2012年8月31日金曜日

月末に「多文化共生」考

今日で8月も終わりである。初旬はイスラエルにいたのでエントリーできなかったが、アホほどイスラエルの事をエントリーしたので、これまでで最高の月間エントリー数となってしまった。(笑)8月の最後に今回のイスラエル行のテーマともなった「多文化共生」という概念について、あらためて整理しておきたいと思う。

現代国際理解教育事典(明石書店/日本国際理解教育学会 編著)によると、『1980年代以降に見られる国際化・グローバル化の急激な進展の中で、(中略)地域在住の外国人は飛躍的に増大している。このような多文化状況は(中略)その対応方策が問われるようになっている。』とまず書かれている。要するに日本の多文化共生について書かれているわけだ。その上で、以下のように書かれている。

『多文化共生を国際理解教育の課題としてとらえれば、これまでの文化理解にみられがちな、文化を、静的固定的相対主義的に理解すること、文化の異質性・共通性・多様性を理解することだけでは、今の状況に対応できないことは明らかである。つまり多文化社会の進展に伴う文化的状況とは、個人レベルからみれば、複数の文化にまたがって生きる人々が急増し、個々の文化的アイデンティティの形成過程が多様かつ流動的になっている状況を示している。』

たとえば、生活言語・学習言語として言語の習得、さらには母語の維持・習得は、まさに言語そのものが文化なので言語的な生活環境・学習環境の構造が個々人の文化的アイデンティティ形成に大きなインパクトを与えるという。また地域的には、多文化が、対立・緊張関係から同化・融合・並存という動的な側面をもつという。

『したがって、教育的には、多文化共生は「文化間の対立・緊張関係が、個人レベル、地域レベルで顕在化する中にあって、私たち一人ひとりが、グローバル化が進む社会状況や地域社会に見る伝統性・社会慣習など、その対立・緊張関係の様相や原因を歴史的空間的繋がりの中で批判的に読み解き、より公正で共生可能な文化の表現・選択・創造に参加しようとしている動的な状態」ととらえることができる。』

そして、国際理解教育の立場からは、この「動的な状態」に主体的・批判的・協働的に参加していくことが求められていると結ばれている。

この項の担当は、早稲田大学の文化構想学部の山西優二教授(社会学)である。私などがコメントできる立場にはない。(笑)ただ、イスラエルの状況を考える時、日本との社会構造自体の差異を考えなければならないと思われる。『多文化共生』の概念を明確にできたということで、今日はここまで。

2012年8月30日木曜日

『黒ひげ危機一髪』をつくる Ⅰ

新学期が始まって、明日で一週間になる。短縮授業4時間なので、授業時間は少ないのだが、放課後が長い。なんのこっちゃ?と言われるだろうが、文化祭の準備である。私はできるだけ生徒の自主性に任せたい。だが任せすぎると進まない。このジレンマが苦しい。(笑)先日のLHRの時、席替えをした。莫大な段ボールがすでに溜まっているし、これからさらにそれらが文化祭の展示の部品化していく予定だ。このままでは置き場所がない。古い先生方に聞くと、6列の座席を5列にしてしのぐのだそうだ。すると、1列に8つ机が続くことになる。まあ、文化祭までの暫定的な席ということでクラス代表に席替えを託したわけだ。SHRをしていても、なんか落ち着かないが仕方がない。(笑)

さて、初日こそ進行はなかったが、火曜日に『黒ひげ危機一髪』のバネを自作することになった。で、生徒が買ってきた針金を見てビックリした。太いのである。こりゃ無理だなと思っていた。少ししてから教室に行ってみると、印刷機の部品である円筒に、コイル状に強引に巻きつけている。手も真っ赤である。凄い力技だ。(上記画像参照)思わず「凄いな。」と感心してしまった。ペンチで切ってみた。おいおい、「バネ」やでこれは。理科のH先生に見せると、感激してくれた。そもそも、「文化祭だし、自作してみたらどうですか。生徒にも勉強になりますから。」と言ってくれたのはH先生である。思いのほか、弾力もあり、生徒たちは大いに褒めてもらったのだった。

と、いうわけで、もう一度制作にかかり、今度はもう少し長いものができた。これに合わせてバネを固定する仕組みを水曜日に考えた。結局、廃棄処分になった古い机を貰いうけた。生徒は、この机の中央に穴をあけると言いだした。どうするのかと思っていたら、生徒会室から、キリを借りてきて円形に穴を開けていくという、極めてストレートな方法を実践したのだ。4人の男子が入れ替わり立ち替わりして、なんと穴を開けてしまったのだった。(笑)
今日は、バネの固定が出来て、何度も実験した。樽の基本的な直方体の枠組みも完成した。「黒ひげ危機一髪」だから、剣をさすのだが、さすがに刺したからってピョンと飛ぶのは難しすぎる。分解したときにその仕組みの難しさを知ったのだ。でも任意に首を飛ばす基礎はできたわけだ。

と、いうわけでちょっとクラスは盛り上がっている。(笑)

2012年8月29日水曜日

『生きていく民俗』を読む

私は文化人類学は大好きだが、日本の民俗学には、あまり属性がない。そんな私がふと眼を止めた文庫本が『生きている民俗 生業の推移』(宮本常一著・河出文庫/本年7月20日発行)であった。普通、民族学では祭りとか特異な風習とかいった視点が多い。しかし、この本は「生業ー職業」に焦点をあてていて、面白いかなと思ったのだ。

宮本氏は山口県の周防大島出身。農家を手伝っていたが、大阪で郵便局に勤める傍ら市の内外を歩きまわることが好きだったようだ。大阪天王寺師範学校二部(現大阪教育大学)に入学し、大阪で訓導(現小学校教諭)となる。以後民俗学の研究の道に入るわけだ。決してエリートではなく、地道なフィールドワークを行った方で、柳田国男とは学閥が違い冷遇されたらしいが、民俗学の第一人者らしい。

この本の構成は、「自給可能な社会」と、それがままならならず交易を介することによって成り立つ社会、この2つの社会を軸に、生業=職業を探るカタチをとっている。自給可能社会として、奄美大島のさらに南にある宝島の話が出てくる。これがなかなか面白い。戦前までほぼ自給自足の生活が可能だったという。これは、塩の問題が大きいらしい。海の水から塩が作れるからである。それほど「塩」は重要だったのだ。長野県の塩尻などは、ここまで塩が運ばれてきたことが地名の由来になっているとか。たしかに、中国古代史でも塩の専売の話が出てくるし、ヨーロッパの中世史では岩塩の産出で富を蓄積した都市の話が出てくる。アフリカでも塩の道がある。ついつい、高校の世界史では、こういう重要な部分を無視してしまいがちだが、この本には、そういう生業の原点が示されている。民俗学の本だから日本の歴史が舞台だが、世界史の授業にも大いに応用できるわけだ。

と、同時に、今月は、イスラエルのレポートばっかりで、アフリカの話があまりエントリーできていない。この本を読んで、そういう法則性はアフリカにも応用できるのではないか、などとアフリカのことを漠然と考えていた次第。
もちろん湿潤な定住農耕社会である日本と全く同様だとは思わないが、自給自足の村に必要不可欠な生業という視点から、他の村との繋がりが見えてくる。そういう意味でも面白い視点を与えてくれた本だと思うのである。

2012年8月28日火曜日

ナツメヤシを生徒に振舞う

1学期末に、生徒にイスラエルの土産を買ってくると約束していた。何にしようかと迷ったのだが、結局「ナツメヤシ」(Date)にすることにした。イスラエルではフツーに売っていた。スーツケースは機内持ち込みサイズだし、食品だし、イスラエル当局に何を言われるかわからないので、結局息子の嫁のTさんに送ってもらうことにした。「ちょっと大きめで、甘ーいのを7クラス分280個」というリクエストだった。帰国後さっそくTさんからのイスラエル郵便局の段ボールが自宅に届いた。ホント迷惑をかけたなあと思う。いいお嫁さんである。

届いたナツメヤシは、リュックに入れて2日間に分けて学校へ運んだ。職員室の私のクラス用ロッカーにとにかく保管して、順次冷蔵庫で食べやすいように冷やしておくことにした。

さて、昨日は始業式で私のクラスの生徒から振舞ってみることにした。どういう方法で振舞うか熟慮した結果、家庭科の先生から大きめの皿を2皿借りてきた。ここに、箱から出したナツメヤシを盛る。箱におよそ20個ずつ入ってた。(Tさんの計算はばっちりである。)2人の生徒を指名し、それを二手に分かれて配るように指示した。我がクラスでの試行は、終了のSHRの時間で、宿題を集めたりしてゴタゴタしていた。十分説明しないまま、振舞ったので、あまり盛り上がらなかった。元気な男子は「甘すぎるっす。」「何ですかこれ?」とか言って反応が返ってきたが、大人しい女子は、じっと見つめていてるだけだったりした。(笑)

今日は、4時間の短縮授業のうち、3クラスの授業があった。私の手がチョークで汚れるのを避けるため、授業に入る前に、ゆっくり説明した。「これはナツメヤシという中東を代表する食品である。まあドライフルーツやな。あまり日本では食べないが、栄養がいっぱい詰まった、でかい干しブドウみたいなもんだ。」と説明しながら、ゆっくり2皿に盛ることにした。種が入っているコト、甘くて喉が渇くこと、手がべとつくことは我がクラスで経験した。まあ、異文化理解の授業の一環ということで、授業中だが、ゴミ箱に種を捨てたり、持参の水分を取ること、手を洗いに行くこともOKとした。後で、黒板に「ヤシの木にこんな感じで生っている。」と描くことも忘れずに。(笑)生徒たちはヤシと聞くと、あのでかい海から流れてくるようなヤシの実をイメージするらしい。「また改めて、LL教室でナツメヤシの画像も見せるなあ。」と言うと喜んでいた。

3年生のクラスになると、女子生徒が食べた後、「なかなかカロリーが高いもんやでえ。」と言うと「エー、ダイエット中なんですぅ。」と泣きが入ったり、男子が「これはムチャうまいです。」と言ってくれたりと、1年生とは違う嬉しい反応をしてくれることだ。本校の教育は正しい方向を向いている。(笑)

余った分はすべてジプロップに入れて保管。私の担当している7クラス全ての生徒に振舞い終えてから、先生方に配ろうと思っている。完全に生徒主体である。と、いうわけで実は私もまだ食べていない。(笑)

2012年8月26日日曜日

捕虜尋問所『トレイシー』を読む

先日、秋田商業高校の甲子園の試合(2回戦)を応援に行った時、その前の試合だったと思うのだが、8月15日の正午を迎えた。全くの偶然だが甲子園で黙とうをさせていただくことになった。その時、読んでいたのが、『トレイシー 日本兵捕虜秘密尋問所』(中田整一著・講談社文庫/本年7月12日第1刷)である。読み終えて少したってしまったたのだが、あらためて書評を記しておきたい。

このドキュメンタリーは、アメリカの海軍・陸軍の様々な情報機関が協力し対日本兵捕虜の尋問を秘密裏に行うために『トレイシー』と暗号名で呼ばれる尋問所をカリフォルニアに設置し、様々な情報を得たという話である。ドイツとの情報戦で、すでに先行していたイギリスの尋問のスキルと捕虜の居住場所で「盗聴」(これは国際法上、非合法である。)を用いた故に、長期にわたって極秘事項として扱われていた。開戦前夜から、捕虜の持つ情報に対して組織的に対応策を練り、実際に多大な成果を得るという情報戦の見事さ、アングロサクソンの用意周到さ、まさに恐るべしである。

アメリカ軍が憂慮したのは、なにより日本語習得の難しさである。日本語のレベルが低ければ、いくら盗聴の技術が優れていても無為である。東日本大震災の後日本国籍を取得した超親日家の日本文学者ドナルド・キーン博士もこの時日本語学校で学んでいたりする。このあたりの詳細な記述はかなり興味深い。

この日本兵捕虜から得た情報は、戦時中は、日本の軍事技術の把握や空襲目標の細かな設定に主に使われた。この情報で一式陸攻の弱点が分かり、山本五十六搭乗機撃墜に直結する。なにより各都市の軍需工場や基地の緻密な爆撃が可能になったという。(戦後は、占領政策の参考にされた。)

有名な「生きて虜囚の辱めを受けず」という戦陣訓が、与えた影響は大きい。多くの日本人捕虜は自刃しようとしたし、尋問には非協力的な者が多かった。しかし意外なことに、米軍の捕虜への扱いが丁寧であったこと(国際法上は当然なのだが…)に、心を許し帰国を断念して世捨て人となり、協力する者も多かったようだ。ちょっと不思議な感じがする。

この「生きて虜囚の辱めを受けず」の絶対的呪縛は、当時の日本兵に国際法上の捕虜の権利や対応の方法などを全く認識させることはなかったわけで、捕虜になるということすら想定させないものだったわけだ。無知なるがゆえに、意外ななほど情報を提供したらしい。日本兵の勇敢さを考えると、当の米軍すら驚いたらしい。

著者は、この絶対的呪縛は、原発の安全神話につながる、と警告する。「生きて虜囚の辱めを受けず」は、「原発は絶対安全だ」と同様、本来知るべきことを知らされていないということらしい。なるほど。様々な原発の情報が露わになって、その事実に驚愕することが多い。

甲子園で黙とうをささげながら、実は私はそんなことを考えていたのだった。

2012年8月25日土曜日

LEGOの世界遺産展を見に行く

大阪の堂島でLEGOでつくった世界遺産展をやっている。明日が会期末だ。どうも、いつもギリギリになるのだが、妻と見に行った。
当然だが会場は、子供連れでいっぱいだった。LEGOで世界遺産を作ると言う発想が素敵である。当然ユネスコもかんでいるという話で、入場料の一部は世界遺産を守るために使われると言う。世界遺産教育から見ても、大いに意味のある展示だと思うのだ。夏休みに子供と見に行く…世界に目を向けるきっかけにもなるだろうし、何より子供はLEGOが大好きだ。

作品の中で、やはり綺麗なのはロシアの赤の広場にある聖ワシイリ大聖堂である。色合いが鮮やかだからだと思う。サグラダファミリアやロンドンの国会議事堂もなかなかの大作。一方、細かいところにこだわるのもLEGOの作品の魅力だ。世界遺産の中で絶対はずせないピラミッドは色合いも同じだし再現するは難しいと思う。だが、その細部の表現がいい。
というわけで、なかなかよかったのだった。アフリカびいきの私としては「マリのジュンネのモスク」や「グレートジンバブエ」なども是非ともLEGOで再現して欲しかった。どうしても日本人に人気のある世界遺産が多かったのは仕方のないところか。
小学生くらいの子供に、興味を持たせることが主眼なら十分な作品群だと思うのだが、もう少しマイナーな世界遺産も欲しいというのは無い物ねだりなんだろうなあ。負の遺産であるロベン島なんていいと思うのだが…。
とはいえ、入場料は大人でも300円。うーん、安い。たしかに会場もそんなに広くないので、作品を見るのに何時間もかからないけど、私は安すぎると思うくらいだった。

追記:38人目の読者登録をいただきました。nojomさんです。ありがとうございます。これからもよろしくお願いいたします。

2012年8月24日金曜日

テルアビブ特派員の記事を評す

ヤッフォからテルアビブのダウンタウンを望む
学校で朝日新聞を見ていたら、ドイツの割礼の記事が載っていた。ムスリムの割礼で大量出血した事故があり、医師が傷害罪で起訴されたという話だ。いろいろと論争があったらしいが、結局「責任ある形で行われる割礼は、ドイツでは無罪でなくてはならない。」という形で決着しそうだという話。ユダヤ教徒からは「ホロコースト以来の最大の攻撃」などの声があがったらしい。

ところで、その記事の下に特派員メモ「複雑な対立の構図 イスラエル(テルアビブ)」という記事があった。そのまま全文紹介したい。
『テルアビブへ取材に行ったときのこと。中心部の公園を通りかかると、たくさんのアフリカ系の人々が芝生に座りこんでいるのが目に入った。イスラエルは難民条約の締結国で、エジプト経由で不法入国するアフリカ人が絶えない。だが、多くは仕事を得られず、無為に過ごす。
パレスチナ人の助手が、車を止めた。「彼らと話がしたい」と言う。自分たち同様、イスラエルかの政策に苦しむ彼らに同情したのだという。ところが、助手が集団に近づくと突然、「アラブ人め、何しにきた!」と怒号が上がった。
声の主はスーダン西部ダルフール出身の男性。ダルフールでは、スーダン政府に支援されたアラブ民族によって虐殺が起きた。「パレスチナ人もアラブだけど、同じ被害者じゃないか。」なだめに入ったのは分離独立後、スーダンと対立する南スーダン人。エリトリア人、ソマリア人も集まってきて口々に意見を言う。しばらくして「この国もダメだ。」という一点でまとまり、議論は終わった。
国、民族、宗派…。対立の構図は、言葉で表現しきれないほど混沌としている。(山尾有紀恵)』

記事にある公園を、私も先日実際に見た。(8月16日付ブログ/地中海の港街を旅するⅢ参照)見るのがつらいほど、何もすることがないアフリカ系の人々がたむろしていた。長らくイスラエルの事をエントリーしてきたが、超多文化共生のイスラエルという国家の中で、彼らアフリカ難民が生きていくことは、他の欧米先進国よりさらに難しいと、アフリカ人に極めて親近感を持っている私でさえ思う。何よりヘブライ語収得という壁が立ちはだかる。エチオピアのユダヤ人を救出し、タルムード成立以前に離散した彼らには、手厚いヘブライ語収得のための教育制度をイスラエル政府は行ったが、不法入国の難民にまで手は届かないだろうと思う。一部の勤勉なアフリカ系の人々は、自力で収得を目指すだろうが、こういうアクティブさがなければ将来はない。ユダヤ人は、長年の差別の中で、いくら財産を没収されても頭の中に詰まった「知の財産」は奪われないと考えてきた。そういう選民としての知的風土を超正統派から世俗派にいたる共通認識として、ユダヤ人は持っている。

私は、そういう意味も含めて6月23日のエントリーを書いた。山尾記者の記事は、パレスチナ人の助手とダルフール出身の難民の出会いから興味深い記事を書いていると思うが、上記のユダヤの共通認識を理解しないまま「この国もダメだ」という彼らのコトバを、朝日新聞らしくリベラルという立場から意図的に結論のごとく構成しているように思うのだ。
それは少々本質からずれているのではないか、というのが私の感想である。

2012年8月22日水曜日

ダイヤモンド・ランキング

世界史Bの補習で、国際理解教育のワークショップで使う「ダイヤモンド・ランキング」を使って戦後史を論じてみた。ダイヤモンド・ランキングというのは、テーマに応じて、設定された9つの事項や命題を重要だと思うもの、思わないもの、さらにその中間にと、5段回に分けてみることで思索を深めていくものである。
現代史を冷戦構造や多極化、さらに植民地の独立から様々に講義するのもいいのだが、昨日ベルリン陥落の時、V2ロケット技術を巡って米ソが暗躍していた話をしていたら、「ブラウン博士ですね。」とA君は言った。一気に、昨夏の補習で一度話したことを思いだした。彼はきっちりと覚えていたのだった。で、ちょっと違った教科書や参考書にない視点で話したいと考えていたのだ。モーニングの時、ふとダイヤモンド・ランキングでいこう、そう思ったのだ。

昔々前任校で、アメリカ研修旅行に行く際、「君にとって何が最も重要か?」という問いかけをした。自由・平等・豊かさ・平和・宗教など9つの命題を指定した。7割の生徒が「平和」を1番に置いた。まさに『日本』の価値観を示したわけだ。「ではこれから行くアメリカならどうだろう?」と聞いてみた。「自由」というのが正解だ。何といっても、アメリカの国是、明白なる天命は「自由と民主主義を世界に拡大すること」であるからだ。今日の補習も、ここからスタートした。

今回の補習で立てた命題は、戦後史を語るのに有為な以下の9つ。
1.自由と人権
2.平等
3.平和
4.軍事的優位
5.宗教・イデオロギー
6.豊かさ
7.多文化共生
8.自主独立(アイデンティティの確保)
9.貢献

戦後をまずリードしたのはアメリカであり、ソ連である。ソ連やイギリス、フランス、(西)ドイツ、日本などをダイヤモンド・ランキングで考えてみる。ソ連のダイヤモンド・ランキングはどうなっていたのだろう?A君は「平等」が一位だろうと推測した。なるほど。社会主義国となれば平等。高校生らしい推測である。だが私は、4の軍事的優位と、5のイデオロギーの方が重要視されていたと思うなどと論争するわけだ。ドイツの1位は難しいが私は9の貢献だと思う。ナチスがWWⅡやホロコーストを引き起こしたわけで、ナチスの責任ではあるけれどそれを支持したドイツ国民としては、世界に貢献しなければならないというのが国是になったように思うのだ。アフガンやアンゴラの紛争で傷ついた子供たちに手術を無料でほどこす「平和村」の活動などはそのシンボルであろう。ユーロ危機でも本音ではギリシアに手を焼きながら踏ん張っているのもそうだ。こういう議論の中で、A君は学びを深めていく。インドは、独立後長らく全ての工業製品を国産でまかなっていた。8の自主独立が国是だったわけだ。
こういう、各国の価値観とアメリカの自由・民主主義という正義がぶつかり交わりながら、社会主義が敗北し、今の現代史がつられていく。いわば人文学的な視点から見た現代史。
2時間ほどこんな論争をしていたのだった。きっと受験には出ないと思うが、A君は、この「受験の為の補習」満足してくれていたようだ。

イスラエル考現学 conclusion

【イスラエル-(超)多文化共生(強制)の地を覗く-その28 
エレサレム旧市街 イスラム地区にて
いよいよ、イスラエルの話を閉じたいと思う。今回の旅は日本の日常では全く経験できない「超多文化共生を強制された社会」を経験したと結論付けていいだろう。
イスラエルはユダヤ人国家であるが、イスラム教徒のアラブ人、キリスト教徒のアラブ人も、イスラムのようでイスラムでないドルーズ派、さらにその他の少数派の宗教を信ずる人々もいる。さらに、ユダヤ人もその出身地によって微妙に異なるし、それぞれがまた超正統派や正統派・保守派、世俗派などで大いに生活スタイルが異なる。ユダヤ教徒自体が多文化そのものだなのだ。彼らは、互いの差異を埋められないまま、共生を強制されているわけだ。

エレサレム新市街 超正統派の街をTAXIから撮影
私はこれまで、海外に出ると紀行文と感想や考察を残してきた。アメリカ、アフリカなど数編の文章が残っている。今回は、これをブログでエントリーしながら断続的に書いて来たわけだ。今回の28回におよぶイスラエルのエントリーでは、最初に総論を2回にわたって書く破目になった。「家庭内別居」という表現が、まさに当てはまることを先に述べた方が私の想いを伝えやすいと判断したためだ。8月10日付の「It's not just an airline.」「家庭内別居?イスラエルの現実」は、それにあたる。

エントリーの構成上、イスラエル考現学と名付けた1つのキーワードを元に、時間と空間を超越した内容を9回記した。いわば地理で言う系統地理的な視点である。
1.TAXI 自我の強い多文化共生の社会をタクシーという視点から
2.BUS 想定外の様々な経験を記して、紀行文の序章的な意味を込めて
3.KOSHER ユダヤ教の特徴的文化である食事規定について
4.IDF イスラエルの国防軍の紹介とその日常性について
5.CAT 意外に猫と蠅が多いことは、かなり印象的だったので…
6.שבת ユダヤ教の特徴的な文化である安息日について
7.Haredi 超正統派について、改めて整理しておきたかったので…
8.Arabian アラブ系イスラエル人についても、改めて整理
9.USA イスラエルを語る上で避けられない事項だと思っている故に

紀行文は、およそ3シリーズに分けてみた。
1.エレサレム(旧市街・博物館・新市街・シナゴーグ・近郊)
2.ガリラヤ湖畔
3.地中海沿岸の街

9月に入るとBloggerのアーカイブが白紙になる。少し間をおいて(文化祭が終わってからになると思われる。)から、常設ページに再構成してエントリーしようかなと考えている。

初日のエレサレム新市街の夜
最後に、逆説的になるが、イスラエルに着いた夜の話を少しだけ書いておきたい。深夜の新市街。ホテルに荷物を置き、家にもどる息子夫婦を見送りに外に出た。ホテル内は禁煙なので煙草に火をつけた。すると、通りがかった若い女の子が「一本くれない?」と言ってきた。これまで、海外で煙草をあげた事(ケニアやブルキナなどアフリカでの話。)はあるが、ねだられた事はこれが初めてだった。嫁のTさんが、「こういう事はよくあるみたいです。」と言ってくれたので、ちょっとびっくりしたが煙草を1本あげて火もつけてあげたのだった。今から考えると世俗派の女の子だと思う。アメリカ人以上にフランクな感じを受けたのだが、それ以後の私は、超多文化共生のわけがわからない大混乱の世界に飛び込むことになる。すなわち、私たちが唯一普通につきあえるのは、世俗派のユダヤ人たちであった。コーシャや安息日、兵役はあるけど、あまり気を使わなくていいフツーのアメリカ人だと考えればいいのだった。ことさらにイスラエルの超多文化共生を強調したが、最も多いのはこの世俗派の人々である。それだけは誤解のないように記しておきたい。

2012年8月21日火曜日

イスラエル考現学 USA

【イスラエル-(超)多文化共生(強制)の地を覗く-その27
カリフォルニアのようだが、テルアビブの海岸である。
さて、今日はイスラエルをささえるUSAについても考察しておきたい。WEBで調べてみると、イスラエルのGDPは静岡県とほぼ同じだと言う。周囲を敵に囲まれたイスラエルが、あれだけの軍事力を維持していること、これはUSA抜きには考えられないからだ。何故USAはイスラエルに軍事援助を始めとした支援を惜しまないのか。最も大きな事情はユダヤ人人口の多さである。と、いってもUSAの2%にすぎない。問題は彼らの持つ「力」である。経済力は当然のこと、マスコミ界にも大きな力をもつ。ユダヤ票は単にその票数だけではない。ユダヤロビーは、あらゆるUSAの政治家(民主・共和党を問わない。)への献金で政策決定への実力を誇示していることは有名だ。

グレイトシナゴーグ内部
紀行文でも書いたが、エレサレム最大のグレート・シナゴーグはアメリカ居住のユダヤ人によって、ほぼ寄進されたもののようだ。またイスラエルのIT産業をささえる企業は、アメリカのユダヤ人の企業が多い。インテルやデルなどのCEOはアメリカのユダヤ人である。雇用というカタチでイスラエルを支えているわけだ。

一方、USAは母国イギリスよりはるかに信仰深い国だ。キリスト教徒の中には、ユダヤ教徒を改宗させ、イエスを救世主として認めさせることが、神の意志だと信じる人々がいる。例のキリスト教原理主義のグループである。ネオ=コンとも呼ばれている。そういう前提で、イスラエルを守ることは正義だと信じる人々もいる。

ユダヤ人だけでなく様々な立場のUSAのがイスラエルの存続を願っているわけだ。アメリカ人は、たぶんに独善的な場合も多いが、基本的にお人好しで、しかもおせっかいな所があると私は思っている。(笑)これは良い、悪いを超えたUSA気質であるとも思っている。ガリラヤ湖の北にある超正統派の街・ツファットでは、おだやかな超正統派の人々に出会った。(8月14日付ブログ/ガリラヤ湖畔を旅するⅠ参照)この時、研究者である息子は、「この街の超正統派はアメリカからの移民ではないか。」という感想をふともらした。芸術家も多く、アート街にいた人々もフランクで、およそエレサレムの超正統派とは似て非なる存在であった。たしかに、アメリカ人っぽいと私も思った。

WEBで発見したTシャツ
もちろん世俗派のユダヤ人は、生活習慣的にはアメリカナイズしているように思う。しかし、アメリカへの感情は微妙なようだ。(8月14日付ブログ/イスラエル考現学 שבת参照)
面白かったのは、土産物屋にこんなTシャツが売っていたことだ。「AMERICA Don't worry. ISRAEL is behind you.」
これにジェット戦闘機(F16)が描かれている。「心配ご無用!アメリカ軍。イスラエルがついている。」とでも訳せばいいのだろうか。私は、このTシャツに、イスラエルがUSAに頼り切っているのではない、自立しているのだという微妙な感情を読み取るのだが…。

2012年8月20日月曜日

イスラエル考現学 Arabian

【イスラエル-(超)多文化共生(強制)の地を覗く-その26
岩のドームで
今回のイスラエル行は、言語がヘブライ語が中心で堪能な息子がいたこと、また英語はその嫁さんであるTさんがいたことで、私から現地の人と会話するということが非常に少なかった。楽をさせてもらったが、少し残念でもあった。特に、アラブ人とも話をしたかった。だが、ラマダーン(断食月)であったこともあって、一応にアラブ人らしき人々は寡黙だったように思う。それは私がそう感じただけであるかもしれない。

WEBを調べてみると、2006年の調査で、イスラエル人の82%がユダヤ原理主義的な宗教国家ではなく、民主主義国家が好ましいと考えている。と同時に、62%がアラブ系市民がイスラエルから出ていくことを望んでいるという自己矛盾をかかえているという記事があった。
http://palestine-heiwa.org/news/200605130952.htm
パレスチナ自治区側の検問所にて
たしかに、ユダヤ系の人々は世俗派も含めてアラブ系の人々に良い印象を持っていない。ホームステイさせてもらったおばあちゃんは、アザーン(モスクから流れる礼拝の合図)が大嫌いだったし、長年の自爆テロ攻撃を受けたことなどの影響もあるだろう。(そう言ってしまうとアラブ人からすればイスラエル建国こそが問題だということになる。ここは中立的な立場を取りたい。)実際、アラブ系の人々が住む地域を何度もタクシーで通ったが、明らかに雰囲気が違う。職業的にもブルーカラーの仕事が多いらしい。しかも彼らはイスラエル国籍を持つのに兵役の義務からはずされている。(イスラム教のようでイスラム教ではないドルーズ派は例外らしい。)

このような差別的・第二級市民的な存在に甘んじているアラブ系の人々は、大きなパラドックスの渦中にある。第二級市民であってもイスラエルはやはり周囲のアラブ国家よりはるかに先進国であり、それなりの豊かさを享受できている。同時に周囲の同族からは全滅させると脅迫を受けているわけだ。
http://www.danielpipes.org/10907/
ざくろは多産のシンボル アラブ系ジュース屋
超正統派同様、アラブ系の人々も多産である。確実に人口を増やしている。イスラエル政府としては、頭が痛いところだ。だからこそ、イスラエルへの移民におけるユダヤ人の規定をゆるめ、ユダヤ教徒ではないユダヤ人の血筋をもつ者を増やしているのかもしれない。
四国程度の国土しかないイスラエルが、ユダヤ教原理主義ではなく、民主主義と資本主義を基盤とした「ユダヤ人」国家を持続していくのは大変だ。アラブ系の人々、超正統派、ユダヤ人らしからぬユダヤ人をも巻き込んだ大きな人口比例のジレンマを抱え込んでいるわけだ。

2012年8月19日日曜日

イスラエル考現学 Haredi

【イスラエル-(超)多文化共生(強制)の地を覗く-その25
ティベリアのホテルにて 朝の祈り中
今日のエントリーは、一応の紀行文を終えたところで、ベングリオン空港に到着した直後の話に一気にもどる。シェルートと呼ばれる乗合バスでエレサレムに向かった時のことだ。今から考えれば新市街のメア・シェアリーム、超正統派の街を走っていたら、深夜(午前零時は超えていたと思う。)にもかかわらず、超正統派の真っ黒なコートを来た男が、黒いロングスカートの女性とベビーカーを押しながら歩いていたのだった。不思議な光景であった。これがイスラエルで見た初めての超正統派の人々だった。

超正統派(Haredi)の人々を抜きにして、イスラエルという国家もイスラエル人とは何かは語れないだろうし、超多文化共生社会も語れないと私は感じた。何度か書いたように、イスラエル=ユダヤ人国家ではない。またユダヤ人=ユダヤ教徒とも言えない。そんな中で自らをユダヤ教徒であることを生業とし、専ら律法の研究者として非生産的な存在であることを誇りとして、政府からの援助で暮らしている彼らは「選民の中の選民」(ユダヤ教は神に選ばれた民であるとされている。だからこそ2000年以上世界中に離散していても信仰を捨てなかったわけだ。)だと言えるだろう。

木・金曜日に学校で制作した授業用のプレゼン画面
ところが、この超正統派は政府の援助で生活していながらイスラエル国家とその成立過程であるシオニズム(パレスチナにユダヤ人国家を再建する運動)を否定している。ユダヤ国家の再建は神によるものであって人為的な国家たるイスラエルは否定されるのである。生活の援助を受けているコトもなんのその、ホロコーストで絶対数が減少し、その伝統保持のための兵役免除もなんのその。彼らにとって、「正義とは神との契約」のみなのである。

だから、律法を守らない世俗派などは無視される。街では当然両者ともすれ違うのだが、必然性(商店で買い物をしたりする最低限の接触)のないふれあいはゼロに近い。一度だけ、タクシーに乗っていて、超正統派が道を聞いて来たことがある。(注:アジア人の異教徒である私たちが乗っていることなど無視である。存在すら否定される。)市場にも、観光地(死海)にも超正統派はいるが、こちらから声をかけても答えないことは、妻と嫁のTさんが遭遇した死海バス事件(8月13日付ブログ/エレサレム近郊に行くⅠ参照)にあるように明白である。「選民」であるという確信から来る圧倒的な矜持で押し切られるわけだ。

エレサレム旧市街にて
当然、彼らはイスラエルの中でもかなり孤立している。アラブ系の人からはもちろん、ユダヤ人の中でも「尊敬」を得ていないようだ。『イスラエルの家庭内別居』の中で占めるキャラクターは、「文句ばっかり言ってる失業中の頑固ジジイ」という感じである。しかし、この頑固ジジイは、『産めよ増えよ地に満ちよ』という聖書の文言を守り、多産である。無茶苦茶子供が多い。イスラエルという家庭内に、頑固ジジイのモトが着実に増えているのだ。彼らは非生産的であり、しかも兵役にもつかない。国家財政的には大きな負担である。GDPを稼ぐ、他のユダヤ人からすれば全く迷惑な存在である。だから、バスや電車の中でも、互いに無視している感じだった。この対立、イスラエルの家庭内別居の最たるもののひとつであるが、時間の経過とともに拡大していく(超正統派の人口爆発)というのが凄い。一方で、移民法のユダヤ人規定で、ヘブライ語もタルムードも知らない(血筋だけの)ユダヤ人移民も増加してきている。うーん。これからどうなるのだろうか。

この超正統派は元東欧系の人々が多いが、少し調べるだけでも、様々な派閥に分かれており、私のような市井の社会科教師には荷が重すぎる。このへんでエポケー(判断停止)させていただく。

2012年8月18日土曜日

有難う 秋田商業高校野球部

先ほど甲子園から帰宅した。もちろん秋田商業の三回戦を応援するためである。残念ながら三回戦突破はならなかったが、心から有難うと言いたい。
昨日は、学校の勤務を終えてから秋田商業の宿舎のホテルに行ったのだ。監督と付き添いの両O先生お二人にお会いするためだった。ちょうど、ミーティングから夕食という時間帯であった。野球部の3年生(レギュラーや記録員、その他の役員などを務める部員も含めて全て3年生だそうだ。)がここに8月3日から滞在している。「毎日おいしくて違うメニューを作ってもらって、生徒にも好評です。」とのこと。とはいえ、練習に出る以外は、あまり外にも出れず不自由な日々であったことだろう。「私はO監督、部長の先生に続く3番目の付き添いですから。監督は大変だと思います。」とO先生。そうだろうなあ。前回のF高校との試合は、ピッチャーに多く投げさせる前向きの待ち球作戦がが成功したらしい。24時間そういうことを考えてるんだろうなあと考えていたら、O監督がやってきて握手。開口一番「なぎなた部のIH優勝おめでとうございます。」いやあ、嬉しかった。あまり時間を取ると申し訳ないので、早々に辞した次第。もちろん、選手諸君にも会った。O先生の知り合いだとわかったからだろう、礼儀正しく挨拶をしてくれた。宿舎での選手たち、カメラに収めようかと思ったがやめた。普通でもマスコミに注目されている。教師である私は、高校生にとってあまり良いことであるとは思っていない。だからあえて特別扱いしたくないので自重した次第。

O先生と応援団(試合前)
さて、今日の試合。第三試合の6回に雷鳴が轟き、試合が中断した。その後雨脚も激しくなり2時間くらい、喫煙室に行ったり、階段で座り込み文庫本を読んだりして待っていた。気になったのは、今度はバスで秋田から駆け付けた秋田商業の応援生徒たちである。ブラスバンドも楽器をもってやってきたいたはず。今日は、O先生にアルプス席のチケットをもらったのだ。後でお聞きしたら、甲子園のスタッフが時間前(7回裏くらいから、次の試合の学校は球場に入れる手はずになっているらしい。中断になったのは6回だから本当は入れない。)に球場内に入れてくれたとのこと。「満員状態でしたが、濡れずにすみました。先生は大丈夫でしたか。」と反対に心配されてしまった。

すでに照明がついている(1回裏)
すでに照明が付けられている。雨はポチポチと降っている中で試合が始まった。1回先頭打者ホームランを打たれたが、2塁打とタイムリーですぐ同点に。さすが秋田商業。ところが、だんだん引き離されていく。向こうは岡山県なので大応援団。こちらは遠いうえに、アルプス席は特に人数が少ない。懸命に応援する生徒たち。2時間以上待っても応援しに来た一般の人も大声で選手に声をかけている。頑張っているのだが、多勢に無勢。だんだんグランドの選手たちも押されてしまう。そんな感じだった。

9回裏 最後まであきらめず応援
私が感心したことが2つある。守りの時、秋田商業の応援団の周囲にそれまで一番下で踊りまわっていた1・2年生がグラブをつけて立つのだ。万一ファウルボールが飛来する時に備えているのである。うーんなるほど。外野席では気がつかなかったが、案外飛んで着るので危険である。もうひとつ、試合が終わって、アルプス席に礼をしにベンチ入りしている選手が並んだ時のことである。応援席の野球部員全員がまわれ右して応援席に向いたのだ。グランドの選手に合わせて礼をしていた。他の学校はどうしているのかは知らない。だが、私はこの秋田商業高校野球部の姿勢、もの凄く感動したのだった。これこそ高校野球だ。普通の高校生のあるべき姿だ。

マスコミは連日、活躍した選手や話題性のある選手を持ち上げる。悪いとは言わないが、彼らは甲子園に出たからといって特別な人間、スターではない。まだまだ学ぶことが多い高校生なのだ。傲慢さを身につけさせてはいけない。公立高校で、寮で生活させているわけでもなく、他府県から野球留学させているわけでもなく、特に秀でた選手がいるわけではない秋田商業の野球部。だが、グランドのプレーでも、スタンドの応援でも高校野球の魅力を改めて感じさせてもらえた。心から感謝したい。有難う、秋商。また甲子園に来てほしい。また応援に行くからね。
追記:バスで帰郷した応援生徒諸君は、試合終了時間が大幅に遅れたので、ちゃんと夕食をとれただろうか。同業者としては非常に心配している。

2012年8月16日木曜日

地中海の港街を旅するⅣ

【イスラエル-(超)多文化共生(強制)の地を覗く-その24
拡大してみて下さい
いよいよイスラエルの旅も最終日である。テルアビブで最もディープな街を見た後は、バウハウス探索の街歩きである。テルアビブは、これまでの街と違い、洗練された新しいイスラエルを見せてくれる。とはいえ暑い。海の近く故に湿気もある。アイスクリームを食べたりしながら豊かな時を過ごしたのだった。なかなか絵になる路地や家並みも多く面白い。画像にある家など、たくさんの人形が家中にくっついている。ほんと芸術的な家なのだった。
ヤッフォ 旧市街を望む
旧市街 不思議な光景 拡大してみて下さい
昼食は、テルアビブの南に位置するヤッフォまで足を延ばすことになった。こっちは聖書に名を残す旧市街。これまた素晴らしい街である。蚤の市をひやかしたりしながら、地中海を一望できるレストランで昼食をとった。贅沢な話である。もちろん息子は魚料理を所望する。(笑)このヤッフォは、ナポレオンがエジプト遠征後、さらにパレスチナ支配を試みようと占領した街でもある。聖書の時代、ローマの時代、十字軍の時代、そしてナポレオンまで歴史が交錯しているのだ。凄いよなあ。やはり地中海世界というのは凄いよなあと素直に思うのだ。
ヤッフォの旧市街からテルアビブのビル街を眺める。古いイスラエルから見る新しいイスラエル。全く不思議な感覚だ。ここまで歩いてよかったと思う。
リトアニアのシナゴーグの模型
さて、いよいよトリは、テルアビブ大学内にあるディアスポラ博物館である。ディアスポラというのは、ローマ時代にユダヤ人が離散させられたことを意味する。テルアビブの南から北へ一気にタクシーで移動する。タクシー料金が安いからこそ出来る技である。ディアスポラのダウンタウンを走る。うーん、相変わらずヒヤヒヤする。テルアビブは新しい街なので、碁盤状になっている所が多く、イギリス委任統治の財産であるロータリーは少ない。息子は、テルアビブ大学でイディッシュ語を学んでいることもあって、大学周辺は詳しい。迷うことなく博物館に到着した。この博物館もなかなか面白い。特に、様々な土地で独自の進化を遂げたシナゴーグの模型が有名である。
全く、その土地、その土地でユダヤ教はアイデンティティを守りつつその土地のエキスも吸収しながら進化してきたとしか言いようがない。これまでのイスラエル行の基本的なコンセプトを「超多文化共生の社会で生きることを強制されているイスラエル人」と設定したことを証明するような展示だ。
ここでは、私が写真を撮りたくてたまらなかった展示をついに発見した。「割礼」の宗教用具である。昔、ニューヨークの5番街にあるユダヤ博物館で見たことはあるが、写真撮影は禁止だった。今回は問題がないらしい。こういう写真を集めて教材をつくりたかったのである。やっと私も「お腹いっぱーい。」になれたようだ。(笑)
ところでこの「地中海の港-街-を旅する」シリーズ、「町」ではなく「街」という字を使った。テルアビブという大都会を含んでいるし、アッコーやヤッフォの旧市街を散策すると「世界ふれあい-街-歩き」のイメージがどうしてもつきまとったからである。いやあ、よく歩いた。
追記:エントリー更新して初めて気付いたことがある。1000回目のエントリーだった。祝1000回。

地中海の港街を旅するⅢ

【イスラエル-(超)多文化共生(強制)の地を覗く-その23
アッコーの灯台と十字軍時代の城壁
アッコーは素晴らしい街だった。少し後ろ髪を引かれる思いでテルアビブへ鉄道で向かう。もうバスはコリゴリである。イスラエルの鉄道はディーゼルのようだがなかなか乗り心地は良い。なんといっても揺れが少ない。ただ、車内で平気で大声で話す乗客が多い。面白いのは車窓の上部にコンセントがあり、充電できるのだ。このコンセントで充電しながら電話している人もいる。イスラエルでは、スマートフォンの普及率が凄い。いざという時に安否確認をしたり、情報を得るためのアイテムでもあるようだ。日本でもビョーキのようにスマホを触っている人が多いが、イスラエルもかなりのものである。列車は、第三の都市ハイファを通過していく。「あっ。潜水艦や。」と妻が言った。黒い船体が見えた。博物館の展示らしい。おおっ。しかし後の祭り。今回は戦車博物館で十分。(笑)テルアビブに到着した。ここでも、まずホテルに旅装を解き、荷物を置かなければならない。今回のホテルは、極めて変な構造をしていたのだった。
バウハウス的ホテル
ドアを開けるとすぐ右にバスルームがあり、階段を下がると、隣の部屋との共用スペースとのドアがある。煙草が吸えるようだ。その上にはガラス天井。さらに180度回って階段を下がると右に主寝室。左に洗面とキッチンもある。地下室になっていた。斬新なデザイン。さすが、バウハウスの街である。(テルアビブの現代建築群は世界遺産になっている。)バウハウスとは、1920年頃に始まったドイツのデザイン運動である。私と妻は、高校時代この「バウハウス」というコトバを授業で何度聞かされたことか。いやあ、ともかくいい。すばらしい。
テルアビブらしいコーヒーショップ
近くのバザールを少しひやかしてから、コーヒーブレイクで小休止。私はここで、ある出会いをする。実は私は今回街歩きの際、「LOGOS」のリュックを使っていたのだが、愛機のデジカメG12に砂防止用にフィルターとアダプターを付けていた(本年5月11日付ブログ参照)関係で、カメラの保護のために、ナショナルジオグラフィック・アフリカコレクションのインナーケースだけ持ってきて使っていたのだ。(11年4月3日付ブログ参照)アフリカ風の文様が素敵なケースである。このコーヒーショップで、同じNGのアフリカ・コレクションのバッグを持っているおばちゃんがいたのだ。おおおっ。日本でも一度も会ったことがないのに。素晴らしい出会いだ。私がインナーケースを出して、ニコッと笑うと世俗派のユダヤ人らしきおばちゃんも大喜びしたのだった。(笑)
アムハラ語の看板の街
さて、我々は、息子の言う「無国籍な街」に中華料理を食べに行くことになった。「お父さんが好きそうな街だから。」と言うのである。イスラエル第一の都会で、歴史の浅いテルアビブには、また別のイスラエルがあるらしい。セントラル・バスステーションの傍にあった。3人が中華料理を食べている間、私はじっと街の様子を見ていた。スラブ系の顔つきをした貧しそうなロシア人。フィリピン系。そして最も多いのが、エチオピア系と明らかにわかるアフリカ系の黒人たち。自転車の盗難事件だろうか、白人の警官が向こうで取り調べをしている。こっちでは、木陰が必要なこの時期に木の枝をはらってる。無気力そうな顔もあれば、希望に満ちた顔もある。いかにもワルだぜといった青年集団もいる。いいなあ。こういうアフリカっぽい街は大好きなのだ。何気なくカメラを向けようとしたら、でかい黒人が「撮るな。」と言って手をクロスした。で、すぐカメラを下に向けたのだ。彼と少し話したかった。明らかにエチオピア系ではない。「どこから来たの?」と聞くと、彼はこう言ったのだ。「lost off.」この英語が正しいものなのか、私はわからない。彼も正しい英語を知らないのかもしれない。「lost off.」…「(祖国を)失くしちまったよ。」
この言葉は大きく私の胸に突き刺さった。スーダンか、南スーダンか。ウガンダか。それともエリトリアか。先日、私はイスラエルにおけるアフリカ難民の話についてエントリーした。(6月23日付ブログ参照)まさしく、その難民の一人に遭遇したわけだ。彼の行き場のない怒りや不安、その全てが「lost off.」というコトバにあふれていた。実は、死海のスパのレストランで、私はアフリカ系の移民と出合っていた。レストランの食事後の皿を集めるという会話の必要のない仕事を黙々としていたアフリカ系の青年がいたのだ。声をかけるとスーダン人だという。彼もまた同じ難民の一人だと思われる。肩を叩いて、日本語で「頑張りや。」と言った。伝わったようだ。彼の白い歯が印象的だった。
様々なアフリカ系の難民が、イスラエルの超多文化社会で困難な営みに挑戦している。この事実を体験的に学んだ意義は大きい。

2012年8月15日水曜日

地中海の港街を旅するⅡ

【イスラエル-(超)多文化共生(強制)の地を覗く-その22
さて、アッコーのシナゴーグである。これまで見てきたシナゴーグも素晴らしかったが、ここのシナゴーグは、チュニジア風のモザイクで見事なまでに飾られていて、さすがの研究者の息子をも唸らせたのだった。外見からかわいらしく、思わず中に入って見た。他の見学者にラビが説明をしているところだった。自由に見て撮影してくれとのことだったので、遠慮せず写させてもらったのだが、百聞は一見にしかずである。画像を紹介したい。

見学後、ラビは、我々が日本人だと知ると、3.11の大震災の時、何度も何度も礼拝を行ったことを教えてくれた。宗教の違いを乗り越えて、こういう純粋な想いには心が揺さぶられる。最後に、アッコーの世界遺産である城壁からみた地中海の画像を掲載したい。アッコーの人々には、この地中海と空の青さが似合う。

地中海の港街を旅するⅠ

【イスラエル-(超)多文化共生(強制)の地を覗く-その21
世界遺産・アッコー旧市街をマリーナから遠望する
ナザレから地中海の古い港街アッコーへは、難行苦行の路線バス(8月11日付ブログ/イスラエル考現学BUS参照)で向かった。アッコーは、私のたっての希望であった。とにかく地中海を見たかったのと、ローマ時代の遺跡もある世界遺産の街だからである。山を超えて、地中海沿岸までくると、一気に湿度があがる。アッコーは、予想どおり、なかなかこじんまりしたオシャレな街だった。ここも「世界ふれあい街歩き」の世界だ。夕方、クタクタになって到着したので少し休憩してから夜の旧市街へ向かった。B&Bのオバサンは、無茶苦茶親切な人で、おいしいレストランや見どころを地図をもってきて教えてくれた。やはり魚料理がおいしいらしい。実際に行ってみると、ノン・コシェルで、カニまで食べることができた。
夜の旧市街は照明も洗練されていて、また違った趣があり美しい。小さな灯台もあるし、水パイプのカフェも開いていたし、なかなか楽しく夜の散歩を堪能したのだった。
翌朝は、まずおばさんお勧めのシナゴーグを見に行った。このシナゴーグ、あまりに素晴らしかったので、次章でまとめてふれたいと思う。続いて、旧市街である。アラブ世界なのだが、なんか、エレサレムに比べるとのんびりしている。人々の表情も柔和だ。路地で話をしている人々の間をすり抜ける時、右手を前に出してどーも、どーもすみませんなあとやったら、アラブの人々はニコッと笑う。そういう機微がある街だった。絵になる風景が、そこかしこに転がっている感じ。
ジャーマ・アル・ジャッザールという緑色のドームを持つ大きなモスクがあって、ここは入場可能だった。今回のイスラエル行最初で最後のモスク見学となった。今回はアザーン(礼拝の時を知らせる口上。節のついたアラビア語でスピーカーで大音量で流すことが多い。)を何度も聞いたし、モスクの写真もいっぱい撮ったのだが、案外、中に入ることはできなかったのだ。私はモスクの簡素な造りと偶像のない文様だけの空間も好きである。このモスク、なかなか美しい。面白かったのは、ここにも猫がいて、妙になつくのだ。膝の上にまで載ってくる。妻はモスクより猫だった。(笑)
十字軍のトンネル
アッコーには十字軍の掘ったトンネルがある。第一次十字軍の際にテンプル騎士団が掘ったものらしい。そんなに長いトンネルではないが、意義深い経験をさせてもらった。妻は、大興奮である。ダビンチ・コードを読んで以来、こういうテンプル騎士団とかが大好きなのだった。

いやあ、私にとっても妻にとっても、アッコー素晴らしい街だった。もっともっと画像を貼りたい欲望にかられてしまうのである。