンダのムセベニ政権をかなりかっていることがわかる。確かに、ケニア・タンザニアと比べてウガンダは経済成長率も高く、北部の一部を除いて治安も良くなってきている。http://www.mofa.go.jp/mofaj/gaiko/oda/shiryo/kuni/09_databook/pdfs/05-02.pdf
 
 しかし、まだまだ満足できるガバナンスの状態ではないことは確かだ。他のWEBニュースでは、石油の新たなレントが生まれるようで、その対応の不透明さが強調されていた。いくら情報を制限しようとも、個人として発言し、行動する「市民」が、少なくとも北アフリカに生まれた。そのうねりが、東アフリカにも波及するのだろうか。

 長期政権は腐敗の可能性が高まる。改革も必要だろうと思う。だが、どこかの国のように、思慮の浅い「抑止力は方便だった。」とか「(外交という分別をもたず、ロシアに対して大統領の北方領土への視察は)暴挙だ。」とかいうような”政府”が生まれたら、それもまた、不幸である。

2011年2月17日木曜日

KIVA JAPAN その後

 1月9日にKIVA JAPANのことを書いた。私の送金ミスもあったりして、スターターキットの到着が少々遅くなった。今は、私はいつでも融資できる状態にあるのだが、日々のブログの更新に精力を奪われて(笑)、なかなかHPを開く機会がなかった。で、先日起業家を検索すると、ケニアのピーターおじさんもドミニカのお姉さんもいなくなっていた。まさに、一期一会なんだ。凄い速さで、世界は動いていることを実感した。どんどん新しい起業家がマイクロファイナンスを求めている。こうなったら、じっくり選ぶぞと考えた次第。ところで、学校教育で、KIVAの融資をする際には、特別に借りることができるらしい。いい試みだと思う。地球市民育成に大きな役割を果たすはずだ。私もその実践の効果的な方法を考えてみようと思う。

 ところで、一期一会といえば、JICA大阪のスプリングセミナーが今年も開かれる。3月の26(土)・27(日)・28(月)の日程である。JICAの担当のAさんからメールをいただき、速攻で生徒を集めた。(参加は10校で先着順なのである。)今年は、後輩の口の悪いI先生に、推薦してもらった。予定の悪いメンバーもいるだろうとふんで7人。レクチャーすると全員が参加希望で、罪なことをしてしまった。アフリカのトランプを引いてもらって、下に書かれているHDIの順位で4人を決定した。良い子ばかりで残念としかいいようがない。選にもれた生徒にもJICAと研修員さんとの対話の機会を作りたいと、おそらく彼女たちに現代社会を教えるであろうU先生に7月のJICA大阪訪問も念頭に入れて計画を練ってもらう算段もしておいた。
 私にとっても一期一会、彼女たちにとっても他校の生徒と一期一会、そしてどこかの国の研修員さんとも一期一会である。だからこそ、大事にしたい。今日、参加申込書が揃い、夕刻にポストに入れた。

2011年2月16日水曜日

「インパラの朝」を斜め読み

 先日本校の図書館に行く用事があって、「インパラの朝」を見つけた。かなり前に発行され、読書感想文の高校生向けの課題図書であることは知っていた。パラパラとめくっていて、結局借りることにした。学校の図書館司書のY先生とこの本について少し語りあった。「私も読みました。生徒にも勧めたこともあります。でも…。なんか…。」私も少し読んで、彼女の言いたいことがすぐ分かった。「そうだよね。鋭角だね。」「そう、鋭角ですね。」

 この本、本当に高校生向けの課題図書でいいのだろうか、と私は思った。文体といい、流れといい、「鋭角」なのだ。批判するまえに、とにかく他の書評を見ようとしたら、旅行人の編集長・蔵前仁一氏のブログにすばらしい書評があった。(以下引用)
 『不思議な旅行記だ。少なくとも、ユーラシア・アフリカ大陸を2年もの長きにわたって旅したという感覚を味わうことはできなかった。それは、この旅行記が、各地で会った人々、起こった出来事を断片的につなげた構成になっているからだ。』
 『この人は、旅行中にずっとブログで旅の報告を書いていて、それをざっと見る限り、実はチケットをどう買ったかとか、トイレが臭かったとか、旅に付き物の話も山ほど書いている。しかも、文体がかなり異なっている。本書の文体は、選考委員が「クール」と評するような冷静な文体なのだが、ブログは「ですます調」で丁寧である。ということは、やはり本書を書くにあたっては、かなり練り直して書きあげたものなのだ。』
 なるほど…。で、実際に著者のブログを除いて見た。http://asiapacific.blog79.fc2.com/
 私が、あまりの「鋭角さ」が気になったタンザニアの宝石鉱山で、彼女が激怒するシーンなどもブログを読む限り、「鋭角」な違和感はない。確かに極めて「肉食性女子」的に、書き直している。

 蔵前氏は、さらに『私は、彼女がアフリカで語っていることはまっとうなことだと思うし、共感もする。私自身がアフリカで感じたことでもあるからだ。世間が言っているアフリカなんてみんな嘘だ、なにが「アフリカ・エイド」だ! と思ったのは当時の私だが、彼女もそういうことを叫びたかったのだ。実は、もっともっと書きたいことがあったのではないかと思うが、たぶんそれを書いたら一冊の旅行におさまらないから、こういうスタイルにおさめ、最後の方で爆発させたのだろうと思う。』この蔵前氏の言う最後の爆発とは、上記のタンザニアの宝石鉱山の話に始まり、ニジェールの「善意とプライド」の章を意味すると思われる。彼女は、P246にこう書いている。

 貧困?それはまさに私自身が一番言おうとしていたことだ。私はアフリカへ行くにあたって、一つの構想をたてていた。アフリカへ行って貧困と向き合い、現地の惨状を確認し、世界に現状を知らしめて共感を得ようと計画していた。(中略)けれど、あてがはずれてしまった。なぜなら、予想していた貧困が思うように見つからなかったからだ。想像していたほど人々は不幸な顔をしていなかった。(中略)アフリカは教える場所ではなくて、教えてくれる場所だった。助けてあげる対象ではなく、助けてくれる人々だった。アフリカは貧しい大陸ではなく、圧倒的な豊かさを秘めた、愛されるべき大陸だった。

 うむ。ここが「インパラの朝」の核心部分であろう。ならば、課題図書として十分許される本だが、それにしても、彼女の無謀な冒険主義的移動(イエメンからジブチ行や、午前3時着のザンビア行など)は、男女を問わず高校生に読ませるべきだとは私は思わない。この本が、ゆくゆく「深夜特急」化して、バイブルになった時、私は大いに批判したいところだ。これは、初老の男性である私が持つ、肉食系女子に対する生理的な忌避の感情かもしれないのだが…。

2011年2月15日火曜日

アメリカ貧乏旅行のスキル

2月11日の積雪 昨日はもっとひどかった
昨日の雪が朝まで十分残っていた。窓から見ると、かなりきびしそうであった。で、授業もないのでゆっくり登校させていただくことにした。年休も十分残っているし、なにより昨晩風呂で足をあたためたのに、就寝してから2回もフクラハギが教科書通りにつったのであった。その痛みがかなり残っていたのである。まったく…歳をとったもんだ。

 昼からアイオワモノポリー(9月28日付ブログ参照)のI君が来た。大阪に帰って来たのだという。今日の要件は、なんとアメリカ行の相談だった。「(60期生の英語科の中で)僕だけアメリカに行っていないので…。」と彼は、地球の歩き方を出した。なんとニューヨークとワシントンD.C.である。予算を聞くとかなり厳しい。で、貧乏旅行のスキルを教えていたのであった。
 アメリカでの貧乏旅行は厳しい。アメリカはオカネで、リスク回避を買う国である。特に安宿は危険である。安ければ安いほど、不安が増す。アメリカは治安が良い地域と悪い地域が明確だ。ゴミの散乱、異臭、表に見える洗濯物、店のウィンドウへの鉄格子。いくら安くてもそんな地域にある宿は避けた方が無難。車を使っての田舎旅なら、私は”モーテル6”や”スーパー8モーテル”を選ぶ。安いし、他のメジャー・モーテル・チェーンと室内はそんなに変わらない。プールとかがないだけだ。(どうせ入らないし…。)ただ、NYCやDCは、車を使わない旅なので、このプランはあまり使えない。地下鉄などの駅に近ければユースホステルでもいい。夜間が問題なのだ。ちなみにD.C.でユースホステルに泊まったことがあるが、夜中に侵入者があった。(笑)自分の貴重品は、特にドミトリーでは極めて慎重に守らなければならない。貧乏旅行の鉄則である。グレイハウンドのバスも安くていいのだが、治安上のリスクはアムトラック(鉄道)より高い。ヒコーキ会社は、そう変わらないので安ければ安いほどいい。安く上げるには食費を切り詰めることぐらいしかない。そんな話をしていたのだった。今はインターネットが充実している。「十分リサーチして行く方が良い。最初だし…。」

 こういう話をしていると面白い。剣道部の顧問でI君を良く知るK老師も中国の旅でエライ目にあったことを話して、I君をオチョクッていた。国流部長のY先生も以前ニューヨークで空手の修業をしていたこともあり、コワイ話をしてオチョクッていた。I君は剣道四段のわりにビビッていたのだった。(笑)後輩の口の悪いI先生は、なぜかリスニングの効果的な練習方法を語っていた。多くの先生方にI君は愛されているのである。(笑)

 秋田商業高校の先生方からメールをいただきました。なんとこのブログをご覧になっていたとのこと。ありがたいと思うとともに、ちょっと恥ずかしい…。雪にビビっている場合ではないのである。

2011年2月14日月曜日

アダモな日に遊牧民ゲーム

 ”アダモ”である。昼過ぎから降ってきた雪は、さすがに喫煙がおっくうになるほどだった。今日は朝から地理Aの授業があって、例の遊牧民ゲームを英語科でやってみた。基本的なルールを教えただけで、後は生徒にボートの内容を読みとらせてみた。「ゲームが理解出来たらスタートしいやぁ。」と言って、4人分のボードと、各人の牛の頭数変化をノートするふりかえりプリント、そして一人ひとりに色鉛筆とサイコロを渡した。
 このゲーム、1人ひとりにサイコロを渡すのがミソである。案外時間がかかることがわかった。本来のテキストでは、じっくりと説明に時間をかけ、約1.5時間がゲーム時間になっている。不思議に思っていたが、実際やってみると、自分の部族の進路を決めるのが、案外難しいのである。干ばつのリスクとツェツェ蠅のリスクを避けながら、マーケットで牛を増やすというのが、基本コンセプトだが、他の部族との兼ね合いもある。(同じところには留まれないし、同じマーケットを目指していたらバッティングする可能性が高い。)結局、平均で1年と1か月くらいでストップした。水曜日にもう一回やろうということになった。だいぶルールや面白さがわかってきたようである。

  ところで、1月29日付のブログで紹介した、高校生アフリカツアーをやってのけたユネスコスクールの秋田商業高校へ出張できることになった。(正式には教育委員会の決済がまだだが…)かなり嬉しい。幕末の志士が、高名な人物と議論するために、はるばる訪ねて行くような感覚である。今日は授業後、その準備でJAL(大阪-秋田直行便はJALしかない。)の時刻表や、秋田中央交通という路線バスの時刻表を調べていた。インターネットは便利である。秋田商業高校の最寄りのバス停では、約束の時間に着くことが不可能なこともわかった。結局路線図のPDFを解析して近くの小学校前で降りることにした。国際教養大学にも行くので、JRの和田駅の時刻表や秋田中央交通の教養大学路線までリサーチした。ふー。だいぶ秋田市の地理に詳しくなった。秋田大学に鉱業博物館があるらしい。時間があれば寄ってみようと思う。

 ”アダモ”は枚方に変えると、えげつなく(標準語で言うと、ひどく)なっていた。妻はバイクで耳鼻科に行っていて、出たら雪が積もっており、エライ目にあったらしい。特に自宅近くの急坂は登れなったそうだ。「もー。雪をなめたらあかん。」と嘆いていた。私と言えば、高速道路をくぐるあたりから冷えたのと、緊張した足運びの為、玄関に到着した瞬間見事に足がつってしまったのだった。こんなんで、秋田行きは大丈夫だろうか。秋田商業高校の先生方がこのブログを見られたら、きっと失笑されるんだろうなあ。

2011年2月13日日曜日

ヒコーキ少年という過去

全米 航空博物館 のイラスト地図
12月2日のブログで、サウスダコタの航空博物館のことを書いた。私は、アフリカの研究に入る前はアメリカの研究をしていた。研究と言っても、6回渡米して、アホほどアメリカ関連の本を読んだくらいだが…。最初の海外が35歳の時の視察旅行で、行き先がアメリカだったということからそうなったのだが、そもそも我々昭和30年代生まれは、アメリカナイズ=善の時代に幼年期をすごしている。TVのマンガは、どら猫大将やトムとジェリー、ポパイだったので、あのアメリカ風の金属のゴミ箱とか、長めのスイカとか、まだ食べた事はないが憧れとなったハンバーガーとかに強い属性を持った。あるいは、TVドラマ・奥さまは魔女のダイニングの冷蔵庫や掃除機を見てビビっていたもんである。なかでも、少年の憧れは、アメリカのヒコーキだった。
 小学生向けの航空機図鑑やヒコーキ本は私の愛読書だった。特に戦闘機は美しかった。そのころベトナム戦争があって、ガンガンとジェット戦闘機が開発されていた。そういうことと全く無関係に、プラモデルをよく作った。プラカラーなどでカラーリングまでするようになった。というわけで、プラモデルを作った戦闘機などにアメリカで出会うと、心臓が止まるくらい幸せを感じるのである。アメリカには、たくさん航空博物館があり、平和教育とかとは全く別次元で、あくまで少年時代からの趣味としてアメリカにいくと必ず寄るのである。
イントレピッド航空博物館

 特に好きだったF4ファントムとA6イントルーダ―には、NYCのイントレピッド航空宇宙博物館で出会った。この博物館、古い空母がそのまま博物館となっている。ハドソン川岸であまり治安の良くないところにあるので、メジャーな観光地ではないが、私にとっては「心に残した」場所のひとつである。  
 先日(2月11日)話題にした「ゴブリン」というヒコーキ。正式には、XF85という実験機で、B36ピースメーカーという6発プロペラ+4発ターボジェット4発の爆撃機に、搭載される予定だった寄生ジェット戦闘機なのである。つまり、当時はプロペラ機からジェット機化する過渡期の時代で、B36もたいがい中途半端なヒコーキなのだが、この爆撃機を援護する航続距離の長いジェット戦闘機など到底なく、B36の機体内にジェット戦闘機を積み、いざとなったら発進させるというプランが生まれたのである。それが、XF85「ゴブリン」なのである。
XF85 ゴブリン
ヒコーキから発進するヒコーキ。SFみたいな話だが、本当である。コードのXは実験機、Fは戦闘機を意味する。そう、結局実用化できなった「珍ヒコーキ」なのである。私は、この「ゴブリン」のことを、ちょっと背伸びした大人向けのヒコーキ雑誌を眺めていて知った。この雑誌も、月1回近所で開催される「夜店」の古本屋で買ったものである。30円くらいだったハズだ。時代を感じる話である。40年以上前から「心を残している」わけだ。(笑)

 ところで、アメリカの軍用機、昔はネーミングの妙がある。「ピースメーカー」なんて爆撃機、悪い冗談としか思えないし、「ゴブリン」もまたそうである。 

2011年2月12日土曜日

ナイジェリアの遊牧民ゲーム

 国際理解教育学会の事典の原稿を書いている。まず、定義をしなければならないのだが、「国際理解教育におけるシミュレーション・ゲーム」の定義で、最も近いのは、”グローバル・クラスルーム”(D・セルビー/G・バイク共著、明石書店)の用語集であった。地理のシミュレーション・ゲームを集めた”シミュレーション教材の開発と実践”(山口幸男編著、古今書院)にも定義があったが、やはり「地理の」という枕詞がつき、若干違和感もあった。うーんと唸りながら、この本を見ていると、林敦子氏の『西アフリカの遊牧民ゲーム』というのが気になった。(ずいぶん前に買ったので、忘れていたのだった。)ナイジェリアのフラニ族のシュミレーション・ゲームである。この教材は、”Patterns in Geography Book2”にあるグループ学習の教材だそうだ。彼らは、牛を財産とし、よほど歳をとるか自然死でないと肉はとらない。雌牛からとれたミルクやバターをマーケットで売り、トウモロコシを手に入れる。ツェツェ蠅と干ばつを避けながら移動する。これをシミュレーション・ゲーム化してある。
 
 この画像は、私がこれをエクセルで再構成したボードである。生徒は、違う色の色鉛筆で3コマずつ進み、サイコロを振るしくみだ。原版とは少しだけ変えてある。市場での出来事の出目4・5・6は私の思惑が入っている。それは以前作ったゲームの名残である。

 この遊牧民という存在は、私も気になっていて、以前大失敗作のシミュレーションゲームを作ったことがあるのだ。湖中真哉氏の「牧畜二重経済の人類学―ケニア・サンブルの民族誌的研究」 を読んで、これに極めて忠実なゲームを作ったのである。ケニアのサンブルという遊牧民の研究なのだが、これが無茶苦茶おもしろい。サンブルは、牛は財産、ヒツジやヤギは財布という感覚である。牛も雄牛と雌牛では価値がちがう。金やヒツジ・ヤギとの交換レートも決まっていて、その辺を理解させたくてモノポリーを土台に作った。莫大な牛(雄と雌の2種類)、ヒツジ、ヤギのカードや、ラッキーカード、アンラッキーカードなど、とにかく忠実にやろうとすればするほど複雑になっていった。昨年3月に卒業した生徒が1年の時、地理Aで一回やったきり、社会科準備室で眠っている。

 シミュレーションゲームをつくるのは、この辺が難しい。現実に忠実すぎるとダメ。また現実を反映させないと意味がない。その手加減(数値的な部分も含めて)が命なのである。おそらく前述の遊牧民ゲームは、 家畜のえさを求めての移動、ツェツェ蠅のリスク、干ばつのリスクを主題に選択したに違いない。本当は、フラニ族もヒツジやヤギを連れていると思う。そこはゲームのやりやすさのため、あえて切り捨てたはずだ。
 結局、原稿執筆は進まなかったが、実際ゲームボードを作ってみて、実は、この現場での教育実践者である私の気づきと学びが、事典を書く上で必要なことだったとわかった。こういう切り口で、他のシミュレーションゲームも考察しつつまとめて行こうと思っている。

2011年2月11日金曜日

「心を残して、モロッコ」を読む

 雪の日の午睡を終えて、前から書こうと思っていたことを書こうと思う。(今月はどうも1日2回更新が多い。)DoDoWorldNewsの話である。先日もちょっと紹介したが、これは、道祖神という旅行会社が発行している月刊誌で、私はこの会社のツアーに参加したわけでもないのだが、度々講演会(早川千晶さんが来阪したり、アフリカ・カルチャー講座など)に参加するので、送ってくる。1週間ほど前に自宅に届いたのだが、ここに、いい記事が載っているのだ。それは、沢木耕太郎の寄稿である。以前、10月2日付ブログで、「(沢木耕太郎の)深夜特急アフリカ編が見たい」と書いたことがある。まあ、私のちっちゃな夢が実現したわけだ。タイトルは、『心を残して、モロッコ』である。
 
 「私が二十代のなかばにユーラシアの端から端までの旅をしたとき、行き当たりばったりのルートを選択をしていた中で、さてどうしようと迷ったところが何カ所かあった。とりわけ悩んだのがスペインのマラガにいるときだった。このまま最終目的地であるロンドンに向かおうか、海を渡ってモロッコに行こうか迷ったのだ。」
 「それから長い年月が過ぎ、ことあるごとに、あのとき、あそこでモロッコに行っていたら旅はどうなっていただろうと考えるようになった。心に残る、という言葉がある。それとよく似た言葉に、心を残す、というのもある。心に残るという言葉が、あるものが自分の心に棲んでしまうことだとすると、心を残すというのは、自分の心をある場所に残し、棲まわせてしまうことだと言えるかもしれない。私は行ったことのないモロッコに「心を残して」しまったのだ。そうである以上、いつかはその心を引き取りに行かなくてはならないはずだった。そして十年ほど前、ようやくその機会が訪れた。」

 引用が長くなったが、沢木は、マラケシュに行く。マラケシュは当時ヒッピーの五大聖地と呼ばれた都市であった。五大聖地はちなみに、カトマンズ、ゴア、カブール、イスタンブール、マラケシュである。深夜特急の本編では、カトマンズ、カブール、イスタンブールは旅しているが、ゴアの記載はない。(気になったので書庫に確認に行った。)本編では、バラナシ(当時はベナレス)でかなり死を見つめ、沢木は体調を壊している。デリーからそのままシルクロード経由でイランに向かうのだが、今回の文章から、本来は、南インドのゴアに向かう”つもり”だったと思われる。マラケシュもそういう流れの中で、心を残したと推測される。沢木は、五大聖地をめぐりたかったのだろう。
 沢木は、マラケシュを訪れ、サハラ砂漠のロッジに滞在する。そこで、ラクダに乗って2泊3日のツアーをしないかと言われる。それを断ったことに、後悔しはじめている。そしてラストの文章が続く。

 「こうして、私は、モロッコに残した心を拾いにいって、また別の心残りを作ってしまっていたのだ。だが、それでいいのかもしれない。「心を残して」おけば、またいつか行くことができるかもしれないから。」

 ああ。いいなあ。私は沢木耕太郎の文章が大好きだ。こんな文章を書けるようになりたいものだ。ところで、私が「心に残した」場所は、どこか考えてみた。沢山あるのだが、やはりベスト3といえば、東アフリカのケニアであり、南アフリカのジンバブエであり、西アフリカのブルキナファソである。では、「心を残した」場所とはどこだろう。実は、2つある。1つは、アメリカのオハイオ州デイトンである。ライト兄弟の故郷で、米空軍航空博物館がある。ここで、ゴブリンという実験機を生でなんとしても見たい。もう1つは、タンザニアのアルーシャである。遠くキリマンジャロを望みながら、ウジャマー社会主義の夢のかけらを見たい。両方とも、一時かなり真剣に旅の計画を練ったことがある。
 
 「心に残した場所」と「心を残す場所」…読者の皆さんにとってはどこでしょうか。よければコメントを下さい。

積雪の日。陸の孤島宣言。

 天気予報どおり、雪である。しかも積雪している。久しぶりである。私は、雪道を車で走ったことがないし、昔々八尾の交差点でバイクに乗っていて凍結のため転倒したこともある。よって、雪が積もったら、早々と陸の孤島宣言である。妻も今日は、「さぶっ。」「今日はオフや、オフ。」

 ところで、このところ糖尿病が悪化しているようで、毎夜、何度も足がつる。火曜日の夜などは、私があまりに痛がるので、妻がバケツに湯を入れて足湯をしてくれた。なんとか眠れたが、それでも2回足がつって目が覚めた。おとついは風呂に入ってすぐ寝たのでましだったが、やはり2回ほど足がつった。最近熟睡できない日が続いてる。もちろん昨日も3回ほど足がつって目が覚めた。大抵咽がカラカラになっているので水を飲むことになる。妻は、きっと怒っているに違いない。今日は、昼間から寝るぞぉ。陸の孤島やし。

2011年2月10日木曜日

空堀かるた絵製作実行委員会Ⅲ

 このところ、アフリカの話題がずっと続いている。ブログのタイトルから言えば当然だが、ちょっと間をあけようと思う。
 今日は、美術部のブロック展(大阪府の高校の旧学区制で区分けされている)の搬入の日であった。朝8時前から、なじみの赤帽のNさんと作品積み込み開始。八尾市まで作業も入れてちょうど1時間であった。生徒たちは、すでに到着していてエレベーターで三階の展示室へ運び込む。すでに会場のパテーション中だった。このブロック展、私は9回目になる。古株なので美術の先生方に顔は知られているうえに、美術科の教員ではないので、お客さん扱いで、いつも温かくささえてもらっている。生徒の作品も、規定がないので、下手くそでもOK。夏の高校展とは”気分”が違うのである。

 今年の本校美術部のメインは、『空堀かるた』と空堀まちアートに出品した『ベンチに寝るオジサンのオブジェ』である。1月18日付のブログでも書いたが、私の分のかるたをB2パネルに生徒が綺麗に貼って展示したものである。読み札と絵札を見比べることができる。なかなかの出来栄えである。もうひとつの『ベンチに寝るオジサンのオブジェ』は、今日、突然タイトルがが変わった。2年生の部員4人の話し合いの結果,昨年まで彼女たちに数学を教えていた元首席で今は某校教頭の名前を冠した。4人とも大ファンだったそうだ。「名前勝手に使ってもいいですかねえ。」と言うので、私は即決済した。何故なら彼は20年来の弟分である。「絶対だいじょうぶ。怒るような奴ではない。」空堀まちアートの時から、少し変化している。手に抱えているのは、だいぶ以前実施された予備校の模擬試験の学習の手引きだそうだ。どうやら美術室にあったらしい。(笑)シュールな感じではあるが、芸術と呼ぶには幼い。まあ、高校生の作品は、背伸びしているものが多いので(自分にも十分思い当たるフシがある)好きにさせておいた。遊び心こそ、芸術の構成要素のひとつである。

 ところで、龍動(ロンドン)の息子から、妻に様々な情報が寄せられている。フロイドの博物館はなかなか見ごたえがあり、フロイト・スリッパ?を売っていたとか、大英博物館に、「聖☆おにいさん」が展示されていたとか…。どうでもいいような情報だが、こっちの方がシュールであったりする。

2011年2月9日水曜日

NYC チャイナタウンの飲茶話

NYC チャイナタウン
 『2月9日(ブルームバーグ):フランスと米国の小麦の価格差が過去3年で最大の水準近くまで広がっている。食料価格の高騰を背景に抗議行動の拡大を食い止めようとする北アフリカ諸国政府の需要が急増しているため、価格差はさらに広がる可能性が高い。 穀物販売について約2000カ所の農場に助言を行うアグリテル(パリ)のコンサルタント、ゴーティエ・ルモルガット氏によると、パリのNYSEユーロネクストの小麦価格はシカゴ商品取引所(CBOT)を20%上回っている。フランスの主要穀物ターミナル、ルーアン港の小麦価格は2カ月ぶりの高値に達した。同港のデータによると、ここからアルジェリアやエジプト、モロッコなどに輸出される。』Bloomberg.co,.jpのニュースからの引用である。
 ああ、またこれで、サブ=サハラ・アフリカ諸国の穀物の価格があがるだろう。アフリカ3の人びとにとって、最もこたえるのが、こういう食料の価格上昇だ。自由貿易は世界の必然的な流れかもしれないが、マーケットの支配は非情である。”市場を飼いならす英知”はないものだろうか…。などと呟く今日の私であった。
 では、今日の本題。地理Aの授業で、またまたアフリカへの中国進出の話をしていたのだった。(地理Aは2単位なので、3年生の現代社会などより進度が遅くなるのである。)スーダンでの中国の治外法権的進出の話をしていて、見事に脱線してしまった。「要するに、チャイナタウンやな。ところで、チャイナタウンと言えば…。」と、私は、NYCのチャイナタウンの話をしだしたのだった。
 チャイナタウンで飲茶をした時の話である。NYCのレストランは、香港と同様、おばちゃんが車を押しながら、うろうろしている。で、セイロを開けて、欲しかったら注文するのである。エビシュウマイや春巻きなどをピックアップして食べていたら、妙な視線を感じた。どうみても田舎の家族のパパといった感じの白人である。私は推測した。彼は、飲茶のシステムを知らなかったのだ。アジア人である私のまねをすれば、きっとハズレないと考えたのだろう。同じ飲茶の皿が並んでいた。(笑)私は、その時かなり空腹で、いわゆる”中華ちまき”を食べたくなった。もち米を蒸して木の皮で包んだヤツである。かなりハードなサバイバルイングリッシュで、おばちゃんに聞いてみた。彼女は最初?だったが、やがて解ったらしく、しばらくして持ってきてくれた。(貧乏旅行だったが、チップをはずんだのは言うまでもない。こういうことも生徒には教えておくべきである。)私が、木の皮を開き、美味そうに食べるのを見て、例の田舎の家族が動揺しているのがわかる。子どもが私を指差してパパにねだっていた。(笑)

 アメリカでは、中華料理はチープで量が多くて、だいたいハズレなし。アメリカで困った時は中華がいいという、全く関係ない話をしていたのだった。ちなみに、アフリカでは、見事にハズレる。ジンバブエで食べた中華は、最悪だった。サザ(ケニアのウガリと同じ)にしとけばよかった。(笑)

2011年2月8日火曜日

マラウイの放屁禁止法案と国技

マラウイの新国旗 いつの間にか変わった
昨日だったか、WEBでマラウイのこんなニュースを見つけて以来、ずっとあることを考えていた。
『アフリカ南東部マラウイの国会で今週、公共の場所でのおならを禁止する法案の審議が始まる。6日までに、AFP通信が伝えた。ビング・ワ・ムタリカ大統領(76)率いる現政権の重要人物であるジョージ・チャポンダ法相(68)は地元ラジオ局の番組に出演し、「民主化された16年前から、人々はどこでも自由におならをして良いと考えるようになった」と指摘。「政府には社会の品位を保つ権利がある」と説明している。法案が可決されれば、おならは軽犯罪になるという。(産経ニュース2011.2.7 10:50 )』

 面白可笑しく話題にする気はない。要するに、マラウイの良き伝統を守れと、この法相は言っているのである。民主化=伝統の破壊だという簡単な構造ではないだろうが、アフリカをウォッチングしている一人として、やはり気なる問題である。

 さて、本題。このところマスコミが、「国技・大相撲」の八百長問題で騒いでいる。調べてみた。大相撲=国技なのか、法的にはなんともはっきりしない。玉虫色。極めて日本的である。広く国技と認められているといっても、法律で規定されているわけではない。
 私は、考えれば考えるほど、みんな、結局大相撲協会に、どうして欲しいのだろうと思ってしまうのである。大相撲は某女子柔道・金メダリストの議員が言うように、スポーツなのか?年6回の場所という名の”興行”で、弁当や酒を手に楽しむのである。柔道は、今やJUDOになっている。会場でそんなことしたらあかんやろうと思う。プロの力士で構成される大相撲は、一般のスポーツとは少し違うと私は思うのである。
 某都知事は、「何をいまさら。」と言っているようだ。私はこの人のことを好きではないが、今回は同意見である。以前、東西の控えを行き来することを禁止したのはなぜか。私は、大相撲に八百長(というより星の貸し借り)があったのは事実だと思う。これこそ多くの人々が秘かに思っていたことではないかと思うのだ。集団主義の日本で、苦しんでいる仲間がいる。あと一歩で勝ち越しだ。お互いさまではないか。助けてやろう。その行為(好意)はいつしか返ってくる。…極めて、極めて日本的な価値観ではないか。この心情を私は理解できる。これは形而上の問題である。それをメールという方法で、さらに”20万返してほしい”などという形而下な問題に落としめた、新聞報道された馬鹿者の罪は認める。そんな重要なことが解らない者は解雇されてしかるべしである。
 だが、純日本的な心情で”星の貸し借り”をした力士も、全て形而下の罪を認めるべきなのか。大相撲はスポーツだとは言い難い。それを”スポーツ”という”マスコミ的正義”で追求した場合、大相撲は解散するしかないではないか。着地点の見えない、ヒステリックな報道はやめてほしいもんだ。
 
 マラウイの放屁禁止法案を笑うなかれ。我々は、”星の貸し借り”という日本的行為(好意)を、近代化とう名の啓蒙的理性で禁止しようとしているのではないか。
 
 もし、反駁があれば、リアクションだけでなく、是非ともコメントして下さい。

2011年2月7日月曜日

アフリカン・モバイルの話

昨日のワンフェスでルワンダの研修員さんと
語りあう私の後ろ姿 U先生撮影
昔々、DoDoWorldという道祖神(アフリカ専門の旅行会社)の雑誌に、「アフリカン・モバイル」について特集が組まれたことがある。R大の高校生懸賞論文で二匹目のドジョウを狙ってこの記事を元に生徒に論文を書かせたことがある。まだまだ”アフリカン・モバイルの可能性”が語られ始めた頃のことだ。以来幾星相。アフリカン・モバイルは、凄い勢いで拡大している。今日は、地理Aで1年生にそんな話をしていたのだった。

 アフリカでは、携帯はかなり安い。以下は、宮下洋子氏の世界のモバイル事情 アフリカ編(2)からの引用である。http://wirelesswire.jp/Global_Trendline/201101272030.html
 『ULCH(Ultra Low Cost Handset)は文字通り超低価格の端末である。徹底的にコストを抑えることを念頭に開発されており、端末自体の価格も2,000〜5,000円程度と低い。日本で販売される端末は通常5、6万円程度であることを考えると、まさに20倍の開きがある。ULCHは端末価格を最大限に抑えるため、音声通話やSMS機能に特化させ、カメラはなし、ディスプレイもモノクロ、インターネット機能はなく、せいぜいついていてもFMラジオ程度となる。その一方で、新興市場における人々の生活に密着させる工夫も見逃せない。一般的に電気設備が充実していないことから端末が充電しにくい環境を考慮し、電池の長寿命化を図っており、待受けだけなら1カ月充電しなくても使える。農業など屋外での仕事に従事する人々も多いことから、耐水性や耐衝撃性を強化したものも多い。(フィンランドの)「Nokia 1202」はもっとも販売台数の多い端末の一つである。ナイジェリアでの販売価格は3,700ナイラ(NGN)、円換算すると約2,000円となる。(1ナイラ=0.54円)エントリー/ローエンド向けの製品で、初心者でも操作しやすいこと、端末を低価格に押さえることに注力している。カメラやインターネット機能はなく、ディスプレイもモノクロ。もっぱら音声通話やショートメッセージ機能に特化している。端末は80グラムと小型で手にすっぽりと入る大きさだ。その一方で、市場の特性に注目し先進市場ではあまり一般的でない機能も見られる。電気のない所で懐中電灯の役割を果たす「フラッシュライト機能」を搭載、耐水性、耐衝撃性を強化し、通話や待ち受け時間を延ばすため、電池の超寿命化を図っており、待ちうけ時間は860(約36日)時間と長い。アフリカ各地に展開するボーダフォンは2010年2月、新興市場向けの携帯電話「Vodafone 150」を発表した。この端末は、端末販売奨励金なしの価格で15ドルと抑えた。』
 『これまで主要携帯電話メーカーの寡占状態であったアフリカ市場にも、変化が見られるようになってきた。ローエンド市場では、中国系メーカーによる低価格な製品が市場を席巻する勢いを見せている。さらに「山寨機(さんさいき)」と呼ばれるノンブランドの携帯電話がアフリカにも流入してきた。低価格な端末が流入した場合はとびつくことも予想され、これまで巨大な勢力を持っていた端末メーカーの構図も変容する可能性もある。』

 一方で、ケニアなどでは、スマートフォンも大人気だそうだ。アフリカ1から、アフリカ2へ。そしてアフリカ3へと、アフリカン・モバイルは広がっているわけだ。私は8年前、携帯のバッテリーを充電するインフォーマルセクターをキべラスラムで見た。さらにブルキナでは、国道でプリペイドカードを売り歩くインフォーマルセクターの少年たちも見た。識字率が向上すれば、カラーディスプレイになり、インターネットが見れるようになるのであろう。その頃には、サブサハラ・アフリカでも悪いガバナンスは駆逐されるかもしれない。それは、チュニジアやエジプトの例を見るまでもない。

2011年2月6日日曜日

TV大阪 風をつかまえた少年

ふっと新聞を見たら、テレビ欄に、TV大阪(全国的には東京12チャンネルかな?)の「池上彰の世界を見に行く3時間スペシャルの③世界最貧国で起きた奇跡の物語…天才少年インタビュー日本人への伝言」という文字を見つけた。ピンときた。例のマラウイの「風をつかまえた少年」の解説が池上彰だったからだ。なんとか間に合って見ることができた。民放らしく、再現ドラマはちょっとクサかった(標準語ではどう表現するのだろう、ダサイ?)が、最新の情報もあってなかなかよかった。2月に入って1日2回更新が増えているが、あえて書いておこうと思う。現在、ウィリアム君の家では、2つの風車が回っている。当然さらに効率を上げたウィリアム君の製作によるものである。12か所の電燈が完備されている。妹が他の人より勉強する時間が増えてクラスで5番になったとコメントしていた。(笑)屋根には、ソーラーパネルが設置され、さらに電動モーターによる地下水のくみ上げが行われており、5か所の蛇口が完備。近所の人たちにも無料で開放されている。近所で子供が死ななくなったという。さらに、お父さんの農場では、灌漑設備のおかげで、それまで年1回だったメイズ(とうもろこし)の収穫が、年3回になっていた。凄い。
ウィリアム君は、小学校の校舎を寄付していた。おそらく篤志家からの自分への奨学金を回したのだろうが、そこにはソーラーパネルから電気が供給され、天井に照明がある。彼が最初に作った風車は、すでに塔が朽ちたのだろう。残骸になっているが、それが小学校の校庭にメモリアルとして立っていて児童たちは、それを見て勉学に励んでいるのだという。
 父や母、友人、図書館の女性、彼を見いだした博士等、本に出てくる人びとの生の姿や図書館、廃材を拾った現場も見ることが出来た。「自分を限定しないこと。チャレンジし続けること。」彼の生きざまは、少しずつマラウイを変えているのだ。素晴らしい。

  ビデオを取る暇もなかった。あっ!我が家にはビデオがないのだった。U先生に連絡したらよかったが、後のワンフェスである。

ワンフェス2011 第2日目

WITHのディスカッション
 ワンフェス第2日目である。今日は、WITHのディスカッションが10:00からあるのだが、毎週見ているTVアニメのONE PIECEが、極めて大事な回(エースが死んで白ヒゲが怒り海軍本部をぶっつぶすところ)なので、申し訳ないが、約1時間以上遅れで参加したのだった。さすがに、これは見逃せない。(笑)今回のWITHは、会場も広くなり、うまく運営していた。なかなかいいではないか。誰も大人がかんでいないのが何より良い。ディスカッションのテーマは「ボランティア」。なかなか難しい。一般参加者も交えて熱心な討議が行われたようだ。それぞれのテーブルにWITHの高校生が司会役で入っていて、今どき珍しい学生服のメンバーにおっちゃんが、「話を聞くときは相手の目をみたほうがええで。」と激励していた。いいなあ、こういう空間。

 実は、上六から来る時、N女子大付属中等学校のM先生とハズバンドのC氏に会ったのだが、そういう関係で、急いでWITHに行ったので一緒に回れなかった。二人を探していると、本校のU先生と出会った。さらに、近くの専門学校で漢検を終えたばかりの、模擬店をハシゴしている国語科3年生に出会った。(笑)大阪市のNPOに絡んでいるWITHのOGのK君とも出会った。昨日もD女子大の教え子の友人たちにも会ったし、知り合いの先生方にも多く出会った。私にとってワンフェスはそういう空間である。

 さて、結局模擬店で何も口にしないまま、昨日から目をつけていたザンビアのタペストリー(1300円)を購入して、12:30から始まる「スタディツアーから始まる国際協力」という部屋に飛び込んだ。すると、先日紹介した最優秀PRSP(2月1日付ブログ参照)のR大に進むT君と、同じバレー部で友人の大阪O大学に進学が決まっているK君から声を掛けられた。「えっ?」という感じである。聞くと、先ほどまで「JICAの教員派遣研修・タンザニアの報告」を聞いていて、昼からは、ここと決めていていたんだそうである。昨日も来ていたし、かなり、通の動きではないか。面白かったのは、パネラーが、彼女たちの進学するR大、大阪O大、そして広島経済大学の大学教員だったことだ。偶然とはいえ面白い。内容もなかなか面白かった。大学でスタディツアーを実施するにあたって、指導教員から見た話をされていた。それぞれが違うのだが、スタディーツアーで学生に得てもらいたい想いは同じである。特に、R大のF先生の「スタディツアーというと、極度の貧困を体験したいという学生もいるが、それには極めて周到な準備が必要である。本学のように、被災したインドネシアの学校を再建し、その村の開発に地道に協力していくといった、ある程度達成感をもつツアーのほうがいいと私は思う。」という言に納得した。6年間、そういうスタディツアーをR大は、やっているのだ。大阪O大のほうは、O先生が「国際協力」の講義をする中で、講義の限界を感じてやりだした授業の一環なんだそうだ。「カンボジアで得た一時の体験でもいい。なにか感じてくれたら。」という言葉に感銘を受けた。わかる。わかりますようぉ。終了後、F先生、O先生にご挨拶申し上げた。彼女たちにとって大きな出会いになったと思う。メデタシ、メデタシ。

 今回のワンフェスで追加された私の「地球市民の記憶」(常設ページ参照)は、3カ国増え、87カ国になった。昨日は、アゼルバイジャンのJICA研修員さん。3人のOGたちと共に会った。「首都はバクーですね。」と言うと握手を求められた。OGたちに「どこですか?」と尋ねられ、地図のカスピ海の西を指した。今日は、モーリシャス、そしてルワンダのJICA研修員さんと話せた。モーリシャスは、繊維工業の雇用で1人あたりのGDPが高いアフリカでは成功している島嶼国である。それを言うと、ニカッと笑ってくれた。ルワンダのご婦人は、フツ人だそうだ。あの虐殺を超えて、良き大統領の元、IT国家として進展著しい事を生徒に教えていると述べると、「私は、IT技術者です。ルワンダの為にがんばりたい。会えて嬉しい。」と手を握り締めてくれたのだった。 
 桐生さんとのやり取り以来勢いづいたザンビアの方を中心に、今年もアフリカの人びとと触れあえた充実したワンフェスだった。

2011年2月5日土曜日

ワンフェス2011 第1日目

ワン・ワールド・フェスティバル 第1日目朝10:30
 2月の第一土日曜は、なんといってもワンフェスである。今年は、まず「なんとかしなきゃ!プロジェクト」の方に玄関で捕まった。WEBサイトに登録しませんか、ということで登録した。様々な国際協力の情報が送られてくるらしい。拒否する理由がなにもないし、オリジナルのキッチンタオルをくれると言うので、特設のPCでホイホイと登録した。私は枚方市で3番目のサポーターらしい。長嶋である。(笑)今年は、早く着いたので、すこし2FのNGOブースをひやかす。おっと、私のクラスのOG3人に見事に会ったのだった。昨日のブログで話題になったK大のO君、K市立外大のO君、O教育大のK君である。また後で会おうと言ってから、タンザニア関係のNGOで、ティンガティンガのポストカードを買ったのだった。
 今日の最大の目的は、JICAのアフリカからの研修員さんの母国紹介(会議室CD/11:00~12:00)である。地方行政政策を学びに来ている方々で、彼らのガバナンスへの想いを聞きたかったのである。会は、10:45くらいから予定より早く始まった。ケニア、タンザニア、そしてザンビアの代表が、母国の紹介と、地方行政について語ってくれた。ザンビアのコーリン・マドンド女史は地方自治省の幹部で、ケニア・タンザニアの代表よりもかなり戦闘的な口ぶりで、「ザンビアこそ、本当のアフリカです。ケニアやタンザニアにいる野生動物はみんないます。」と言った。会場が沸いた。(笑)彼女の話がいちばん解り易かった。なぜならハッキリ、「中央政府の高官は遅れている。」と言ったのだった。タンザニアの方も同様のことを言ったのだが、彼女の姿にダンヒサ・モヨ女史(12月27日付ブログ等参照)の姿が二重写しされたのだった。はっきりとデモクレイジーのことは述べなかったが、言下にガバナンスが悪いことを示唆していた。で、会が終わった後、JICAの方に通訳をお願いして、同じザンビア人エコノミストのモヨ女史の「援助じゃアフリカは発展しない」を読んだかどうか聞いてもらった。答えは、やっぱり読んだとのこと。私は嬉しかった。彼女らは改革派なのだ。私は「今、アフリカの最大の問題はガバナンスの悪さだと思うが…」と言うと「同感だ。」と握手を求められて、記念写真を撮ったのだった。満足満足。

ウガリをポレポレ製作中
 さて、3人のOG達はといえば、民族衣装を借りてJICAの研修員を探せゲームを楽しんでいた。さすがに、英語だけでなく、フランス語やスペイン語もしゃべれるわけで、高校時代とは違う。(笑)今日の模擬店街では、”ウガリ”(白トウモロコシの粉を湯でた東アフリカの主食:タンザニアでもウガリ、ザンビア・マラウイではシマ、ジンバブエではサザと言う。)を食べさせてくれる店が出ていた。交野市の協会であった。そこの日本人スタッフの方や、ケニアの兄ちゃんと仲良くなった。さっきのアフリカの研修員さんたちも集まってきて、完全にアフリカの屋台前化していた。(笑)私としては、何としてもウガリが食べたかった。ところが、”ポレポレ(スワヒリ語でゆっくりゆっくり)”である。なかなか出来ない。(笑)大分待ったが、スワヒリ語が飛び交う空間だったし、満足である。ジンバブエ以来で、ビーフシチューをつけて食べた。当然手で食べるのが私の流儀である。なかなか美味かった。

 明日は、関わりのある高校生のボランティア団体のWITHの会をのぞいてから、興味ある報告が2件ほどあるので、また出かけることにしている。今日も現役の本校生らに何人か遭遇した。こうして国際協力の世界と関わってくれることは嬉しいことである。

追記:かえる君、読者登録ありがとう。ベトナムに続いてヨルダンに行けるといいね。Eriko MIYAMORIさん、読者登録ありがとうございます。これで、読者が21人にまで増えました。信じられないほど有難い事と、合掌状態です。ところで、予期していなかったことなのですが、20人分の読者アイコンが並び、古くからの読者である哲平さんのアイコンが”次へ”のページになってしまいました。設定等だいぶ触ってみたのですが、現在の私のコンピュータ操作力では何ともなりませんでした。哲平さん、すみません。

2011年2月4日金曜日

ザンビアの桐生さんとO君へ

農具を見せるオマーン ブルキナにて
 今年になって『読者』が、どどっと増えて本当に嬉しい。
  さて、昨日、tomofumi.kiryu さんから、こんな有難いコメントをいただいた。『読者登録の件、記事中でもご紹介していただきまして誠にありがとうございます。現在、ザンビアで青年海外協力隊(理数科教師)として活動中の桐生と申します。大学で開発経済学を学んだ後、以前は日本で開発教育の活動をしておりました。帰国後は高校社会科教師としてESDをライフワークにしたいと考えていたところ、こちらのブログを発見し、先生のなさっている教育活動に感激いたしました。突然のご連絡で誠に不躾とは存じておりますが、よろしければご連絡先をお教え頂けないでしょうか。アフリカで生活するものとして、何らかの形で先生のお役にたてないか…、と考えております。』
 私は浅学だし、tomofumi.kiryu さんにこんなに誉めていただくほど、たいしたことなはいのだが、ブログを立てて、本当によかったと思ったのである。こうして輪が広がっていくことが嬉しい。さっそくメールを送らせていただくことにしたい。ザンビアの人と話したことはあるが、ザンビアには行ったことがない。ケニアに行った時、帰りのナイロビ空港で、北海道教育大学の学生さんと会った。初の海外旅行が、指導教授に連れられてのザンビアだと聞き、同じ地理教師の金沢のT先生と「銅で有名だね。」としか答えられなかったことを思い出す。ホント、実際に行って五感で感じないとわからないのである。本当にわからないのに、わかったふうに話すのは社会科教師の宿命とはいえ、つらい。勉強、勉強である。tomofumi.kiryu さん、ザンビア情報、よろしくご指導下さい。

 ところで、サバナの農業については、OGのO君に完全に先を越されてしまった。(2月2日付ブログ参照)ちょっとコメントにも書いたけれど、正直に告白すると、阪大のスワヒリ語科にO君の2年上の先輩がいて、彼女は1年間タンザニア・ケニア・ウガンダを回っている。完全にアフリカの専門家である。彼女のコメントだと私は思いこんだのだった。…だって、かなり専門的なコメントであったから。O君は、K大の政策創造学科である。入学当初、メールで「なにかいい本ありますか?」ときたので、最底辺の十億人を推薦したら、「担当教授と同じです。(笑)」というメールが返ってきた。それが、あっという間に追い抜かれたのであった。私がM君と間違えてしまったのは、O君の成長が著しすぎたからである。これは言いわけではなく、誉め言葉である。O君は、3年間私のクラスだったが、社会科の選択科目の関係で、実は一回も授業で担当したことがない。O君は真面目な生徒で、おとなしいのだが、しっかりした生徒だった。2年生の文化祭では、ミュージカルをやった時、照明の責任者であった。論理的に物事を詰めていけたので、適任だった。彼女の果たした役割は大きい。こうして、成長した姿に接していけることは嬉しいなあと思う。同じK大で、来年教育実習に来るN君も、今「フェアトレード」をやっていると聞いた。なんか、多少なりとも影響を与えているようである。

 tomofumi.kiryu さん、ESDをライフワークにする高校の社会科教師には、こういう醍醐味もあります。どうか、マラリアには気をつけて、日々頑張って下さい。

2011年2月3日木曜日

私のPRSP 2010 その4

ミニ国連の時の様子から
 政策専門のOGから、嬉しいコメントが来て、回答して、またコテンパンにされてしまった。(笑)まだまだっ!私は高校教師の限界に挑戦したいところである。懲りずに、「私のPRSP」を書きたい。今日のPRSPは高校生らしいものを選んでみた。

 ニジェール:周辺諸国と経済的同盟を結ぶ。ニジェールは内陸国なので輸出もままならない。関税をゼロにして交通の整備を同盟内で行う。
 タンザニア:水力発電が干ばつで支障がでたらしいので、太陽光発電を導入することが重要ではないか。また綿花の生産を雇用に効果的な衣料工業に発展させる。この経済的効果を教育や医療に活かしていく。 
 コートジボアール:学校に通うことができる子どもたちを集め「子ども政府」をつくり、貧しい子どもたちに勉強を教えたり要望を聞いてそれをまとめて、本当の政府に通達する。8歳から18歳までで男女の割合比率を6:4とする。
 ザンビア:ヴィクトリアの滝はジンバブエとザンビアの国境にあるが、ザンビアはジンバブエにも観光客を呼び込み商業の発展を目指す。
 セネガル:学校の制服を廃止し、教育を少しでも受けやすくする。子どもと同時に親たちへも教育への関心を深めさせる。
 マラウイ:電力普及が10%なので、電力の普及が必要。農村の生産性を向上させるために農村を中心に普及させる。無農薬の紅茶栽培をインターネットで販売し、マラウイ紅茶のブランド化をはかる。
 ウガンダ:IT立国を目指している「アフリカの奇跡」ルワンダと協定を結び、農業や観光業をそのスピルオーバーで発展させる。
 アンゴラ:石油やダイヤモンドのレントを、教育に使う。授業料は無料で全員義務化するとともに、海外留学への奨学金にあてる。この奨学金を受けるものは、学ぶ目的を明確にし、必ず帰国を義務付ける。
 カメルーン:様々な気候や動植物に恵まれているので、観光立国をめざす。そのための教育・インフラ整備が必要。
 スワジランド:まずは王制をぶっつぶす。そして南アフリカ共和国の一部(自治区みたいな感じ)になるべきだ。

 試験の答案に書くのと、レポートで書くのとでは、やはり難度が違うのだなと思いつつ、選んでみた。無茶なものもあるが、一応、『高校生のためのアフリカ開発経済学テキスト』を学んだ3年生かな、という気がしている。ところで、このテキスト、さらに進化をさせようとV.4.01を書き始めた。今度は引用文を私のオリジナルの説明文にして、もうすこし平易化しようと考えている。

追記:読者がさらに増えていることを発見しました!感激です。Yoshihiroさん、hashimoto kouさん、本当にありがとうございます。これで読者が合計19人になりました。どしどしコメントやリアクションお願いします。

2011年2月2日水曜日

ガーナの「教授」に捧ぐ

タマレの中学校での授業風景だそうです
 二日続きで1日2回更新を行います。と、いうのも、昨夜、私を含めた、8年前にJICAケニア教員視察に行ったピーター会メンバーにとって、とてつもないニュースが入ってきたのです。ピーター会の一員で、神戸で理科を教えていたI先生が、ガーナに行かれていたのです。すでにガーナに来て4ヶ月。ガーナの第二の都市のクマシの教員養成Collegeで理科実験を教えているそうです。シニアボランティアとして、奥さまと共に、2年間ガーナ…。いいなあ、理数科の先生は!と思った次第。
 このI先生は、その人格と風貌で、ケニア視察中メンバー内では『教授』と呼ばれていました。様々な道具を使って理科の実験をするのがお好きで、実際、訪問したセカンダリースクールやスラムの施設で子どもたちに実験を見せておられましたし、赤道でも私たちに実験をして見せていただきました。まさに適職です。いいなあ。ガーナ。
 国際協力の様々なカタチがありますが、I先生のように、教職をリタイアされて、自分の教師時代の特技を生かし、さらに夫婦でアフリカに渡る、というのは私にとってまさに、”理想”です。なにより2年間ガーナで過ごすだけの体力・気力・知力をお持ちだと言うのが羨ましい。

 残念ながら糖尿持ちの社会科教師の私にとっては夢のような話です。日本から、ピーター会の仲間を熱烈応援して行きたいと思います。(写真は一応メールで使用許可を申請中なので…使わせてもらいました。)”教授”、頑張って下さい!

追記:Chickさん、読者登録ありがとうございます。17人目の読者です。いやあ、嬉しいです。このところ読者が増えて本当に嬉しいです。コメントやリアクションもよろしくお願いします。

サバナ気候の農業開発小論

昨日の「私のPRSP2010その3」に、こんなコメントが入ってきた。『こんにちは!OBです:)笑 私は昨年のゼミ大会で「コンゴ民主共和国:サバナ気候の農地開発」というテーマで発表しましたが、結論を導き出すことは困難でした。結局半ば強引に、アレイ・クロッピングや混作といった既存の農法を組み合わせて結論としました。サバナ気候は降雨パターンだけでなく、土壌そのものが農業に不適なので、ダムなど大規模な開発が必要になりそうですね。何か有効な方法ありますか?笑 』

 この匿名のOB、かなりのアフリカ専門家である。よって、誰だか、私にはすぐ分かった。(笑)嬉しいコメントである。”アレイ・クロッピング”というのは低樹木を作物の間に植えて、土壌浸食を押さえ、土壌化学性(たとえば、サバナでは、酸性の土壌をアルカリ性に変えていくとか)に効果がある可能性がある(まだはっきりしていない。)農法らしい。いやあ、ブログを立てたおかげで勉強になる。と、いうわけで、今日は、JICAの情報を探したり、コツコツとアフリカ農業の本を再読したりしていたのだった。ありがたい話である。

 JICAでは、ブラジルのサバナ地帯で大規模な農場を開発したようだ。その成果を今度モザンビークで実施するらしい。では、どうするのか?以下引用。『技術的には土壌改良です。セラード土壌は、簡単にいえば「栄養分が溶脱した『出がらし土壌』」です。土壌は強酸性で、作物の生育を阻害するアルミニウムの濃度が高いのが問題でした。こうした土壌に石灰を散布して土壌酸度を矯正し、肥料を加えることで土壌改良を図ったわけです。また、大豆、トウモロコシ、小麦といった温帯作物の熱帯性品種を育種したことも成功の要因に挙げられます。』
 アフリカでの開発にあたっては、これも以下引用。『ブラジルのセラード農業開発は、無人の不毛地帯を技術力と資金力で耕地化できるか否かかが主要課題でした。インフラ、近代経営農家、マーケットなど、アグリビジネスの土台は一通りそろっていました。しかし、アフリカは技術・資金面だけでなく、農家の技術レベルや流通面でも課題が残ります。開発から流通に至るまでの資機材、貯蔵施設そして国内市場が不足し、農家もまとまっていません。セラード型サバンナ開発の技術移転はできますが、課題はどうやって地域開発をするかです。組合活動の導入や試験研究・普及活動・融資制度等の行政能力の向上、社会経済インフラの整備など、地域の社会・自然・経済環境に適した「新たな開発モデル」の構築が必要です。』BRICsのブラジルと、アフリカでは、開発の方法がが違うというわけだ。
http://www.jica.go.jp/story/interview/interview_75.html

 この、アフリカの農村開発の方法について述べた本に、二木光氏(JICA専門家)の『アフリカ「貧困と飢餓」削減のシナリオ』がある。これは大分前に、買っておいた本でなかなか面白い。持続可能な農業のための方策が長年の経験をもとに書かれている。①堆厠肥使用等による土壌肥沃度の向上②作付体系の合理化(特に豆類作物の導入)③土壌浸食防止④適正灌漑法の導入⑤稲作の推進(陸稲)などなど(P188参照)
 サバナでは、①に当然土壌にはまず石灰を散布しなければならない。③は、アレイ・クロッピングが有効かもしれない。④はダムというか、私がブルキナで見たため池のようなものでいいと思うけど…あるいは、深い井戸で地下水を利用する方もある。塩害が怖いし、酸性が強くて農業用水にはダメかもしれないが…。⑤陸稲であるネリカ米の生産にまでこぎつけたら、かなりいいと思う。
 と、いうのが今日現在の私の解答である。近々、京大で開催されるアフリカの農業についての講演会に行く予定である。専門家に”正解”を聞いてこようと思う。いやあ、面白かった。”学び”と言うのは、こういうことを言うのではないか。匿名君、ありがとう。(笑)

2011年2月1日火曜日

私のPRSP 2010 その3

 1日に2回の更新となるが、是非とも「私のPRSP」を書きたい。と、その前に、今日は6人ものOGが里帰りしてきたのだった。完全に女子大生化したK外大の4人とK大、W大の皆3回生である。案外みんな他のOBの近況に詳しかった。そういう話を近くの喫茶店で聞いていると、幸せな気分になるのだった。せっかくなので、後輩の口の悪いI先生と、3A担任の君子然としたT先生とともに記念撮影をした。(笑)みんな、就活がんばれよっ!
 
 さて、「私のPRSP」である。以前に書いたように、座席の列ごとに国を抽選した。書きやすい国、書きにくい国がある。しかも学年末考査で持ち込みなしだから、レポートで書くよりはるかに難しい。これから紹介するのは、R大の政策科学部に進む某君の答案である。彼女にとっては、大学入学前の良きトレーニングになったと思う。ちなみに一字一句原文のママである。

 <タンザニア>
1.概要 東アフリカに位置する。人口約4000万人、政治的に安定しており、経済成長率は年6~7%である。主要言語はスワヒリ語・英語で、100以上の民族が共存している。主な産業はコーヒー、綿花など。
2.長所・短所 (ア)長所 政治的にとても安定。ガバナンスが良く(現在の大統領の支持率80%以上!)識字率も70%を上回っており教育面でも大きな問題はない。アフリカ最高峰のキリマンジャロや豊かな自然を有する国立の自然公園などもあり観光業がさかんである。(イ)短所 高い経済成長率(前述)を保っているにもかかわらず、GNIは依然低いまま。国際的な区分でいうところの『最貧国』である。気候が雨季と乾季の変化しかないため、雨季に降るはずだった雨が降らないと大規模な干ばつが起こってしまい、その干ばつにより経済が安定しない年もある。男性の識字率に対する女性の識字率が7割強と、少し差が生まれているのも気になる。
3.PRSP ①長期的展望 タンザニアには今後、東アフリカ、あるいはアフリカ全土を代表する国になれる可能性がある。なぜなら、ガバナンスがわるく、もがき苦しんでいる国が多くある中でタンザニアは化石燃料や特定の作物がほとんどないにもかかわらず、良い経済状態を保っているからだ。タンザニアがこれから先、貧困から脱却し、アフリカの中心を担い、経済的あるいは政治的に他のアフリカ諸国を鼓舞していくためのひとつの方法として、以下の提案をしたい。②具体的な政策とその理由(ア)観光業の促進 タンザニアにはたくさんの観光名所があり、毎年多くの旅行者が訪れていることと思う。それがタンザニアにとっての外貨獲得の大きなチャンスである。少し時間はかかってしまうかもしれないが観光事業の専門学校(初等教育後の技術中等学校枠に組み込むものとする)を設けたり、独自のツアーを作ったりして観光事業に就く専門家と観光客を増やせば、都市部への人の流入が増え、雇用も広がるであろう。そのためには政府からの補助金、または他国からのODAが必要となる。(イ)女性識字率の向上 タンザニアの成人識字率は高い方ではあるが、女性に関してはまだまだ低い。それが乳児また5歳未満の幼児の死亡率が決して低くないという事実の理由であることは疑いない。子どもに受けさせてあげるべき治療などを母が字がよめないために受けさせられないことがあるからだ。それを防ぐべく、学校や社会の女性に対する考えや見方を政府主導でかえるべきだ。

 【私の信じられないほど厳しいコメント】
 タンザニアは、過去のウジャマー社会主義によって、アフリカでは珍しい「国民国家」となり、多くの民族が共存しているという表現は正しい。彼女はPRSPに観光業のさらなる発展のための教育行政の試案を書いている。なるほどと思うが、さらにその試案上に、道路やホテル建設、それにまつわる上下水道や電気・ガス等、さらにゴミ処理施設までののインフラ整備が必要不可欠であろう。また人間の安全保障の観点から、女性の識字率向上政策を挙げている。ただ、政府主導ではなかなか難しい。具体的な細かな政策をさらに書いてほしかった。なにより、短所にある天水にたよる農業をいかにすべきなのかという政策がない。いかにしてサバナ気候で農業の生産性を上げるかというのは、なによりの重要課題である。(ちなみに彼女たちには、そういう地理的な講義はほどこしていないのであった。)

 とはいえ、答案上に、高校生の段階で、これだけきちんとまとめあげていることに、私は大いに満足している。さら今年のPRSPから、おもしろい提案を紹介していくつもりである。続く…。

アイダホバーガーの呪い?

 ♪トロリトロトロ~金曜日の朝くらいから、目に出来モノが出来てすこぶる痛かった。雑菌が入ったようだ。それがますますひどくなって昨日の朝には膨れ上がっていた。市販の”ものもらい”用目薬もきかない。(いつもならすぐ直るのだが…)職員室で目を拭くガーゼで目を拭いていたら、出血した。ヒェー。それで、昨日は勤務を終えてから、JR河内磐船駅経由京阪河内森駅、交野市駅というルートで、行きつけの眼科に行って来た。さすがは専門医である。軟膏を塗ってくれて、二種類の目薬やら抗生物質やらをくれたので、夜には大分落ち着いた。ところが今度は、両足がつった。寒い中歩いたりして冷えたことも大きな原因だろうが、ちょっと思い当たる節がある。
 それは、あまりに空腹だったので、眼科の近くのマクドナルドで、「アイダホバーガー」を食べたからだ。しかも最悪なことに、昨日は財布の中に常備している糖尿の薬がきれていた。朝食、昼食、そしてアイダホバーガーと三連続で、糖尿のクスリを飲んでいない。血糖値が異常にあがったに違いない。口の悪い後輩のI先生ともいつものように、缶コーヒーパーティーしたし…。それはあまりに見事に身体に現れたのだった。両足が同時につり、しかもフクラハギだけでなく、土ふまずのあたりも同時につったのだった。破壊的である。

 妻は、「アイダホバーガーの呪いじゃ。」とシニカルに笑った。というわけで、今朝も足がつって、起き上がれないくらい痛かった。それで前半休を取っているのである。3年生の授業がないので大きな迷惑はかけていないが、情けない事である。妻が「アホ」と言いながら湿布を貼ってくれた。もう少ししたら恥ずかしながら登校する。

 ただ一言最後に宣言しておきたい。アイダホバーガーはテキサスバーガー2より、はるかに美味かったのであった。