2015年7月31日金曜日

ポーランドから無事帰国

ワルシャワ ホテル近くの朝の風景
今朝7時台に無事関空に着き、帰国ました。関空を出た瞬間の蝉の大音声と湿気を十分に含んだ暑さに、大きくたじろいた次第です。

今回のポーランド行についても、出発前は詳細な日程がかなりあいまいで、しかも現地でエレサレム在住の息子夫婦と行動を共にしたこともあって、結局、次のような運びになりました。

7月24日(金)早朝に自宅を出て、高速京田辺から関空へ。LH741便(やはりB747でした。)でフランクフルト空港へ。ポーランドはシェンゲン協定実施国なので、ここで入国手続き。LH1350(A320で、まるでピーチ航空のような機内)で、ワルシャワ空港着。フランクフルトに30分遅れて着き、遅延で離陸したのですが、到着はほぼ予定どおりなのが不思議。(笑)すでにプラハから夜行バスでワルシャワに来ていた息子夫婦と合流し、ホテルへ。ちなみに息子夫婦は生粋のバックパッカーなので、安いホステルをすでに全て予約しており、以後いちいち朝に待ち合わせすることになりました。

7月25日(土)ワルシャワ1日フリーの日。前日の話し合いで、マイダネク強制収容所(ルブリンという第7の都市にあり、ワルシャワから鉄道で往復5時間はかかるが日帰り可能)は、4日後にまわすことにして、まずは、ワルシャワゲットーの跡地にあるポーランド・ユダヤ人歴史博物館と、パヴァイク刑務所博物館(ドイツ占領当初、多くのポーランド人指導者が収監・処刑された地)へ向かいました。その後、世界遺産でもある旧市街を散策。この日は、猛暑で、しかも雷を伴った凄いにわか雨もありました。

7月26日(日)ワルシャワ中央駅から、ツアーの日程にしたがって鉄道で、クラクフへ向かいました。(息子夫婦は、ワルシャワ=クラクフの切符を前々日に購入済。)13時前に着。駅に近い我がホテルにチェックインした後、世界遺産の旧市街へ。そのまま、息子夫婦のホステルがあるカジミエシュという旧ユダヤ人街へ。全て徒歩。

7月27日(月)これもツアーの日程で、クラクフ駅を8時台の鉄道で、アウシュビッツ強制収容所・ビルケナウ(アウシュビッツ第二)絶滅収容所のあるオシフィエンチムへ。息子夫婦もクラクフ=オシフィエンチムの鉄道切符を当日購入。駅を降りて、すぐに収容所には向かわず、市内の旧市街とシナゴーグへ。そしていよいよ、日本語ガイドの中谷さんと待ち合わせ、館内へ。帰路は、鉄道をやめて(切符を捨てて)、すぐ乗れるバスでクラクフに戻りました。
クラクフ ホテル近くの朝の風景
7月28日(火)少し朝は休憩をとってから、クラクフのカジミエシュのシナゴーグとユダヤ人墓地めぐり。さらに、映画シンドラーのリストで有名な工場跡にある博物館へ。最後に、プワシュフ強制収容所跡のモニュメントに向かいました。息子夫婦とは、この夜から別行動。私たちは結局、疲れもあってルブリン(マイダネク)行を諦め、ツアーの日程どおり、列車でワルシャワに戻ることにしました。

7月29日(水)昼の2時すぎにワルシャワに着いたのですが、ブラブラと街歩きを楽しみながら、ホテルへ向かいました。結局もう観光らしい観光はせず十分に休息し、帰国にそなえました。

7月30・31日(木・金)朝10時25分発のLH1347便・LH740便を乗り継いで帰国というわけです。

こうしてみると、ワルシャワとクラクフの世界遺産・旧市街を観光した以外は、ほとんどユダヤ・ホロコースト関係であったことがわかります。(マイダネク強制収容所に行けなかったことは残念ですが。)この旅の紀行文というか詳細なエントリーは明日以降ということにしたいと思います。

ところで、秋田商野球部が、県予選を勝ち抜き、また甲子園に戻ってきます。私はこの朗報をワルシャワの旧市街のカフェで息子のIパッドで知りました。いやあ、O先生おめでとう。また甲子園に応援に行きますね。(3年前のイスエラル行の時も、秋田商が出場を果たしました。なにかの因縁でしょうか?)
そして、本校の野球部ですが、同じ場所で、府立K高校に勝ったことを知りました。U君がホームランまで打って快勝でした。帰宅後、おそるおそる調べてみると、その後私立K高校にも勝ち、ベスト8まで進んだことがわかりました。1年生のころからマウンドに立ってきたA君の頑張りも大きかったのではと思います。応援には行けなかったけれど、久々のベスト8進出。昨年の悔しさを払拭してくれたと思います。よく頑張ってくれました。ありがとう。

2015年7月23日木曜日

ニジェールと強制収容所

http://www.marcodilauro.com/features/niger/
いよいよポーランド行が近づいた。アフリカのニュースのリサーチをしていて、7月18日付のYAHOOニュースに、ニジェールの子供たちに壊疸性口内炎が広がっている記事を発見した。

この病気は、栄養失調が主原因で、主要なビタミンの欠乏・衛生状態・免疫力の低下などによって、歯茎から出血し、急速に壊死が進み鼻などにもそれが広がるという。

WHOによれば、世界全体で毎年14万~18人がこの壊疸性口内炎に罹患しているが、その大半がニジェールだという。たしかに、HDIでも最も下位にある国だ。

この壊疸性口内炎、死体から臭うような腐敗臭がするという。WHOの専門家によれば、欧州ではWWⅡ末期、ナチの強制収容所での症例が最後だという。彼は、そのような(栄養面でも環境面でも)劣悪な環境にニジェールの子供たちがおかれている、と言いたいのだろう。

…はからずも、アフリカの開発問題を追い続けていた私が、ポーランドの強制収容所跡へと向かおうという時に、こういう記事を目にしたわけだ。やはり、どこかで繋がっているのだろう。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150718-00000021-jij_afp-int&p=1

2015年7月22日水曜日

秋田商業高野球部 県決勝進出

一昨年の甲子園入場行進
http://www.asahi.com/koshien/95/pref/gallery_e/
view_photo_feat.html?akita-pg/TKY201308080372.jpg
新聞によると、秋田商業高校が、県予選大会で決勝に進出したようだ。O先生、今年も頑張っているなあ。写真は一昨年の甲子園。一回戦で悔しい思いをした1年生が、甲子園に戻ってくる可能性が高い。あの時私は応援に汗する彼らの真横にいた。(一昨年8月14日付ブログ参照)今年はいい投手がいるらしい。頑張ってやあ。

大阪から熱い思いを込めて応援しています。また甲子園に帰ってきて欲しい。当然応援に行きます。

野球部四回戦を応援に行ったが

野球部の4回戦、相手は大阪を代表する府立の進学校である。意気に燃えて応援に向かった。今日は雨だが、今年の予選は、小雨決行という感じだし、いろんなWEBページにも中止と出ていなかったので、南港へ向かったのだ。

行きの学研都市線では雨も降っていないし、地下鉄(中央線)が外に出て、「あら、少し雨が降っとる。」という感じだった。が、乗り換えの駅で、相手校の生徒が逆方向に向かっている。中止の可能性がかなり高まった。最寄駅にも次の対戦相手の私学の生徒が集まっていた。これはダメだと確信した。でも、私にとっては今日が最後の応援チャンスである。本校の野球部の生徒がまだいるかもしれないので、せめて激励にと球場へ向かった。途中、1・2年生と会った。「チワース。」と帽子をとって挨拶を受けた。「3年は?」と聞くと、「球場の向こうにまだいはります。」とのこと。

なんとか、着替え中のレギュラー組に会うことができた。満面の笑顔を見せてくれた。明日は来れないので、と言うと、「えええっ。」「でも勝ち進んだら、またいけますよねえ。」「日本におらん。」「えええっ。」「じゃあ、しゃあない。甲子園に出ますわ。甲子園ならいけますよねえ。」「おう。行くで。」ということになった。(笑)

なんとも心残りだが、教え子たちとそんな会話ができたので、満足して帰ってきたのだった。明日以後の勝利を祈るばかりである。

現代アフリカ経済論 学習ノート11

http://zaraimedia.com/2013/09/13/idb-assist-punjab-government-agriculture-projects/
イスラーム金融の話は度々聞くのだけれど、金融資本は利子によって儲かるわけで、利子を取らないシャリーアの規定と金融資本は二律背反していると言って良い。では、どういうシステムになっているのか?長らく謎だったのだが、昨日第10章を読んで判明した。こういう長年の謎が解けることは実に嬉しい。と、いうわけで、現代アフリカ経済論のエントリーを続けたい。

イスラームは各時代の状況に対応して変化してきたという。とはいえ、現在もリバーを利子一般と解釈することが支配的だそうだ。オイルマネーによる金融資産は現在の国際経済システムの中でどう動かされているのか。

イスラーム金融は伝統的な商取引法を応用した多くの金融商品を開発しているのだ。代表的なものは、パートナーシップに基づくムダーラバ、売買契約に基づくイジャーラ、賃貸契約であるイジャーラなどである。

ムダーラバとは、企業の実施する事業のパートナーとして金融仲介機関が資金を提供するもので、あらかじめ合意した割合にしたがって、金融仲介機関と事業者が利益(または損失)を分け合う。利益または損失を両者で分配することから、損益分配方式といわれる。

一方、ムラーバハは、金融仲介機関を通じて財を購入するもので、まず金融機関が顧客に代わって財を取得する。顧客は、財の代金にマークアップ(値段の差額)を上乗せして金融機関から分割払いでその財を購入する。現在、イスラーム金融による資金融資の大部分がこのムラーバハとなっている。

イジャーラは、賃貸借(リース)に相当するもので、金融仲介機関が購入した財を顧客に貸し出すことでリース料を得る。

現在、サブ=サハラ・アフリカで事業展開しているイスラーム金融機関としては、ファイサル・イスラーム銀行(スーダン・ギニア・セネガル・ニジェールなど)、アル=バラカ・グループ(:ABG、スーダン、南アなど)があり、いずれもサウジアラビア資本である。また利子を扱う銀行においても、イスラーム金融方式に特化した支店をおく場合もある。南アのスタンダード銀行は、2010年にタンザニアで金融窓口を開設した。さらに、開発系の金融資本としてイスラーム協力機構(OIC)が母体となったイスラーム開発銀行(IsDB)がある。主要出資国は、中東・アフリカの産油国(ナイジェリアが入っている)で、ラバト(モロッコ)とダカール(セネガル)に地域事務所を開設している。カメルーンの水力発電事業に融資するなどインフラ整備や貧困削減などの中長期的プロジェクトに融資している他、農業生産性の向上、教育分野の拡充にもあたっている。90年代後半以降は、マイクロファイナンス事業への支援を積極的に行っている。ベナン、カメルーン、ギニア、マリ、セネガル、チャドなでの支援実績をもっている。

その他にも、セネガル、ガンビア、ジブチなどで、中東産油国と現地資本の合弁でイスラーム銀行が開設されているし、前述の南アのスタンダード銀行のように西欧資本の非イスラーム専業銀行がイスラーム金融の窓口開設を進めている。

アフリカにおけるイスラーム金融の広がりは、既存の経済システムの代替というよりは、ムスリムを対象とするビジネスの試み、あるいはイスラーム社会への経済協力という色合いが強いのが現状である。

…イスラムの金融制度、なかなか面白いと私は思う。昨日もエントリーしたが、イスラム経済には倫理性が前面に出ている。資本主義のモラル・ハザードが叫ばれている中で、ますます注目されていくに違いない。

2015年7月21日火曜日

現代アフリカ経済論 学習ノート10

イスラーム法学派の分布図
久しぶりに現代アフリカ経済論についてエントリーしておきたい。本書の内容の順を少し飛ばして、第10章のアフリカとイスラーム経済について。今日、ここを読んでいて鬱勃たるエントリー欲がわいてきたのだ。この章の執筆者はジェトロの中東研究グループ研究員の土屋一樹氏である。

まずアフリカのイスラームの宗派について。こういう資料は初めてである。西アフリカ(とマグレブ)は、スンナ派マーリク法学系。東アフリカはスンナ派シャーフィー法学系である。いよいよ、イスラームも法学派の違いで見る時期にきていると私は思う。もちろんイスラームは初心者に等しいので、本書と様々なWEBの資料を見比べて、およそ次のような違いがあるようだ。

西アフリカ:ハディース(ムハンマドの言行録)を最も重視する。スーフィズム(神秘主義)の影響が強く内面的に追求する。既存の信仰・風俗をイスラーム信仰に取り入れることに寛容である。したがって異教徒の改宗が容易。
東アフリカ:理詰めの法解釈を行う。地域の慣習に依処することは少ない。

…ケニアではあまりムスリムに合わなかったが、ブルキナではわりと接した。サヘルへの旅ではキリスト教徒と墓地が共同化されていたりして、意外な感じがしたのを思い出す。経験的になるほどと思うこともあるわけだ。

さて、イスラーム経済の話である。統計データの蓄積と計量経済学の進歩にともない、宗教と経済成長の関係を検討する研究がされているそうだ。結論的に述べると、あの世の存在を信じる人の比率が高い国ほど経済成長率が高く、集会礼拝へ参加する人の比率が高い国ほど成長率は低いという。一国における特定宗教の比率を変数に加えると、イスラーム教徒の比率が高いほど経済成長率は低くなるそうだ。これは、中世までに構築された社会経済制度が近代以後の資本主義経済システムに適合しなかったことが指摘されている。シャリーア(イスラム法)に基づく分割相続制度が資本蓄積を阻害し、大規模生産体制が発達しなかったというのである。

イスラーム経済とは、シャリーアの教えに適合した経済活動であり、神の規則に従う故に倫理観をもつ経済活動だといえる。コーラン全6226節のうち経済活動について約1400節言及されている。誠実な商取引が称揚されている。この世の全ては唯一神の被造物であるから、究極的に神の所有物である。正しく使用するかぎりこれを占有することが認められる。なにより、イスラーム経済の特徴としては、ザカート(喜捨)とリバー(利子)の禁止が挙げられる。また、先日(6月1日付ブログ参照)エントリーしたワタフ制度も公共財の供給手段として重要である。

現在注目を浴びているイスラーム金融については、明日エントリーしようと思う。

朝日 ブルンジのデモクレイジー 

http://www.burunditransparence.org/octobre10.html
本年4月29日のエントリーで、ブルンジの大統領選のことを書いたが、今日の朝日の朝刊に比較的大きな記事が出ていた。大統領の憲法違反の三選をめぐる話である。首都ブジュンブラの中心部ではいたるところに武装した兵士が配置され、抗議デモができない状況にある。民間のTVやラジオは全て閉鎖され、国営放送だけが視聴できる状況だそうだ。

最大の民間ラジオ局「RPA」は5月20日に閉鎖された。その後警察に建物や設備を焼かれ、記者30人は国外に逃れたという。ジン・マリエ代表は「ヌクルンジザ氏(大統領)は力ずくで選挙を乗り切るつもりだ。このままでは民族が割れ、再び内戦が始まってしまう。」と述べている。

すでにこの問題の詳細はエントリーしているが、フツの大統領に、ツチが強く反発する恐れはある。そうなれば、というわけだ。

昨日、奈良教育大学でデモクレイジーについて講義したばかりだ。今回の記事は権力がメディアを弾圧しているという、民主主義における健全なメディア存立の重要性を、朝日新聞は強調したものと私は見る。東アフリカの小さな後進開発国のこの事態を憂いつつ、今の日本を危惧するだけでは、いかにも寂しい。ブルンジのデモクレイジーに対して、我々にできることはないのか、もう少し突っ込んで欲しいところだ。

2015年7月20日月曜日

奈良教育大学 ESD勉強会 本番

奈良教育大学に行ってきた。朝7時に自宅を車で出た。ゲームのボード(B3の大きさがある)を持っていくためである。およそ1時間強で着いてしまったのでモーニングをして時間つぶし。いつも奈良教育大学には早く着きすぎてしまう。(笑)中心者のG君が正門に到着したのとほぼ同時だった。なかなか幸先が良い。

すでに教室には参加する学生諸君が何人か集まってくれていた。ありがたいことである。気さくに話しかけると、これまた気さくに応じてくれる。講義の雰囲気をつかむためにも不可欠な作業である。今回の講義は、教員志望の学生さんなので、授業を楽しくするためのスキルをできるだけ入れることに決めた。将来の参考になればと思ったのだ。ときどきパワーポイントの内容から脱線しながら、時間通り10時から12時まで2時間ジャストで講義を終えた。プロフェッショナルである。(笑)意外に疲れなかったのは、さすが国立大学の学生さん相手だったからだろう。みんな、たいしたもんだ。

休憩の後、アフリカSDゲームを実際にやってもらった。これも1時30分から2時間。高校生なら絶対集中力がもたないだろう。ゲームに盛り上がるのは、高校生も大学生も同じである。やはり嬉しい。(笑)社会科教員を目指す学生諸君が集まったチームは、ガバナンスについて討議が盛り上がっている。もちろん、勝敗も大切だが、ゲームの最大のねらいはここにある。こういう盛り上がりは製作者として嬉しい。今回は、総合Pと27ある政策をどれだけ実施したかの2つで勝敗を争った。商品は、昔々ブルキナファソで買った版画である。あるだけ持っていったので、なんとか全員に行き渡った。意外に喜んでもらえて、これも嬉しい。

終了後も様々な現場の話をさせてもらった。私自身が、学生諸君に学ぶことも多かった1日であった。コーディネイターのG君をはじめ、スタッフ、参加者のみなさんに改めてお礼を申し上げたい。

追記:ひとつだけ気になっていたことがあった。本校野球部の三回戦である。またまた延長で私立のZ高校に勝利したようだ。22日に四回戦が組まれている。よしっ、応援に行くか。若さに囲まれる幸せは教師の特権である。

2015年7月19日日曜日

ホロコースト全史を読む。(7)

エクソダス号 http://markethack.net/
いよいよホロコースト全史のエントリーも最終回である。第8章「ホロコーストの終焉」第9章「それぞれの出発」について書いていく。実は、今ポーランド行きを目前にして、悩んでいることがある。ワルシャワ・ゲットーの事を学ぶにつれ、やはりゲットー跡を訪ねたいと思ってきたのである。ポーランド・ユダヤ人歴史博物館もあるし、最終日(クラクフから14:00着)に行くには時間的にキツイという。うーん。とはいえ、初日に行こうとしているマイダネク収容所(ルブリンという町にある)も捨てがたいところ。第7章は、このマイダネク収容所の話から始まるのだ。

ソ連軍が1944年7月23日に解放する。「収容所の中央には巨大な石造りの建物が建っており、工場の煙突のようなものがくっついていた。これが世界最大の焼却炉であり、このガス室は一度に250人を殺す能力があった。ガス室には限界まで人々を詰め込まれたため…窒息したあとも死体は直立したままだった。」(ソ連の通信員ローマン・カルマンの報道)その後、ソ連軍はベウジェツ、トレブリンカ、ソビブルといったすでに1年も前に閉鎖され焼き払われた収容所にも入る。そして1945年1月27日、アウシュビッツに入る。この侵攻前に歩ける収容者は死の行進を強制され、衰弱して歩けない者だけが残されていた。ソ連は、アウシュビッツの解放は重視されず、新聞報道されたのは、他の4つの収容所を解放した後の5月になってからだった。

イギリス軍は1945年、4月15日にベルゲン・ベンゼンを解放した。収容所にチフスが流行っており、埋められもせず何千体もの死体が放置され、腐敗していた。6万人の収容者がまだ生きていたが、解放後14000人が数日間で死亡した。さらに数週間で14000人が死亡した。ビルケナウ(アウシュビッツ第2収容所)から死の行進でたどり着いた収容者でさえ、ここの方が死を間近に感じだという。イギリス兵は、収容所の実態の凄まじさに言葉を失い、ブルドーザーで大きな墓穴から死体を掘る作業を続けた。地元の市民が呼ばれ、この惨劇を見せられた。

アメリカ軍も1945年4月11日ブーヘンヴァルトに入る。その数日前に25000人の収容者は連れ出されていた。(その後多くは死亡)その後7つの収容所を解放した。さらに4月29日、ダハウでは、有蓋貨車の中に男女10体の餓死した死体を見る。その次の貨車にはさらに多くの死体があった。誰かの呪いの言葉が沈黙を破り、それから怒りの叫びとともに兵士たちは収容所の中に駆け込んだ。彼らは正気を失っていた。手当たり次第目に付いた収容所の監視員を徹底的に痛めつけ、収容者の前に引きずり回し、こいつらをどうするか尋ねた。判決はすぐ下され実行に移された。5月5日、アメリカ軍に発見された最後の収容所はマウトハウゼンとグーセンだった。その3日後WWⅡは終わった。

戦後、収容所から解放されたユダヤ人は、難民キャンプに移された。ポーランドでは帰国したものの村人に虐殺された例もある。アメリカの移民枠は後にトルーマンによって20万人にまで増やされたが、すこぶる多くの書類が必要で、多くの難民はパレスチナへ移住した。イギリスはこれを許可しなかった。残り少ない植民地の確保とアラブ諸国を敵に回すことを恐れていたのだ。シオニストの地下組織が移住に協力したが、イギリス海軍が海上封鎖を行った。キプロスに不法入国者の仮収容所に収容された。モサドは、こうしたイギリスの動きを国際世論をユダヤ人への同情・イギリスの委任統治批判を誘導するキャンペーンに使う。

マルセイユを出た「エクソダス号」は1947年イギリス海軍に拿捕され、マルセイユに送り返された。そこでユダヤ難民はハンガーストライキに入る。事件は世界の注目を集めた。イギリスは世界世論を読み違え、催涙ガスを使い下船させ、あろうことかドイツのベルゲン・ベルゼンに送り返したのである。国連でパレスチナにユダヤ人国家をつくる決議が採択されたのは、この4カ月後である。

…まさしくホロコーストがイスラエルというユダヤ人国家をつくったのである。

2015年7月18日土曜日

ホロコースト全史を読む。(6)

http://raoulwallenberginstitute.org/category/topics/peace
第7章「抵抗と支援」は、タルムードの一節から始まる。「一人の命を救う者は全世界を救う。」加害者が被害者に対して圧倒的優位に立っていたホロコーストにおいて中立はまさに、殺人者への加担でしかなかった、と著者は書いている。ここで中立と非難されているのは当時のルーズヴェルト・アメリカ政府である。アメリカが戦争難民評議会を設置したのは、1944年1月。ニュルンベルグ法から8年、水晶の夜から5年、すでに各地に絶滅収容所・強制収容所・奴隷労働収容所が作られていた。国務省内の反ユダヤ主義、国内の移民排斥主義、アメリカ在住のユダヤ人組織の無力さ・まとまりのなさ、それに加えて何よりも戦争努力を優先すべきだという1941年の決定が足かせになっていた。ルーズヴェルトが重い腰を上げたのは、(四選をめざしていた)選挙の年にこのようなホロコーストの事実が出れば、自分の政治生命が危うくなるとの判断だったという。
…日本でも同様の話が東京のある建築をめぐってあったところだ。感無量である。

一方で、ヨーロッパ各地で、生命の危険を顧みず、ユダヤ人を助けた人びとが多くいた。その動機は、様々であるが、それは人間として当然であり、戦後も自分たちは英雄ではないと語った。

ナチに占領されたヨーロッパ諸国の中で、デンマークだけはほぼ全員のユダヤ人が助かっている。昔からユダヤ人に寛容で、社会に受け入れられ尊敬されていた。ドイツはデンマーク人をアーリア人とみなし大幅な自治が認められていた。それでもドイツからの移送命令が出た時、国を挙げてスウェーデンに脱出させている。しかも財産や手厚く保護され返却された。トーラーなどは教会が保存し、企業は信託に付された。自分で動けない障害者や老人・貧困者は収容所に移送されたがデンマーク国籍のユダヤ人には、政府が収容所の調査を要求し、支援物資が送られ、赤十字の視察団まで送った。収容所が開放された後、最初に帰国できたのはデンマーク国籍の収容者だった。移送された464人のうち死亡したのは51人だけだったという。

前述のアメリカの戦争難民評議会の呼びかけで、ハンガリーのユダヤ人援助に立ち上がったのが、スウェーデンのラウル・ヴァレンベリという貴族出身で銀行家の御曹司である。外交官パスポートと莫大な資金、そして非公式ながらユダヤ人を救助する全権をもって乗り込んだ。(呼びかけに対し、他の中立国スイス、バチカン、国際赤十字は努力するという回答だけだったという。)当時は、ソ連が侵攻し、ハンガリーのユダヤ人移送は中止されていた。彼はスウェーデンのパスポートを5000通発行し、ブダペストに住むユダヤ人のために病院・託児所・無料食堂をつくる。かのSSアイヒマンがオーストリア国境までの死の行進を推し進めた際、スウェーデンの安全通行証を何千通も発行し、ユダヤ人を釈放するよう、脅し、賄賂などで妨害する。彼はアイヒマンにより車の衝突事故にもあった。ソ連軍がブダペストに入った際、彼はスウェーデンに帰国することも可能だったが、ハンガリーのユダヤ人の戦後の生活立て直しのために残った。しかし、その後行方不明になる。長らくソ連は彼を拘束していたことを否定していたが、ゴルバチョフによって家族に彼のパスポートが返却された。1881年、アメリカ議会はチャーチルに次ぐ2人目の名誉市民称号を送った。

…本書には、その他多くの支援の話が出てきたが、デンマークの国をあげての話はなかなか清々しい。だが、ふと、イスラム教徒を憤慨させたムハンマド風刺の始点がデンマークだったことを思い出した。この辺はどうなのだろう。アメリカ政府のホロコーストへの対処の遅れが、多くのユダヤ人殺戮の責任の一端を担っていることは否定できない。そのアメリカが、先日イランとの和解の中で、水面下でイスラエルにF35(ステルス機でF22ほどではないが最新鋭機として大きな戦力となる。)を供与するという報道もあった。アメリカの贖罪は今尚続いているようだ。

…スウェーデンのラウル・ヴァレンベリ氏については、この本で初めて知った。日本では杉原千畝氏が有名だが、杉原氏に勝るとも劣らないユダヤ人救援とその崇高な精神に感じ入る次第。現代史は様々な糸が絡み合い、”今”をつくっている。そういえば、先のイスラエル行の時泊めてもらったお婆さんはスウェーデンからイスラエルに移住してきた方だった。なぜか、鈴木大拙の禅の本(もちろん英文)が置いてあった。ラウル・ヴァレンベリ氏のことをもっと早く知っていれば…と思う。

奈良教育大学 ESD勉強会 準備2

奈良教育大学での講義も間近に迫ってきた。コツコツと暇をみてはパワーポイント教材をつくっている。午前中2時間が講義の予定である。アフリカ開発経済学の基礎を語るには短すぎるのだがなんとかしようと試行錯誤している。前半部までは比較的スムーズに進んだのだが、後半部は語るべきことが多すぎる。

まず、グローバル化の中、鉱産資源の開発によるレンティア国家が誕生したこと、ただしその経済成長は喜んでばかりおれない状況であること。失敗国家の典型的な例と、デモクレイジー、その発生のメカニズム、良きガバナンスの成功例としてのボツワナという流れにしてみた。ここで、良きガバナンスとは何か?というところまできた。これが、午後に体験してもらうSDゲームの基本コンセプトであるわけで、ようやく着地点が見えてきたというところである。

講義にどれくらいかかるかは、やってみなければわからない。ただ、これまでの経験値からなんとかなるという自信はある。余った時間があれば京大の公開講座みたいに質問時間としようかな、などと考えている。

2015年7月17日金曜日

ホロコースト全史を読む。(5)

http://www.weblio.jp/wkpja/content
第6章の「絶滅収容所」を読みきった。来週の今頃はロシア上空にいると思うと、急がねばと思う。今日も「ホロコースト全史」のエントリーを続けたい。こうしてエントリーすることは、ポーランド行きの事前学習であるとともに、人権主担として、ホロコーストについて生徒に講義する予定を組んでいるからだ。写真もできるだけ撮りためて、前回のイスラエル行同様パワーポイントの教材をつくる予定である。そのための準備でもある。

今回も第5章の「国家政策としての殺戮」と第6章から、これまで知らなかった事実を抜書しておきたい。まず、鉄道による強制輸送についてである。収容所は巧妙にポーランドの主要な鉄道路線に沿って建てられており、ドイツの国鉄ライヒスバーンは、140万人(うち公務員は50万人)の人員を擁していた。彼ら職員は、輸送されたユダヤ人がどうなるかを知っていた。アウシュビッツだけで44本の線路が入っており、第二収容所のビルケナウ絶滅収容所には入口に直接接続する側線も引かれていた。だが、誰ひとりとして辞職したり抗議する者はいなかった。ユダヤ人は、一般の客と同様にキップを買わされた。SSは旅行代理店を通じて、各ユダヤ人の輸送キロに応じて1キロあたり40ペニヒで収容所までの片道切符を売りつけた。10歳以下の子供は半額で、4歳以下は無料だった。400人以上になると普通切符の半額の団体割引が適用された。帰りの列車は空になるが、その分の運賃は請求されなかった。SSはツケで切符を売ることもあったという。

…このドイツ人の律儀さには、頭を抱えた。悪い冗談のようでもある。

この地獄の貨車は、ハンガリーからアウシュビッツまで数日、ギリシアからは一週間以上かかったという。というのも、15トン貨車に80人から100人が詰め込まれ、一度に1000人から2000人という荷重がスピードを落としたからだ。このために移送されるユダヤ人の苦しみは長引くことになった。

ナチの収容所は、9000以上の様々な収容所があったが、主に強制収容所・絶滅収容所・奴隷労働収容所に分けられる。強制収容所には、ソ連兵捕虜、政治犯、一般の刑事犯、ロマの人々、同性愛者などが収容された。

絶滅収容所は、トレブリンカ、ソビブル、ベウジェツ、ヘウムノ、アウシュビッツ第二(ビルケナウ)、マイダネクの6箇所である。この絶滅収容所は、1941年6月から始まった「行動部隊」による射殺による殺戮は効率が悪く、また殺す側の負担が大きかった故に、建設が進んだものである。1941年12月には移動式のガス・トラックがヘウムノで使用された。排気ガスで窒息死させるものだが、これも効率が悪く、死体の処理をSSが不快で手間のかかるものとしたため、1942年3月から、ヘウムノ以外の絶滅収容所で固定式のガス室が建設された。

へウムノでは、ガス・トラックで15万人、トレブリンカでは75万~87万人、ソビブルでは20万~25万人、ベウジェツでは、55万~60万人、アウシュビッツ第二(ビルケナウ)では110万人(ポーランド人数万・ロマの人々19000、ソ連捕虜2000が含まれる。)が殺されている。マイダネクは、移送の経由が主だったようだが、ポーランド人を中心に36万人の殺戮が行われた。

奴隷労働収容所とは、1942年の戦況の変化とともに、戦争のための強制労働が必要となった故に建設された。消耗品と見られていた収容者は劣悪な条件下で1日に11時間も働かされ、マウトハウゼン収容所では43年の死亡率は40%という高率だった。これらの労働力を使用した企業は、フリック、イー・ゲー・ファルペン、BMW、ジーメンス、メッサーシュミット、ダイムラー・ベンツ、クルップなどである。アウシュビッツの第三収容所は、イー・ゲー・ファルペンの石油化学コンビナートで強制労働を強いていた。働けなくなった者は第二収容所(ビルケナウ)に送られた。

…強制収容所では、ドイツ人の同性愛者はピンクの三角印をつけさせられた。(彼らは組織的殺戮の対象にはならなかったが、手荒な扱いや他の囚人から虐待を受けたという。)後、このピンクの三角はゲイの権利運動のシンボルとなった。最近の同性愛を巡る世界的な傾向から見ると、まさに隔世の感がある。こういう事実も記しておきたい。
ちなみに、調べてみると左翼政治犯は赤、一般的な犯罪者は緑、ロマの人々は黒(反社会的または無能とみなされていた。)、エホバの証人は紫であったという。(画像参照)
http://www.ushmm.org/outreach/ja/article.php?ModuleId=10007754

2015年7月16日木曜日

ホロコースト全史を読む。(4)

ワルシャワゲットー:http://eritokyo.jp/independent/aoyama-poland04-9.htm
ワルシャワ・ゲットーの話を今日はエントリーしようと思う。ホロコースト全史では第4章の「ヨーロッパ各地のゲットー」、第5章「国家政策としての殺戮」にあたる。東ヨーロッパに居住していた数百万のユダヤ人は、ほとんどが都市部に集中していた。ポーランドでは、ドイツ軍の侵攻後まもなく、ユダヤ人のみを居住させ隔離するためのゲットーがつくられた。1940年10月12日、「ヨム・キブル」の贖罪の日に、ワルシャワ・ゲットーは作られた。十数キロにおよぶ壁に囲まれた閉鎖的な空間で、ゲットーの予定地にいたポーランド人11万3000人は追い出され、13万8000人のユダヤ人が移住させられた。ワルシャワ全域の2.4%にワルシャワの30%を占めるユダヤ人が収容されたことになる。これまで4人が住んでいた部屋に10人から15人が生活することになる。不潔で、飢えに悩まされ、病気(特に恐れられたのがチフス)が蔓延し、絶望にさいなまれることになった。ゲットーの運営はユダヤ人評議会に委ねられており、彼らは以後様々な苦渋の決断をすることになる。ちなみにゲットーというのは、ヴェニスにあるユダヤ人居住区の呼び名だったもの。大砲をつくる「鋳物工場」という意味である。

ゲットーをつくったナチの狙いは、「クリーン・バイオレンス」と呼ばれる人為的な餓死であった。1941年、ワルシャワ・ゲットーでは住民の1/10以上にあたる43000人が死亡した。彼らは様々な手段闇物資をを密かに持ち込み、持ちこたえていくが、やがて、ここから絶滅収容所へと送られていく。ナチは、誰を送るかはユダヤ人評議会に決めさせていた。絶望的な状況の中、ラビたちにタルムードの先例が求められた。「もし、異教徒がユダヤ人にこう言ったとする。お前の仲間の1人を我々に差し出せ。我々はその人間を殺す。だが、出さなければ全員を殺す。この場合、ただひとつの魂を死に向かわせるのではなく、全員が殺されるべきである。というのがタルムードの教えるところだった。」という。だが、実際は順次仲間を差し出さざるをえなかったのである。

一方、ゲットーではユダヤの文化を守り抜き、50種類もの地下新聞が発行され、学校が作られ、演劇も上演されていた。ワルシャワ・ゲットーで発見された文書には次のような小話が書かれていた。
ある警察官がユダヤ人の家に来て、持ち物を没収すると言った。女は泣いて、自分は女手一つで子供を育てている未亡人なのだと哀願した。すると警官は、没収を見逃してやってもいいいが、一つ条件がある。自分の目は片方が義眼だが、どっちが義眼か当てたら見逃してやろう。「左目でしょう。」「どうしてわかった?」「人間らしい目ですから。」

1943年7月から9月にかけて、約30万人のユダヤ人がワルシャワ・ゲットーから絶滅収容所に移送された。ついにゲットーには55000人が残るだけになったが、移送は依然として続いており、人々は絶望の中で蜂起を決意する。1月9日。移送への出頭を拒否し、ゲリラ戦が行われた。まずはドイツ側を撤退させることに成功する。さらに43年4月19日、過越の祭の二日目、戦車と火炎放射器で武装した2000人のドイツ軍にわずかな拳銃とライフル、機関銃数丁、手作りの火炎瓶で勝利する。その後も、ゲットーを焼き尽くす作戦が取られたが、ユダヤ人たちは下水道に隠れて1ヶ月持ちこたえた。最終的に、このワルシャワ・ゲットーの蜂起でユダヤ側は7000人が射殺され、7000人がトレブリンカ絶滅収容所へ15000人がルブリン(マイダネク)絶滅収容所に送られたという。

…ワルシャワ・ゲットーについて書かれた膨大な内容をまとめてみた。だんだん8日間というポーランド行が短すぎるような気がしてきた。今はワルシャワ・ゲットーの記念碑とポーランドユダヤ人歴史博物館がある。やはり足を運ばねば…と思うのだ。

台風のため終業式の前倒し

台風11号が近づいている。明日は、暴風警報で休業日になる可能性が高い。そこで、今日は短縮45分授業に変更されて、4限終了後すぐに全校集会が行われた。要するに終業式の代わりである。毎年本校では、終業式に各クラブの表彰があって、さらにインターハイ出場者を野球部がエールで送ることになっているが、これまた時間的な問題で表彰は延期。インターハイ壮行会も野球部が二回戦で公欠なので、サッカー部が行った。(ちなみに野球部は、午後に行われた二回戦を7回コールドで突破した。めでたい。)その後、本来は校歌斉唱だが、これまたカット。学校長のお話と生活指導部長のお話、さらに教頭から熱中症への注意。これで終わりである。

長い教師生活であるが、終業式が繰り上げられたのは、今回が初めてである。面白かったのは、生活指導部長の話。終業式のような式典では、ネクタイやリボンを着用してフォーマルな服装で参加するよう改めて指導されたのだ。実は私は、こういう意識を大切にする。だから、めったにしないネクタイを着用していた。ん?指導してる生活指導部長はもちろんネクタイ着用だが、後の先生方は私以外誰もしていない。クールビズが徹底されているようだ。(笑)生徒の着用率は1割くらい。他の先生方はちょっと苦笑いであった。でも…、繰り返すが、こういうフォーマルな部分を大事にする意識、私は好きだな。

2015年7月15日水曜日

ホロコースト全史を読む。(3)


ワルシャワのバヴィアク刑務所
http://www.virtualtourist.com/travel/Europe/Poland/Wojewodztwo_Mazowieckie
/Warsaw-468976/Things_To_Do-Warsaw-Pawiak_Prison-BR-1.html
さらに、ホロコースト全史のエントリーを続けたい。ポーランドの話である。ナチは、ポーランド人をウンターメンシェン(下等人種)とし、拡張の邪魔でしかないと考えていた。したがって、ドイツ人移住者がポーランド人の土地を奪い、全ての街をドイツ名に変えるというエゲツナイ植民化がはかられた。ポーランドの知識人階級や政治指導者は組織的かつ冷酷に殺害されていく。ドイツの目的は指導者を殺してポーランドの一般住民を労働者として従属させ、搾取することであった。要するに第三帝国の奴隷とすることであった。ポーランド人の処刑はワルシャワにあるパヴィアク刑務所と郊外のパウミリの森で連日のように行われた。カトリックの神父もその対象になり、平均で18%が殺害された。SSのヒムラーは、秘密文書の中でこのような考え方を示している。

「東ヨーロッパの非ドイツ人は、小学校4年までの教育で十分である。算数は500以上の数を使わない簡単な計算だけ、国語は自分の名前が書ければ良い。そしてドイツ人に従うことは神によって定められた法であるという原則を教える…字など読めなくてもいい。」「ポーランド人がどういう暮らしをしようと…われわれの知ったことではない。連中は奴隷として必要なのであり、われわれの役に立ちさえすればいいのだ。」

大量殺戮への道は、障害者の殺害から始まった。1939年10月、ヒトラーは「安楽死計画」の開始を告げる命令書に署名した。身体障害、精神薄弱、精神障害をもつ人々が組織的に殺されていくことになる。精神疾患をもつ家庭に調査が行われ、たった3人の専門医がその回答用紙に目を通し、診察するでもなく、カルテを見るでもなく、安楽死を決定した。6箇所の殺人センターに安楽死が決定した人々は送られた。SSが医療関係者のような白衣を着て移送したという。当初は、餓死させられた。次に致死量の鎮静剤、やがて一度に15人から20人がシャワー室に見せかけたガスによる殺人が採用された。その後、隣接する焼却室で焼かれた。まさにホロコーストの前兆である。

…ヒムラーの考え方は、アフリカの失敗国家で、今尚見られるものだ。権力を持つ人間の悪意の集大成のような発想であるというコメントの必要性さえ認められないほどの暴論である。

2015年7月14日火曜日

ホロコースト全史を読む。(2)

セントルイス号http://www.ushmm.org/outreach
/ja/article.php?ModuleId=10007701
ホロコースト全史(マイケル・ベーレンバウム/創元社)のエントリーを続ける。第2章・第3章を読み終えた。1935年のニュルンベルグ法の制定から大戦が始まりポーランドでの暴虐、障害者の殺害までが書かれている。

この中で特に記憶に残しておくべきことは、ドイツ国内でユダヤ人が段階的に存在できなくなるように仕向けられる中、他の諸国がなんら効果的な手を打たなかったことだ。1933年から41年にかけて、ナチの反ユダヤ人政策の目標は、強制的な移民によって、ドイツ国内から追い出すことであった。38年までに国内の1/4にあたる15万人が去ったが、オーストリア併合で新たに18万3000人のユダヤ人が管轄下に入った。このような状況下、ルーズヴェルトは、32カ国の代表をスイスのエヴィアンに集め、難民問題を話し合うことを提唱した。が、アメリカの代表は政府高官ではなく、ルーズヴェルトの友人の民間人であった。アメリカは、国内の不況をまだ克服しておらず、移民国家ながら多くのユダヤ難民を受け入れる余裕はなかったのである。提唱国がこれだから、他の国が不熱心であったのは当然である。イギリスは国土が狭いという理由で拒否し、パレスチナを(無制限に)解放することも拒否。オーストラリアは「我が国には人種問題はない。わざわざ問題を抱え込むわけにはいかない。」と述べ、カナダは「(都会ぐらしのユダヤ人ばかりの状況下で)農民に限って受け入れる。」と表明した。オランダとデンマークは少数の難民を受け入れると表明した。ドミニカ共和国だけが10万人を受け入れると寛大な申し出をしたが、ほとんど移民するユダヤ人はいなかったという。

38年11月9日の水晶の夜の後、さらに状況は悪くなる。翌年5月13日、ハンブルグとアメリカを結ぶ豪華客船セントルイス号は、ドイツからキューバに向かった。乗客936名中6名を除いて全てユダヤ人であった。しかしハバナ入港間際になって、出港前にキューバ政府がビザの発行を拒否していたことが判明。1人$500の分担金が必要と言われ、さらに接岸後は$100万に跳ね上がる。アメリカのユダヤ人団体も彼らを救うための莫大な金額に躊躇する。アメリカ政府は結局干渉しない、というカタチの入国拒否。この彷徨うセントルイス号の乗客は、その後ベルギー・オランダ・イギリス・フランスに受け入れられた。だが、数ヵ月後ナチは西ヨーロッパに侵攻、ホロコーストを免れ、生き延びたのはイギリスに上陸した288名だけである。

結局のところ、安全な場所に避難できたユダヤ人はほんのひと握りだった。最も多く受け入れたアメリカでさえ、45年までの間にわずか13万2000人である。39年まではユダヤ難民はパレスチナに移住するのがほとんどだったが、39年以後は1年に1万5000人の制限がついた。(ただイギリスは子供1万人を受け入れている。…この辺、ロンドンのロスチャイルド家の力を感じる次第。)ラテンアメリカ諸国は総数で8万人受け入れた。カナダはほんのひと握り。意外にも多いのが中国。ビザも警察の証明書も必要なかったからで、上海にはユダヤ難民があふれた。

とはいえ、知識人たちは比較的恵まれていたようだ。その多くはアメリカに渡っている。NYの北マンハッタンのワシントン・ハイツ地区にはドイツ系ユダヤ人のコミュニティーが出来、冗談で「第四帝国」と呼ばれていた。この地域で成長した子供の中にキッシンジャーがいる。同じ境遇だった劇作家ブレヒトの詩を最後に挙げて今日のエントリーを終えたい。

そう、そうなのだ。ただ運がよかっただけで、
私は友より長く生きてきた。
だが昨夜、夢の中で、友達が私をこう呼んだ。
「自然淘汰の生き残り」
そして私は、自らを憎んだ。

2015年7月13日月曜日

ホロコースト全史を読む。(1)

妻が「ホロコースト全史」(マイケル・ベーレンバウム/創元社)が無茶苦茶面白いというので、少しずつ読み出した。通勤時に読むには重いのだが、これがまた、スイスイと読めるのだ。やはり属性の問題なのだと思う。

とりあえず第1章の「ホロコーストの足跡」を1日で読み終えた。この中で、ヨーロッパにおけるキリスト教徒のユダヤ人への差別意識について、これまで知らなかったコトをエントリーしておきたい。

ルターのユダヤ教徒への非難の文章から。16世紀のこの言は、4世紀後にナチの行動を奇しくも予言している。
「まず、ユダヤ人のシナゴーグや学校に火をつける。それから燃えないものは、すべて埋めるか土をかぶせる。こうして、石ころ1つ、燃えがら1つ、二度と目に触れないようにする。モーゼは申命記13章に、邪教にふける全ての都市は火によって焼き尽くされるであろうと書いている。モーゼが今も生きていたら、彼は率先してシナゴーグやユダヤ人の家に火をつけていただろう。」

仏の社会主義者・プルードンの言葉。「ユダヤ人は人類の敵である。ユダヤ人はアジアに追い返すか、絶滅させるべきである。…火で焼き尽くすか追放すべきである。ユダヤ人を地上から抹殺すべし。…だが、子孫を増やすおそれのない老人には目をつぶってやってもよい。」

1933年の5月にナチが起こした非アーリア人の著作の焚書事件について。アインシュタイン、フロイト、ツヴァイク、トーマスマン、さらにはヘミングウェイも焚書の対象になった。マルクス、トロツキーは当然、障害者の著作であるとしてヘレン・ケラーもである。この時、アメリカでは、タイム誌が、これを「図書(ビブリオ)コースト」と呼び、ニューズ・ウィーク誌はユダヤ教において神前に備えられる焼かれた犠牲を意味する「ホロコースト」と読んで報道した。これが後にユダヤ人虐殺を指す言葉となるわけだ。

「本が焼かれたら、次に焼かれるのは人間である。」焚書に関するこの言葉は、ユダヤ人の血を引くドイツの詩人ハイネが1世紀も前に書いたものである。この言葉どおりになるのは8年後である。

…今日はなにより、ルターの文章に驚いた。私のルターのイメージは、カルヴァンよりはるかに温厚なものだったのだが…。当然、人権などという概念は近代のものだし、ルターが活躍した中世から近世では、支配層に属するルターにとっては、こういう感覚が普通だったのかもしれない。ハイネの言葉も深く心に残る。もう一度、書いておきたい。「本が焼かれたら、次に焼かれるのは人間である。」

2015年7月12日日曜日

野球部の一回戦を応援に行く

いよいよ野球部の夏の大会が始まった。本校の野球部は北摂の球場で府立S高校と1回戦を戦うことになった。昨日あたりから、日本列島は軒並み真夏日になっている。雨で順延にならなかったのは喜ばしいが、極めてストロングな日差しの中での観戦となった。すぐジーンズが熱くなった。♫アチチ・アチ~である。この球場は芝生の観覧席なので、まるでローストされているようだ。

試合が始まった。「今年のチームは昨年より打撃があかんのです。」と監督のI先生が言っていた。心配していたのだが、たしかにあかんようだ。ピッチャーは世界史を教えている普通科のA君である。1年生の時からレギュラーを勤めていただけあって、貫禄が出てきている。球も走っているようだ。私は野球には全くの素人だけど…。何度かピンチに見舞われるが、0点に抑えていく。A君は、先週の金曜日、必ず0点に抑えますと宣言してくれていた。凄い暑さのマウンド上で頑張っていた。しかし、こっちもチャンスをなかなか活かせない。結局、0対0のまま延長戦に突入した。

試合が動いたのは11回表。ついに本校が1点を入れた。そのまま満塁までいったので、これで試合が決まったと思ったのだが、三残塁。あちゃー。そして11回の裏である。ここは、A君に気を引き締めて頑張って欲しい。とろが、相手のS高校も必死だ。ヒットが出る。バントが決まる。さらにランナーが増える。一打逆転。かなり追い詰められたのだが、A君は最後の打者をセカンドゴロに討ち取ったのだった。セカンドは日本史演習で教えている体育科のキャプテンのK君だ。
チャンスだ。さーいくぞー。

試合後、球場外に出てきたA君と握手。「よう頑張った。」「ありがとうございます。」延長11回の長丁場、応援に声をからした背番号をもらえなかった3年生にも同様の声を掛ける。

いつも思うのだ。試合で頑張る者もいれば、ひたすら応援する者もいる。冷たいお茶を配るお母さんたち。写真を撮りまくるお父さんたちの姿もある。プレーに一喜一憂して野球部とともに応援に声をからす現役生やOBの姿もある。ここには、いつも青春の1ページがある。

こういう空間に、やはり私は少しでも身を置いていたいと思うのだ。

2015年7月11日土曜日

「ある憲兵の記録」を読むべきだ。

例の世界遺産の「強制労働」という問題で、また自民党内で、交渉にあたった外務省に対して強い批判が出ているようだ。私は、こういう感覚がよくわからない。これが、愛国心であるというのであれば、非常に感情的なものであると思う。政治家が感情だけで動くのはいかがなものか。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150710-00000545-san-pol

たしかに、日本人の美学から見れば、韓国の対応には違和感を感じる。だが、これが異文化理解というものだ。異文化理解の最大の敵は、自己正当化と異文化から学ぼうとしない姿勢であると私は思う。日本を覆う、危険な異文化「無」理解の暗雲を払うためにも、一昨日からのエントリーの続編を書こうと思う。古い朝日文庫の一冊。「ある憲兵の記録」の話である。

山形県出身の土屋さんという方が、軍に志願する。長男ではないので、言い方は悪いが口減らしのためである。憲兵になったのも給料がいいからだったという。土屋さんは、東北の人らしく生真面目で純朴な方であることがよくわかる。それが、満州での憲兵生活で一変する。未来のために自分の体験を語ったものである。

自らを鬼になったと土屋さんは述懐する。先輩憲兵の指導のもと、おそらくは無実の罪で連れてこらえた中国人を拷問にかける話が出てくる。当時は、様々な反日運動があり、それを摘発し撲滅するのが憲兵の役目だった。土屋氏も地元の顔役を部下として、不審人物を摘発した。生木(なまき)で、叩く。焼きごてを当てる。後ろ手で縛り吊るす。そして水責め。そもそも反日運動と関わりがない人を拷問するのだから、何も出てこない。拷問はエスカレートするだけである。結局、半死半生になった中国人を無罪釈放できなくなり、軍に送って日本刀の試し切りにすることになる。その最後を土屋氏も見たと書いている。こういう人びとが、731部隊のマルタとして、人体実験の犠牲になったことは容易に想像がつく。

…このようなコトを日本人は中国大陸や朝鮮半島やその他のアジア地域で行ってきた。他民族を人間扱いしない傲慢な姿勢。日本人の優秀さの裏側に潜む傲慢さ、それがアジアで様々な悲劇を生んできた。そういう事実を知った上で、日本はアジアで共生していかねばならないのである。

…異文化理解とは、綺麗事だけではない。日本の歴史認識は、「水に流す」「臭いものに蓋」「沈黙は金」といった、ジャパニーズ・スタンダードで、繭のように包まれていると私は思う。私も日本人のはしくれだから、日本が好きだ。だが、日本の過去については恥ずかしく思っている。

…愛国心とは、そういう日本の過去のマイナスの面を隠し、良い面ばかりを強調し、感情的に自己正当化することはではないだろう。

日本は確実におかしい方向に向かっている。アジアの人々の立場を正しく理解することこそ、アジアの人々との共生の未来を拓く道である。

2015年7月10日金曜日

吉村昭 「虱と爆弾」を読む。

昨日のエントリーと関係するのだけれど、平和学習や日本近現代史の中で、中国や朝鮮半島、他のアジア諸国で、日本が関わった反省すべき醜い行為についても、きちんと学ぶべきだと私は思っている。何事も「水に流す」ことを美徳と考える日本人の国民性には合わないけれど、アジア諸国と真摯に共生していくことを目指す地球市民には必要不可欠な歴史的な学習であると思う。

だいぶ前に「蚤(しらみ)と爆弾」(吉村昭・文春文庫/4月10日発行)という文庫本を手にとった。タイトルだけで、731石井部隊のことを書いた本だとわかった。中国・満州・ハルピン郊外で防疫給水を本来の任務としていた石井という軍医が中心になった細菌戦部隊が731部隊である。森村誠一の「悪魔の飽食」をはるか前に読んだ経験があるからである。この悪魔の飽食は、様々な毀誉褒貶のある本で、ここに書かれてあることが、どこまで事実なのか、極めて不明瞭になっている。この中で、ペストに感染した虱を陶器製の爆弾に入れて落とす計画の話が出てくるのだ。

著者の吉村昭氏は、この731部隊を「小説」として書いている。おそらくは、膨大な数の証言をもとに書かれた事実上のノンフィクションなのだが、あえて主人公を仮名とし、石井の名前も出していない。細かな人物名も全くと言っていいほど出てこない。悪魔の飽食の二の舞を避ける意図があると思う。731部隊の話は、今も極めて微妙な問題であるからだろう。

途中、長い長い日本初空襲の話が出てくる。どういう関係か訝しんだのだが、米空母が陸軍の爆撃機を搭載し、日本で爆撃した後中国軍の基地に着陸する計画だったという話であった。このことが、中国の基地攻撃に繋がり、本格的な細菌戦の実施に繋がるのである。ただし、虱入の陶器製爆弾は使われていない。これは対ソ戦に使用される可能性があったようだ。

悪魔の飽食が、主にマルタ(と呼ばれた中国人・ソ連人などの囚人)への人体実験を扱っているのに対し、この本では粛々と、時代背景とともに、731部隊の動きを総合的に追っている。著者の文体に奇妙な冷静さを感じるほどだ。

近々アウシュビッツに向かう身としては、改めて日本版SSの姿を再確認したかったわけである。ホロコーストは、決してヨーロッパだけで起こった惨劇ではない。戦争やナショナリズム、傲慢さが生み出す人間のもつ「業」のようなものの存在を再確認した次第。

2015年7月9日木曜日

朝日 政治的中立違反に罰則?

「やはり、出てきた。」という感じだ。モーニングで朝日新聞を読んでいたら、自民党の文部科学部会で、選挙権が18歳になったことを受けて主権者教育の提言をまとめたらしい。「政治的中立」から逸脱した高校教員に罰則を科すために政府に関連法の改正を求めたという。提言では、「教員の日々の指導や政治活動については、政府として政治的中立の確保を徹底すべきだ。」と指摘。学校現場では政治参加を促す教育をする際は、「教員個人の考え方や特定のイデオロギーを子供たちに押し付けるようなことがあってはならない。」と明記。WEB版にはないが、朝刊には、その罰則は、「懲役3年以下、100万円以下の罰金」とあった。

http://digital.asahi.com/articles/ASH725Q1SH72UTFK01C.html?_requesturl=articles%2FASH725Q1SH72UTFK01C.html

今回の18歳の選挙権、実は私は賛成ではなかった。その理由は、こういうコトが出てくるのではないか、という危惧があったからだ。公立高校の教員が、特定のイデオロギーを生徒に吹き込むような授業をしてはならないと私も思う。プロとして失格だと思う。だが、今回の提言でいう「中立性」とは何か、極めて曖昧である。結局、時の政治権力が主張することが「正義」である、それだけを教えろ、という奢りを強く感じてしまうのだ。

例えば、今回の日本の世界遺産への韓国の姿勢を授業で取り上げたとして、政治的中立というのは、どの辺なのだろう。韓国との50年前の日韓基本条約で締結されたこと、すなわち様々な保障はすでに国家間で決着済みという事が「正義」なのだろうか。だから、韓国の主張は非合理なのだろうか?政府が、国際情勢の変化を理由として安保法案を論じることが「正義」なら、50年前との日韓の関係の状況変化を見て判断することも「正義」であると言わねばならない。それが、社会科学的ロジックというものである。あらゆる問題において、社会科学は、複数の解答をもつ。人文科学的に見るとさらに多くの解答が生まれる。これが「政治的中立」だと確定するのは極めて難しい。

ちなみに私は非組合員である。政治を語る場合は、様々な意見を並立して、生徒に自分の意見をもつよう促している。ただし、私は定年を間近に控えるベテランである。(ちょっと傲慢な言い方で気が引けるが)様々な意見を並立させるだけの教養と実力を持っている。だが、全ての社会科教員に可能なことではない。大学を出たての若い人もいる。経済効率を優先されて講師という身分の人も多い。そんな高校の社会科教員に「政治的中立」を罰則(懲役3年、罰金100万円とはホント凄いな。)を盾に迫るというのは、いかがなものか。ただただ萎縮して、教材研究で様々な立場の本を読むことにブレーキがかかるだけのことではないか。そして教師の質の低下を増幅させるだけのことである。同じ与党の公明党が言うように、これまでの公務員の服務規程で十分である。

今の権力を握っているヒトビトは、そういう事もわからないのかと暗い気持ちになる。

今日の画像は、私たちの年代では必読の書だった本多勝一。いずれ、この本の内容を、たとえ並立的にでも政治経済で教えたら罰則が課せられるかもしれない。これって、夢ではないのか?まさか1940年代のワイマール共和国での話ではないよな、と思うのだ。

2015年7月8日水曜日

世界史Bの答案返却

今回の試験の主役の1人レオ10世 http://izquotes.com/quote/246803
夕刻の帰宅時間になって、近くの駅で人身事故があったようだ。私は京橋まで向かい、京阪で枚方市、バスで最寄駅までたどり着くという大迂回で帰宅した。ふう~である。

ところで、何度かエントリーしているが、今回の1学期期末考査の世界史Bは、範囲もいつもの2倍(重要事項をピックアップしているので単純に2倍ではないが…。)あって、なかなか骨のある問題だったと思う。だからこそ、生徒に提出させる試験対策プリントも気合を入れたのだった。前日に4時間も補習するはめになったし、こっちも全力で立ち向かったのだった。(6月30日付ブログ参照)

で、その結果だが、進学クラスの文Ⅰクラスは、90点台が続出した。平均85点というところ。おそらくは教員生活で最もクラス平均が高得点だったのではないか、と思う。大したものだ。当然だが、提出物のプリントの出来も良いし、授業態度もすこぶる良いので、最終評価をつけるにあたって嬉しい悲鳴である。今年の3年生は、ほんと文Ⅰクラスに優秀なメンバーが集結しているといってよい。一方、文Ⅱのクラスでも56点くらい。前回の中間試験が70点という好成績だったので、バランスを取ることが可能。文Ⅱのクラスでも1人か2人は90点超えの生徒がいる。これもまた嬉しい。

今日は、文Ⅰ・文Ⅱの2クラスで答案を返してから、久しぶりにエゴグラムをやってみた。なかなか好評だった。心理学にも大いに興味をもっているようである。知識欲を植え付けるのが社会科教師の大きな役割だと私は思う。

ところで、夏休みまで各クラスとも2時間くらいしかない。答案返却に1時間、もう1時間は、前から約束していたパワーポイント教材・「イスラエル考現学」をLL教室で見せる予定である。実際の世界史Bの開始は2学期に入ってからの方がスッキリするからだ。

2015年7月7日火曜日

毎日 MDGs最終報告書発表

http://blogs.ubc.ca/winniewoo/
毎日の夕刊に、国連が6日、MDGs(ミレニアム開発目標)の最終報告書を発表したとの記事が出ていた。今年の年賀状に書いたのだけれど、2015年はMDGsの文字通りゴールの年である。その報告書がついに出たわけだ。

10億人以上が極度の貧困(1日$1.25未満で生活)から脱したという。1990年では47%(19億2000万人)だったのが、15年には14%(8億3600万人)にまで減る見通し。目標(GOAL:1である。)の「半減」を大きく上回る成果を出すことになった。教育では、小学校の就学率が90年の80%から15年には91%に達した。飢餓人口に関しては90年~92年の23。3%から14~16年には12.9%にまで減ったが、「半減」目標にはわずかに及ばなかった。今も800万人が飢えに苦しんでいる。5歳未満の死亡率は、90年~00年で90人/1000人から、43人/1000人と5割以上減少したが、目標である1/3に減らすという目標は達成できなかった。

「ポスト2015」は「持続可能な開発」を重視し、環境やインフラ開発も含めた計17分野169項目が盛り込まれる見通しだという。

…ESDを実践し、開発経済学を学ぶ者として、とにもかくにもMDGsの意義は大きいと思う。ジェフリー・サックスは、この結果をどう分析しているのだろう、などど思うのだが、今日のエントリーは最終報告書が出た、という速報で終わっておきたい。

US 50州のGDP地図を見ながら

先日、奈良教育大学での講義のためにアフリカの資料を探していたら、思いがけず面白い資料を発見した。アメリカの50州のGDPを同等の他の国の国旗で表したものだ。こうしてみると、アメリカのGDPの巨大さがよくわかる。

カリフォルニア州はブラジル。テキサス州はオーストラリア、ニューヨーク州はスペイン、イリノイ州はサウジアラビア。この辺だけでも凄いなと思うわけだ。フロリダ州はオランダ、アラスカ州はルクセンブルグ、さらにスウェーデンと同じなのが、オハイオ州とニュージャージー州、フィンランドと同じなのがコネチカット州とルイジアナ州。さらにペンシルベニア州はスイス、メリーランド州は南アである。ワシントン州はオーストリア、オレゴン州はポルトガル、ネバダ州はハンガリー。コロラド州もシンガポールと同じである。

一方で、モンタナ州はガーナ、ワイオミング州はケニア、アーカンソー州はアンゴラと同じくらい。州のGDPの格差はかなり大きいわけだ。

この地図を見て、ヨーロッパ合衆国を目指したEUと比べてみる。EU全体としては、自由貿易や投資が進み、経済が活発化しており、今やEU全体として見た場合、GDPの総額でアメリカに肩を並べたという。ただしEUの中でもユーロを使わない国もある。なかなか意味深長である。

というのは、この共通通貨、なかなかの曲者だからである。ドイツのような国際的な比較優位をもつ国は、通貨を安く抑えられるので輸出には大いに有利である。しかし、ギリシアのように国内産業に比較優位のない国にとっては普通、自国通貨の切り下げで競争力を取り戻すのだが、共通通貨ではそうもいかない。

アメリカは、やはり国民国家として、国民的な資質(プロテスタンティム的な資本主義が普遍的真理である。)がまとまっているので格差があっても、そう大きな問題にはならないが、EUは南北ヨーロッパではで国民性があまりに違う。我々勤勉な国民性の日本としては、ギリシアの国民投票に理解が及ばないし、ドイツの苦悩に大いに同情するところだが、労働を奴隷のものとするギリシアの国民性は(ヨーロッパ諸国が尊敬するほど)長い伝統がありすぎる。この国民性の違いは、どうしようもないほどの壁となっている。

…うーん。やはり人は石垣、人は城なのだ。私はEUの再構築は必然のような気がする。

2015年7月6日月曜日

池上彰氏 経済学的「言論の自由」

http://defendinghistory.com/
lithuanian-supreme
-court-upholds-algirdas-
paleckis-guilty-
verdict-in-
freedom-of-speech
-trial-appeal-planned-to-
strasbourg/48682
日経、今日の朝刊の「池上彰の大岡山通信」でも、例の醜悪な言論の自由の問題が取り上げられていた。昨日の内田樹氏の論と対比してみると面白い。池上彰氏は、経済学的の観点から見る。まずは、その概要。
言論の自由が保証されている先進国の経済体制はいずれも資本主義経済であるから、そこに両者の親和性がある。自由なマーケットに任せれば、世の中はいい方向に進むという思想がある。言論の自由が保証されれば、自由闊達な議論が交わされ、人々はどの主張が優れているのか比較検討でき、その結果最も多くの人の心をつかんだ言論が、社会の主流になる。

高い視聴率が取れるTV番組は、それだけ視聴者に支持されているといえる。商品に置き換えると人気商品である、といえる。(ただし、「市場の失敗」と表現される、公共性の強い警察・消防・福祉などのサービスは、TVの世界ではNHKなどの公共放送が担っているといえる。)

自民党の勉強会での「気に食わないマスコミを懲らしめる」という発想は、自由なマーケットの力を信じていないということになる。安保法制を多くの国民が支持していたら批判報道している番組は次第に姿を消す。そうなっていないということは、これを国民に理解させることができていないことを意味する。要するに自分たちの力不足を棚に上げている。自らを省みるべきである。言論には言論で、それが自由なマーケットの力を信じる先進資本主義のルールである。

…なるほど。膝を打つほどの話ではないが、池上流の見事なロジックである。ただ、私は少し引っかかるのである。戦前、多くの新聞が販売部数を増やすために、蓑田胸喜や平泉澄のラディカルな主張を採用した過去だ。(14年1月28日付・2月19日付ブログ参照)これは、やたら中国や韓国を悪くいうことで販売部数を増やそうとする週刊誌の話ではない。普通の一般紙の話である。当時の民主主義的な練度と今を比較した場合は、はるかに差があるようにも思えるが、自由なマーケットの力を私は完全に信頼しているわけではない。

…池上彰氏より、内田樹氏の哲学的な視点を尊ぶのは、やはり私は社会科学ではなく人文科学の徒であるからか、などと自問するのだ。

ところで、同じ日経の「核心」に、芹川洋一論説委員長が、今回の安保法制について書いている。憲法学者が違憲だとしていることに関して、解釈変更に踏み出すお墨付きを与えた首相の諮問機関(安保法制懇)が国際政治学者だということが最大の論点。この両者のスタンスの違いと、国際政治学側のリアリズムを擁護していた。芹川氏ははっきり書いている。「いちばんのねらいは対中抑止力だ。」要するに、以前にも書いたが、もうこのグローバル化の中、新帝国主義では、戦争はできないのである。安保法制は、あくまでもブラフである。これも、なるほどと思った次第。

2015年7月5日日曜日

内田樹氏のHPより「言論の自由」

ノーマン・ロックウェル
言論の自由
週末から日曜日にかけて、その週にあったニュースの集約と総括をするたぐいの番組がいくつもある。こういう番組で何度も取り上げられ、私が最も醜悪なイメージを受けたのは、例の自民党本部で行われた勉強会で行われた発言に関わるものである。

「言論の自由」というコトバを権力者側がマスコミ批判の道具に使うという違和感。ドグマというか、傲慢なイメージでしか残らない。先週、内田樹先生が新聞紙上で、この件について胸のすくような批判を載せておられたのをふと思い出した。この時の記事を私は残しておかなかったのを悔やんたが、内田先生のHPで、ちょうど「言論の自由」について書かれていた。是非読んでいただきたい。

http://blog.tatsuru.com/

「言論の自由」とは、「私は私の言いたいことを言う。あなたはあなたの言いたいことを言う。その理非の判断はそれを聴くみなさんにお任せする。」ということであり、内田先生は、後半の「その理非の判断はそれを聴くみなさんにお任せする。」の条件、敬語で書かれ、理非を判断する方々を論争の当事者よりも上に置いていることが、最重要だと言われている。だから、「私の判断は正しいので、他人による理非の判断は不要である。」と考える人間は言論の自由について語る資格がない、というわけだ。

…「今、問題になっているのは国民の叡智に対する信認の拒否である。」との内田先生の批判に、、私の直感的な「ドクマ、傲慢というイメージ」の理論的な裏付けがなされたような気がした。

…今回の問題を含め、今の政府の法案には「ドグマ、傲慢」というイメージがどうしても離れない。この根源は、小選挙区制にあると私は思う。党が(選挙において)各議員の生殺与奪を握っているから、党の権力を握っている者に反対意見を述べることができなくなっている。実際、中選挙区制・派閥が跋扈した時代の自民党ではタカ派もいればハト派もいて、派閥領袖がその意を汲みながらガチャガチャやっていた。どこかのニュース番組で見たが、今自民党の中で正面切って安保法制に反対している議員が一人だけいるそうだ。表面的には党に服従していても彼に強いシンパシーを抱いている議員も多いという。中選挙区制の昔なら、こんなに簡単に、また強引に日本の国是を転換するような政策は打てなかっただろう。

…改めて内田先生の言論の自由の後半部「その理非の判断はそれを聴くみなさんにお任せする。」というコトバを噛み締めたい。傲慢な人間は醜悪である。

2015年7月4日土曜日

ポーランド行の日程表

ワルシャワ・クラクフ間の鉄道
http://4travel.jp/travelogue/10682071
ポーランド旅行の日程表が、旅行社から送られてきた。今回の旅は、ワルシャワとクラクフの2都市で3泊ずつ、もう少し詳しく言えば、ワルシャワで2泊した後、クラクフに鉄道で移動、3泊して、また鉄道でワルシャワに戻って1泊する日程である。今回の日程表で判明したのは、クラクフのホテル名と往復する鉄道の時間帯だ。

1日目は朝10:15に関空をルフトハンザで出る。フランクフルト経由でワルシャワ到着は18:00。おそらくエレサレムから先にヨーロッパに入っている息子夫婦とドッキングして、ワルシャワに入ることになるだろうと思う。現地通貨も彼らに頼む手筈だ。(空港は両替率で不利だからである。) ホテルにチェックインして、まあ、家族で久しぶりに食事というところか。ワルシャワは緯度が高いのでこの時期、夜は長そうだ。

2日目はワルシャワのフリータイムである。おそらく私の旅の習慣として、早朝ホテルの付近を一人で散策すると思う。その後はまだ未定なのだが、ルブリンという街に行く可能性が高い。鉄道で3時間弱かかる第7の都市だ。ここには、息子が行くことを所望しているマイダネク強制収容所博物館がある。焼却炉が唯一現存するところだというのだ。うーん、一気にディープになりそうだが、そもそも今回の旅、ホロコーストの学びの旅というか、巡礼のような旅なので、私も妻も異存はない。この案がつぶれたら、それはそれで博物館めぐりをしようかと思う。

3日目は9:50発の中央駅からの鉄道(2等座席指定)でクラクフに移動するようだ。12:42着である。昼からはクラクフの旧市街の観光になるかと思う。ホテルは旧市街にも駅にも近かった。クラクフの旧市街を見て回ることになるだろうと思う。クラクフは、ドイツの司令部が置かれていたので、WWⅡでも破壊されなかった世界遺産の街である。見所は多い。これも楽しみ。

4日目は、クラクフからオシフィエンチムまでの2等自由席往復切符でアウシュビッツ・ビルケナウ強制収容所に行く日である。14:00から日本人ガイドの中谷さんと待ち合わせをしている。およそ3時間の予定だ。だいぶ歩く事になるだろうと思う。なんといってもこの旅のメインイベントである。

5日目はクラクフでのフリータイム。おそらくクラクフの旧ユダヤ人街・カジミシュへ向かうと思う。シンドラーのリストの工場も近くにあるし。

6日目は、11:14発の鉄道でワルシャワに戻る。14:08着。さてさて、どうするか微妙な時間帯である。こういうコトを悩むのは楽しい。(笑)

7日目は、10:25、ワルシャワ空港発で帰国の途につく。関空到着は翌日8日目の朝7:20である。

ツアーで何から何まで決められて連れ回されるのはゴメンだ。ある程度の「行き当たりばっ旅」がいい。残る日々、体調を整えていかねば。もうそんなに若くはない。

内田樹 「最終講義」を読む。

文春文庫で内田樹先生の「最終講義」が出ていたので読んでみた。神戸女学院大学での「最終講義」、京大での「日本の人文科学に明日はあるか」など7編の講演が掲載されている。文庫本としては新刊なので、あまり詳しく紹介するのが憚れるのだえが、相変わらず鋭く、そして何度も膝を打つ内容である。これらの講義を一読しての、私の最も感じたコトだけを述べておきたい。

…内田樹先生の教育論は、極めて反商業主義的である。この立場は、全編に貫かれている。私も現在の学校教育は、公立も含めてビジネス化=等価交換の原則に支配されていることに改めて気づかされた。その最大の象徴は内田先生ご指摘のシラバスであろう。大学の講義の細目をパンフレット化したシラバス。実は公立高校にもそれは一般化してきている。生徒や保護者は、あらかじめ教育する側の商品価値を知った上で授業料を支払うカタチになっている。(公立高校でも、最近は無償化から、一歩進んでなにやら複雑な収入による段階的な制度になったらしい。)どちらにせよ、教育行政の考えていることは、内田先生の言われる「学ぶことのワクワク感」からどんどん遠くへ離れていこうとしている。シラバスを私は全面否定しないが、その授業、授業で生徒の基礎学力や向学心の雰囲気で進度は変化するのは教育現場の”あたりまえ”である。当然、無計画な授業などありえないが、教師側にも教えるワクワク感が必要だ。ビジネスライクに、授業料と等価交換するのが、教育ではない。

2015年7月3日金曜日

タンザニアに畳を送ろう 顛末記

本校の貴重な3枚の古畳
本校の柔道部OB(武道科1期生)でタンザニアに長く滞在されていたMさんから、「タンザニアに柔道の畳を送るプロジェクトに関わっています。母校にはそのような古い畳はないでしょうか。」というメールをいただいた。Mさんには、10月に人権講演をしていただくことになっている。ここは、Mさんのためにも、タンザニアの柔道界のためにも、ひと肌脱がねば…。

さっそく、柔道部のS先生にお伺いをたてたのだが、そのような畳はないそうである。あーあである。がっかりしていると、我が教務部長のH先生が、「講堂の3Fに30枚ほど畳があるじゃないですか。」と言い出した。そうだ、あそこに畳が30枚ほどあった。軽音楽部の機材置き場である。昨年、講堂の天井工事の際、武道科の生徒が舞台の方に移動してもらった後、戻してもらっているはずだと言う。教頭先生も、その処理に前の事務長が困っていたという話をしていただいた。どうやら、昔、校内合宿用に使っていたものらしい。今は校内合宿をしないので、まったく無用なのだという。

これはいける。タンザニアに畳を遅れる。校長室で、校長先生、現事務長に承諾をいただき、勇んで講堂の3Fに上がった。「?」「ない。たった3枚しかない。」どこかに移動したのだろうか。武道科の職員室に事情を聞きに行ったが、わからない。職員室に戻ったら、汗だくだった。

事情を知ってそうな方で残るは、軽音楽部の顧問のM先生と、前特別活動部長で今春転勤したF先生である。奇遇だが、私の隣席のS先生の奥様がF先生の転勤先で隣席だという。さっそくメールをしていただいた。

うーん。謎である。軽音楽部のM先生はご存知なかったが、残る3枚は自由に使ってくださいとのこと。その直後、S先生の携帯に奥様からメールが返ってきた。「すでに処分したそうです。」「ゲゲゲ~。」その直後、現事務長も私のもとにこられて、前事務長に連絡をとっていただいたら、すでに処分したという報告をしていただいた。こうして一気に謎が解けたのだった。校長先生にも報告した。

タンザニアに畳を送るという壮大なロマンは、結局3枚が限度になった。申し訳ないが、後はOBのMさんの判断に委ねるべくメールを送った次第。私としては、アフリカのために何かできないかと大騒ぎして大汗をかいた一日だった。(笑)

2015年7月2日木曜日

妻と「屋根の上のバイオリン弾き」

妻のポーランド行きを控えての学習は着実に進んでいる。先日も息子が注文し、途中まで読みながらイスラエルに送った「ホロコースト全史」をアマゾンで再注文。コツコツと読んでいる。同時にホロコーストやユダヤ人・ロマの人々に関わるDVDを借りては観ている。そのうち、いくつかは私も一緒に観るハメになるのだ。

ヒトラー。ニュルンベルグ裁判。この2つのDVDは上下もので長いが、それぞれ見ごたえもあった。昨日は、ミュージカルの名作「屋根の上のバイオリン弾き」だった。面白かったのは、これまで学んできたユダヤ教の知識が、さらにこの映画を面白く観させてくれたことである。大笑いしたのは、「奇跡の中の奇跡」という挿入歌。長女が貧しい仕立て屋との結婚を父親に認められ歌うのだが、ユダヤ教・旧約聖書に出てくる様々な奇跡の語彙が登場する。最後の奇跡の例は「マナ」だった。これは、出エジプト時に、カナンに戻るまでの長い間ユダヤ民族の食をささえた空から降ってくるパンのことである。テロップにある「マナ」だけでは解らない。

結婚式で男性が踊るシーンなど、イスラエル博物館で見た超正統派の展示にあったVTRのシーンを彷彿とさせるものだった。妻は、この踊りが大好きである。うーん、アシュケナジの伝統なのであろう。

一家が村を出る際、父親は入口にあるメズーザーを剥ぎ取る。これはユダヤ人の家庭やシナゴーグの玄関に斜めにつけられているものである。こういう発見が多々あったわけだ。

以前この物語(ミュージカルでない映画)は観たことがあるが、ユダヤ教理解が深まるとまた違った見方が出来ることがよく分かった次第。

2015年7月1日水曜日

奈良教育大学 ESD勉強会 準備

今月の20日に奈良教育大学で行われる学生企画活動支援事業の一環としての「ESD実践勉強会」に講師として行くことになった。先日から、少しずつ準備をしている。すでに「高校生のためのアフリカ開発経済学テキストv6.02」はメールで送付し印刷・配布の段取りをしているが、午前中に予定されている講座については、パワーポイントで行うことにした。

2時間くらいの講義では、到底全てを語ることは不可能である。そこで、午後に行うアクティビティアフリカSDゲーム2014を行うにあたって、必要不可欠な基礎知識に絞ることにした。まずは、アクティビティの罠の話。何故、私のESDは学問的な正確さにこだわるかという話である。(10年2月26日ブログ参照)ESDの「開発」を教えるにあたって開発経済学の必要性をまず説くつもりだ。次に何故アフリカなのか?そして、開発経済学の基礎をなすアジアの開発モデルを語る。アジアの開発の成功はアフリカには当てはまらない。同時にアフリカの貧困の原因を探り、現在のグローバル化の中でのアフリカの経済成長の謎を解いていく。

私は、パワーポイントではめったにアニメーション機能を使わないのだが、今回ばかりはそういう手間も厭わず挑戦してみようと思っている。(笑)