2015年8月30日日曜日

司馬遼「幕末のこと」を読む。

ちくま文庫の「幕末のこと 幕末明治論コレクション」(司馬遼太郎/関川夏央編)を読んだ。司馬遼の様々な幕末・明治論を集めたものだが、意外な発見がたくさんあって面白かった。その発見の断片を備忘録としてエントリーしておきたい。

土佐藩の上士について。山内家は、長宗我部の残党を恐れて、関ヶ原浪人を上方あたりで採用して24万石の人数をごっそり連れてきた。進駐軍のようなもので、後の革命のモメントになる。

長州藩は、瀬戸内海岸の干拓を続け幕末には実質100万石と言われた。その収入を持って換金性の高い殖産事業を起こし、ヨーロッパの産業国家のような観を呈していた。様式陸海軍をもち、京都での革命工作、戊辰戦争の戦費を賄ったうえで、まだ8万両を残していた。こういう競争の原理は、中国・朝鮮の専制政治(競争の原理を封殺するところに権力の安定を求める)にはないもので、日本は専制政治を輸入したが、結局のところ圧殺できなかったといえる。

乃木希典の師は、吉田松陰の叔父・玉木文之進であった。

新選組の組織は、統率者が局長の近藤勇だが、識者は副長の土方歳三。局長を神聖して上に置いて、現実に手を汚す指揮は副長が行い、その副長に助勤(昌平黌のシステムの名前らしく、山南敬助あたりが思いついたのかもしれないと司馬遼は言っている。)がつく。ヨーロッパ風の軍隊で言うと、副長が中隊長、助勤が中隊長付き将校で、小隊長でもある。オランダかフランスの中隊制度から学んでいる。何かあれば、副長が腹を切ればいいという日本的システムとヨーロッパのシステム、言葉は昌平黌からとっているところが面白い。しかも土方は、敵を倒すことよりも、味方の機能を精妙に、先鋭なものにしている。同時代やそれ以前にはない恐るべき組織感覚である。

井上薫(聞多)が英国から帰国し、遭難に合い、瀕死の重傷を追う。長州の医者二人は匙を投げるのだが、偶然この家に入ってきた美濃出身の所郁太郎に救われる。緒方洪庵に学んだ医師であった所は、長州内であれこれ奔走していた志士であった。ほどなく彼も病死し無名のまま終わる。

サンフランシスコの郊外に日本人墓地があり、咸臨丸で「火炊き」の峯吉(長崎の人)の墓がある。ここには”日本皇帝(将軍)の命によりこれを建てた。”と書かれている。これを建てた貿易商ブルックスは後サンフランシスコ領事になっている。一方、旧幕時代に渡米して、自分が知らぬままに奴隷で売られていた若き仙台藩士をブルックスは救っている。契約を破棄し、自由の身にした。その仙台藩士とは、高橋是清のことである。

アメリカの排日移民運動の歴史は古い。日露戦争が終わった翌年、サンフランシスコ大地震が起こり、日本から24万ドルの義援金が送られた。この額は全世界からの総額を上回っていたが、排日運動はやわらがなかった。それとこれとは別次元だったのだ。一方、関東大震災の時、アメリカは先の24万ドルの50倍の1200万ドルという多額の義援金を送ってきた。その翌年、排日移民法が制定されている。感情と経済は別、というアメリカの姿勢がうかがえる話である。

奈良(南大和)では、天領ゆえに四公六民(税率40%)であった。天誅組の話で出てきている。要するに、7万石くらいの行政機関でありながら、その軍事力は10人。(普通の藩なら1500人)だったのは、このような税制だったからである。現在の奈良の古寺が白壁に囲まれているのは、租税の安さの遺産だという。

薩摩藩は、その外交は投手交代しているようなものである。斉彬の下で西郷が動いた時代を経て、久光が主導し始めると攘夷ながら佐幕的傾向をもつ。薩会同盟(会津と同盟し、長州を京から追い出した)の時代である。その後西郷が復活して、薩長同盟となっている。試合途中で投手交代したようなカタチである。薩会同盟の会津側の代表は秋月悌二郎。決して外交向きの人ではないが、長く江戸・昌平黌に学び寄宿舎の舎長を務めた人物故、他藩にも顔がきいた故。薩摩側は高崎正風。西郷に嫌われ、宮内省の役人で終わっている。

日本人の心の二重性について。譜代の雄、彦根藩は、鳥羽伏見の戦いの前、極めて異例ながら大衆討議にかけた。上士以上は城に、下士は寺に計1万人を集め札入をする。徳川のために最後まで戦うと意見は3票しかなかったという。司馬遼は、もし鳥羽伏見の段階で全国の武士階級にアンケートをしたら、99%が薩長を主体とした京都政権を認めないと答えただろう。京都で天皇を擁している薩長政権を主体とする新政権が新しい時代をつくると思うかと尋ねたら「思います。」と答えただろうと言っている。どういう行動をとるかと聞いたら、沈黙したのではないか、とも。

…最後の日本人の心の二重性。極めて日本的である。この正義に対するあいまいさがもつ危険性が、今の大阪や日本全体に悪影響を与えているように私は思うのだ。

2015年8月29日土曜日

バスケの試合を見に行く。’15

久しぶりにバスケットボールの試合を見に行ってきた。朝潮橋の大阪市中央体育館、第三試合。負ければ引退の、3年生最後の大会である。本校と対戦するのは府立H高校であった。今年は、担任が開けたので部活を見にいくことが、少なくなってしまった。授業で教えている今年の3年体育科は、野球部とバスケットボール部が多い。せめて、と思って今日は行ってきた。すでに引退した野球部の生徒も応援にきていた。毎年のことだが、こういう連携がうれしい。女子生徒もたくさん応援に来ていて、「あら、センセー。」と何度も声をかけられた。(笑)結局我が学年のOB(G君・H君)の隣席で応援をしていた。彼らの解説(雑談だが…)が面白い。

試合の方は、本校が最初リードしていたのだが、途中で逆転を許し、膠着していた。かなりのロースコアの試合になっている。相手校は、まるでアイスホッケーのようにメンバーを5人ずつ頻繁に変えてくる。本校の消耗度が増して逆転されたといってよい。私はバスケットボールのフォーメーションは(サッカーほど)よくわからない。ただ、上手いかどうかくらいはわかる。4番の選手は、背番号が示すとおり、なかなか大したものだ。彼はほとんど出ずっぱりだった。

後半は適度に本校もメンバー交代(4番以外)をして、なんとか逆転した。そのまま少しずつ差を広げ、最後は64対50で勝利した。いやあ、よかった。ところで、野球部の方も、午前中に春季大会の1回戦が行われ、かのP学園相手に見事な逆転勝ちを収めたそうだ。本校の部活、夏を乗り越えてみんな頑張っているようだ。

2015年8月27日木曜日

日経 アフリカ経済に逆風

南ア ランド http://hot-fx.jp/fx-kihon/currency/zar/
中国の経済が減速して、世界同時株安が起こっている。投資家でも何でもない私にとっての気がかりはアフリカ諸国への影響である。しかも、原油安が長らく続いていて、これもアフリカにとって大きな驚異だ。いつか、アフリカの経済最新情報が出るのではないかと、待っていたのだが、今朝の日経で、少し大きな記事が出ていた。

中国経済の低迷が最も影響を与えているのが、南アである。4月~6月の実質GDPは1.3%減。5四半期ぶりにマイナス成長となった。中国をはじめとした資源需要の減によるものである。石炭や鉄鉱石が6.8%のマイナス。関連製造業も6.3%のマイナスとなっている。

原油価格の下落は、ナイジェリアなどの産油国を直撃している。財政状況が逼迫しているのだ。

この二重苦が、アフリカ諸国の通貨安を誘引している。南アのランドは24日に一時1$=14ランドまで下落した。インフレ率の上昇を抑えるため、南アの中央銀行は利上げを行ったが、さらに引き締めが必要だという。ナイジェリアやアンゴラなどでも通貨安が進んでいて、対策を打っているが、効果があるか疑わしいと、英調査会社キャピタル・エコノミストは報告している。

http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM26H4S_W5A820C1FF2000/

…そもそも脆弱なアフリカ各国の経済が、モロに中国経済と原油安の大波を被っているわけで、実に心配である。通貨安は、食料を輸入に頼っている国が多い中で死活問題となりかねない。グローバル経済の中で、最も脆弱なアフリカ諸国が受ける傷はどうしても大きくなる。市場は、非情である。人類はその市場にいつまで運命を委ねるのだろうかと、ふと不安になるのである。

2015年8月26日水曜日

毎日 ブルキナの初プロ野球選手

http://bb-nippon.com/ib/interview/978-intvw2012/6595-20130724no19
毎日新聞朝刊に、ブルキナファソ出身のプロ野球選手が生まれたというニュースが載っていた。
2013年3月16日付ブログで、同じく毎日新聞に練習生となったことを私はエントリーしている。その彼である。四国独立リーグの高知ファイテングドッグス。背番号34。サンホ・ラティシナ。やったなあ。
http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20150825-00000081-mai-base

おりしも、世界陸上を始め、アフリカの人々の活躍が目を見張る、凄い時代になっている。是非、頑張って欲しい。

私は、日本全国47都道府県で行ったことのない(自分の足で歩いていないという規定にすれば)ところは、山形県、島根県、沖縄県、そして高知県くらいである。こりゃあ、高知に行かなければならないなあと思った次第。もちろん、彼の試合のある時に行きたいと思う。

2015年8月25日火曜日

産経 内田樹/日本が謝る理由

産経の同WEBより
WEBで、内田樹先生の「日本は(韓国や中国に)謝り続けないければならないのか?」という疑問に答えるという面白い論が載っていた。意外にも産経新聞というフィールドである。その要旨はおよそ以下の通りである。

まずは、日本が戦争に負けすぎたこと。普通、損耗率30%くらいで、白旗を上げるものだが、日本の場合100%までいって、歴史上類のない負け方をしたこと。ついで、戦争責任の追求は、同じ国の人間がすることなのに、日本では敗戦を自己採点する帝国臣民はいなかった。外国に戦争責任を追及され、国民に軍国主義を罵倒されるという状態になる。

というのも、ドイツには反ナチ勢力がいてヒトラー暗殺を企てた。イタリアでもパルチザンがムッソリーニを処刑した。フランスもドゴールがいた。だから、ドイツはナチに、イタリアはファシストにフランスはヴィシー政権に、すべての「穢れ」を押し付けるということが可能だった。しかし、日本にはそういう勢力がなく、一億総懺悔(日本人全員がなんらかのカタチで加担したのだから、誰の責任でもないという話)するしかなかった。

中韓の謝罪要求が終わらないのは、高市早苗みたいに「私には責任はないけれど、文句言われてうすさいから賠償金を払う。」みたいな高飛車な態度を誰も「謝る」とは呼ばないからである。ドイツの大統領など、「ナチスがひどいことをしてすみません。」と70年間占領地の国民にひたすら謝り続けている。被害者もぼちぼち、許していいかという気分になりつつある。それくらい(謝るというのは)時間のかかる仕事である。ドイツの大統領もやっていることなんだから、文句を言わない。

…このところ、内田先生の話が多いが、いつもながら実にわかりやすい。この損耗率100%という俯瞰は、実に示唆的だ。また、ヨーロッパに存在した反政府勢力が日本に存在しなかったこと、これは多分に天皇制に関わってくる。いよいよ2学期が始まるのだが、日本史演習の教材つくりに大いに役立ったのだった。
http://www.sankei.com/gqjapan/news/141111/gqj1411110001-n1.html

2015年8月24日月曜日

波蘭ユダヤ民遺蹟巡礼 10

ビルケナウ絶滅収容所にて プラットホームのダヴィデの星
昨日のエントリーの続きである。難信難解ではあるが、内田樹先生の「私家版・ユダヤ文化論」の結論的な部分を記しておきたいと思う。それは、昨日の最後に記したユダヤ人を統合する”なにものか”とは何かという問いかけへの回答である。

ユダヤ人は言うまでもなく優秀である。ノーベル賞受賞者の統計だけ見ても、異常な数値である。ユダヤ人はどうしてこれほど知性的であるのか。内田先生の師・レヴィナスは、「ユダヤ人の例外的知性なるものは民族に固有の状況がユダヤ人に強いた思考習慣、つまり歴史的に構築された特性である。」(サルトルの社会構築主義)また「民族に固有の聖史的宿命ゆえに彼らが習得し、涵養せざるを得なかった特異な思考の仕方の効果である。」という指摘を退けている。

1933年から1945年にかけて、ユダヤ人は、完全に神に見捨てられるという例外的な経験をもった。「イザヤ書」53章に書かれてある通りのことが身に起きた。イスラエルは再び世界の宗教史の中心におのれの姿を見出した。反ユダヤ主義はユダヤ人をその「究極的な自己同一性」に召喚した。その点においてユダヤ人は「彼らのためにだけ取っておかれた特別の憎しみ」によって迫害された、ホロコーストはユダヤ人たちに忘れかけていた聖史的召喚を思い出せた。この受難をレヴィナスは、偶発的な災禍とは考えない。ユダヤ人がこの世界で果たすべき民族的な責務のゆえの必然である、そのためにユダヤ人は諸国民の中から選ばれたと考える。ユダヤ人は非ユダヤ人よりも世界の不幸について多くの責任を引き受けなければならない、神はそのためにユダヤ人を選ばれたのである。「ユダヤ的知性」は彼らの神のこの苛烈で理不尽な要求と関係がある。この不条理を引き受け、それを呑み込むために彼らはある種の知的成熟を余儀なくされたからである。

サルトル的な社会構築主義の立場をとるにせよ、レヴィナス的な「選び」の解釈をとるにせよ、ユダヤ人の側にはユダヤ人であることを主体的決意に基づいて選ぶ権利がなかったといえる。これが、ユダヤ人とはある種の「遅れの効果」だと言えるのである。これをレヴィナスの術語で言えば、始原の遅れという。そのつど遅れて世界に登場するもの、これこそユダヤ人の本質規定である。この覚知こそが「ユダヤ的知性」の起源である、というのが内田先生の結論である。(と思う。)

これ以上書いても、まさに難信難解。ホロコーストがなぜ起こったか?内田先生の結論は、レヴィナスのいう「ユダヤ人故の必然」ということになる。(と思う。)
http://toshiworks.asablo.jp/blog/cat/bible/
…長く、私は旧約のヨブ記の意味を考えていた。レヴィナスと内田先生は、ヨブは合理的に思考する近代人の祖先であるとする。(ヨブの)他者に対する友愛と有責性、人間の人間性を基礎づけるものをユダヤ教は「人間の始原における遅れ」から導き出そうとしている…。うーん。ここまでかな。

2015年8月23日日曜日

波蘭ユダヤ民遺蹟巡礼 9

ビルケナウ絶滅収容所にて
内田樹先生の「私家版・ユダヤ文化論」を読み終えて、少しばかり時間が経過した。私は、やがて作ることになるアウシュビッツ訪問を中心とした人権教育の教材に、これを活かそうとしている。だが、その結論をフツーの高校生に理解させるのは、難信難解である。うーん。と唸っているところ。

結論にいたる過程における議論、特にユダヤ人とは何か?という問いかけに関しては、なんとかなるかもしれない。今日のエントリーは、そのことに関して僭越ながら”私の私家版”的整理である。

前半部で、内田先生はユダヤ人は、国民名ではない。ユダヤ人は人種ではない。ユダヤ人はユダヤ教徒のことではない。という3点から、ユダヤ人という語を定義できないことを述べられている。そればかりか、そのユダヤ人という語の辞書的な語義(de'notation)とは別に、人々が暗黙のうちに了解している「裏の意味」(合意:conotation)=異教徒・神殺し・守銭奴・ブルジョワ・権力者・売国奴などの敵対的侮蔑的な合意が込められており、中立的・指示的な意味でユダヤ人という言葉を用いることはほとんど不可能である、と述べられている。

特にユダヤ人=ユダヤ教徒であることの否定に関して、内田先生は極めて示唆的な論を展開されている。

近代市民革命による「ユダヤ人開放」以後、かなりの数のユダヤ人がキリスト教に改宗したが、いかなる宗教を信じていようといまいと、ユダヤ人であることを止めることができなかったことを、ニュルンベルグ法とホロコーストは教えた。

ユダヤ人=ユダヤ教徒であったのは、近代以前までのことである。これは、ユダヤ人へのキリスト教への改宗の要求をユダヤ人が拒絶するたびに暴力が振るわれ、差別的な待遇を受け苦しんでいる事実そのものが、ユダヤ教徒には神の呪いが下っている動かぬ証拠と見てキリスト教の真理性を証明していると考えられてきた。

これは、フーコーが「狂気の歴史」で狂人の社会的機能について示した知見に通じている。狂人が中世の人間的な景色の中に親しみ深い姿で現れたのは、彼らが神の呪いの物的証拠だったからである。狂人も障害者も貧者も、正しい信仰を持たなかった者たちへの神の可視的表現とされ、逆説的に神聖なものとされた。それと同じロジックでキリスト教国内のユダヤ教徒の存在も正当化されてきた。

近代のユダヤ人開放は、狂人がその聖性を失う歴史的趨勢とほぼシンクロしている。啓蒙思想家は人権尊重の大義を掲げたが、ユダヤ人に公的にユダヤ教を放棄することを求めた。これは、ユダヤ人を統合している”なにものか”があり、それは近代市民社会の統治原則とは相容れないという理解である。近代市民社会の統治原則を根本的なところで損なう可能性のあるものをこの社会集団が有しているという漠然とした気分が、この「開放(の)ロジック」そのもののうちに漏出している。

ユダヤ人とは国民国家の構成員でも、人種でも、宗教共同体でもない事実、「ユダヤ人を否定しようとするもの」に媒介されて存在し続けていたこと…。

これら、ユダヤ人を統合する”なにものか”とは何か?ここからが内田先生の師・レヴィナスの論を用いてユダヤ人の本質に迫って来るのだが、前述のように、これが極めて難信難解なのである。…と、いうところで、今日はここまでにしておきたい。

2015年8月22日土曜日

高校生アフリカ貧困会議

高校生アフリカ貧困会議HPより
久しぶりに、WEBでアフリカ関連のニュースを探していたら、「高校生アフリカ貧困会議」という組織ができていて、ニジェールを支援している団体の代表を招いて7月26日に東京で第1回アフリカ会議を開催したという。
http://www.africa-news.jp/news_amQ04azhYY_483.html?right

48人の高校生が集まって、医療や教育、インフラなどをテーマに討論したらしい。

HPを見ていみると、昨年も5月にプレイベント、6月に本イベントを行っているようだ。なんと池上彰氏も基調講演をしている。なかなかの行動力だ。

私は、高校生が、アフリカの問題を真剣に考え、こういう集団をつくっていることを非常に嬉しく思うし、是非とも持続して欲しいと思う。と、いうのも、高校時代は3年間しかないし、その間の成長のスピードが早いので、学年によって全然理解力も行動力も違う。いくら優秀な学校の生徒でも1年生は1年生なのである。おそらく、こういう組織をつくった場合、主力は2年生になるだろうと思う。3年生はどうしても受験があって、力があっても発揮できる時間(せいぜい1学期)が短くなってしまう。この辺の連携が上手くいくかどうかが鍵である。この会議も、1学期に開催している。おそらく3年生がなんとか引張たんじゃないかなあと思う。問題は、その後である。2年生がどう引き継ぐかである。様々な学校の集合体であるし、いくら情報手段が便利になっているからといっても…。

是非、この「高校生貧困会議」継続して欲しい。大学や社会人となっても、なんらかのカタチでアフリカに関わって欲しい。なにより大事なことは、自分たちで地球市民となることに気づくような教育的空間をつくることだと思う。

http://www.i-m.co/APYC/APYC/%E3%83%9B%E3%83%BC%E3%83%A0.html

2015年8月21日金曜日

秋田商のホワイトボード

今朝、学校に行ったら、教務部長のH先生が「先生が応援していた秋田商業高校野球部が、話題ですよ。」と、タブレットを見せてくれた。宿泊していたホテルのホワイトボードに、お礼を寄せ書きしていて、それがツイッターに流れているようだ。
https://twitter.com/taise131/status/633547793404039168/photo/1

以前、このホテルにO先生を訪ねたことがあるが、毎日三食、メニューに変化を持たせてくれて、カゴの鳥の部員たちは大変喜んでいますという話を聞いた。スタッフの皆さんも、心から秋田商を応援していただけたのだろう。柳田国男的に言えば、そういう人間(じんかん)の「間柄」だったのだと思う。

だが、私から見れば、これはフツーの行為である。O先生(監督)にとっても同じだと思う。長い間お世話になったホテルのスタッフに、どういうカタチであれ、感謝の意を表するのは当然である。ホテルを去る際も、きっと全員が整列し、キャプテンが挨拶し、全員が深々と礼をしたはずだ。

この寄せ書きがツイッターに流れ、好意的に見られているのは、もちろん嬉しいが、私は両手を挙げて喜んでいるわけではない。今年の高校野球があまりにスター的な選手に注目が集まり、そういう報道が過熱したからこそ、公立高校である秋田商のフツーの高校生らしい行動が反対に目立ったのではないだろうか。

高校野球、甲子園出場とはいえ、結局のところ、教育の場である。O先生、そうですよね。

2015年8月20日木曜日

宮田珠己「旅するように読んだ本」

昨日エントリーした”ハチハンター”を、先日梅田で購入したのだが、その前に久しぶりにJ堂書店に寄ってみた。そこで面白そうな文庫本を物色したのだ。で、宮田珠巳の「旅するように読んだ本」(ちくま文庫/本年6月10日発行)が妙に気になって購入した。

というのも、先日読んだ西サハラのマラソンの本の中で、高野秀行氏と宮田珠己氏が友人関係にあることがわかった故でもある。宮田氏の極めて特殊な文体が私は好きで何冊か読んできた。宮田氏の書く紀行文の視点も、極めて特殊である。この本は、彼の「特殊」な視点から選んだ旅の本の目録である。高野氏との雑談の中で、どこへ旅したいか、2人の意見が一致したのは過去であったという。そういう意味もあって、時間を超越した旅という視点から、様々な歴史書の類も、このリストには入っている。全48冊。(各章で同じ著者や同類の本の紹介もされているので、それ以上の数であるが…。)

当然、”宮田珠巳ワールド”である。ほぼ読み終えたのだが、最初にリストアップされている「アボリジニの世界」が強烈な印象を私に与えた。ちょっと哲学的な内容だが、実に面白い。

アボリジニの世界には「時間」にあたる概念がないらしい。アボリジニの被験者に、5本のマッチ棒を3本と2本に分けた形で見せ、ここに何があるか?と問いかける。すると「3本と2本のマッチ棒がある。」と答えた。次に3本の方から1本とって、2本の方に足し、もう一度同じ質問をする。すると、アボリジニは「3本のマッチ棒が2組と2本のマッチ棒が2組、そして3本を作り出すマッチ棒が1本ある。」と答えたのだという。彼は、最初の状態と最後の状態の両方を同時に見ており、なおかつ、その変化を起こすマッチ棒の特性をも一緒に見ているのである。

すなわち、アボリジニは、世界の表層に現れている現状だけでなく、潜在的な状態をも一緒に見ているのである。そうすると世界がどう変わるかというと、たとえば子供が生まれてくる時に女性は、出産という役割に個人的な思い入れを抱かなくなる。すでに存在するおとになっている実体を運んだだけだ。さらに自分は何者かというアイデンティティの問題も、それは何らかの潜在的なものがあらかじめ仕込まれていているのだから、自分自身で考えてもしようがないことになる。

またアボリジニは、過去に何かが起こり、また今後何かが起こり得る場所として土地を見るから、時間より場所が重要になる。そこら中意味だらけの濃いスープのようなもしくは分厚い書物みたいな風景が出来上がる。実際アボリジニは風景に手を加えるのを嫌がる。子供がいたずらに石を蹴飛ばしただけで、元に戻せと怒られたりするらしい。そのせいで、アボリジニ社会には農業は起こりえない。

土地がある潜在力として把握されるなら、すでに原初の時間において世界は完成していたことになり、今起こっていることも、そうした潜在力が起動しているだけだと考えれる。この世界の始まりの時間がドリームタイム(アボリジニの文化を説明するときによく使われる。)なのだそうだ。

…私はアボリジニに会ったことがない。大阪在住のオーストラリア人の友人(白人)がいるのだが、彼は、アボリジニを忌み嫌っている。全く働かないし、何を考えているかわからないとボヤいていた。この文章を読んで、なんとなく、その謎が解けたような気がした。世界は面白い。(笑)

2015年8月19日水曜日

ハチの巣と共生できなかった我家

これを購入しました。
先日、ピアノの運搬の際に、我が家の駐車場の表側に直径10cmくらいの大きなハチの巣があることがわかった。ピアノの運搬スタッフがかなりビビっていたそうだ。

市役所に相談した妻から緊急メールがあって、甲子園の帰り道、梅田の薬局を5つくらい回って、ハチの巣を除去するスプレーを買い求めたのだった。噴射が届く範囲は10mだという。凄いな。

妻が言うには、夜、ハチが全部巣に帰ってから、巣をめがけて噴射すべし。少し間をおいてドドメをさすべし。(市役所の指示らしい。笑)

昔、3階のベランダにハチの巣が出来た時は、真昼間にフルフェイスのヘルメットを被り、完全防備で間近からスプレーして大騒ぎになったのだった。あの時は死ぬかと思ったのだ。

今回は、玄関の戸を少し開けて横から巣をめがけて噴射。そしてすぐ戸を閉める作戦である。なんといっても10mの威力である。「あしたのジョー」ではないが、「打つべし・打つべし・打つべし」。凄い噴霧である。なにやらパタパタという音がする。真っ暗の中で、巣をストレートに「打つべし」しているので、よくわからん。パタパタという音が怖くなって、玄関を閉めた。さらにパタパタという音が続いている。怖い。

1時間後、玄関の明かりをつけてみると、かなりの数のハチが落下していた。飛んでいるものはいない。さらにトドメの噴射。だが、すでに全滅していたようだ。

妻は、後ろでセコンド役。状況を見ようともしなかった。(笑)ハチのKOを確信した妻は、その後巣を落とすよう進言した。長い棒で落とす。ドキドキである。最後の最後に、巣に向かって残心の一撃を加える。税込で約1000円のスプレー缶も空っぽになったようだ。

殺生は好きではない。たとえ、害虫であっても。合掌してハチの成仏を祈る。自らの罪業消滅も祈る。ハチの死骸との巣の処理は、セコンドの妻が恐る恐る引き受けてくれた。

あれ以来、平和な日々が続いている。そもそも別にハチに攻撃されたわけではない。もし、ハチがこのスプレーの存在を認識できて、早めに引き上げてくれていたら、このような惨劇は起こらなかったはずだ。そもそも自宅は鳥獣保護区に近接している。共生できる方途はなかったのだろうか、などど、今の日本や世界を感じながら夢想するのだった。

2015年8月18日火曜日

毎日 内田樹氏戦後70年提言

復刊された本
毎日の昨日の夕刊に、内田樹氏のインタビューが掲載されていた。カントの「永遠平和論」復刊と、内田樹氏の主張に共通点を見出しての再登場ということである。

カントは、民主制と専制は矛盾しないと述べており、内田氏もわかりやすくこう述べている。「民主制では多数をとった政治家たちが、つまり相対多数派の政治家が自分たちに与えられた期限内に民意と離れたことでも平気でやれるという欠点がある。そのために憲法があり、異なる時期に選出基準を変えて選挙をする両院制があり、少数意見に配慮する努力目標とする工夫がある。」さらに、ワイマール憲法下のナチの例を挙げ、民主制は専制の対立概念ではないとしている。
また、カントが専制の対立概念としてあげている共和制とは、法の制定者と法の執行者が別のものであることを挙げ、議員数削減や参院無用論、首相公選制などは、専制へとずらす反共和的政策であるということがわかる、とも。

さらにカントは軍隊の存在を認めていたが、老子の「兵は不詳(縁起の悪いこと・不吉なこと)の器なり。」という言葉と同様、軍隊は必要だが、使ってはならないと教えている。
一方、武道家としても有名な内田氏は、人間の中には生得的な暴力衝動や攻撃衝動が存在するが、そういう邪悪なものをリリースする工夫が必要で、「戦いの訓練」は、それをどう制御するかという技術的な知を獲得するためのものと主張している。

結論的な部分では、内田氏は明快にこう述べている。国会答弁を聞いていると、語彙がやせ細っている。論理性も軽んじられている。ここの政治的立場を超えて学者が安保法案に反対する運動を行っているのは、政治的な正しさを求めているというより、この法案の内容も立法手続きにも論理と知性が欠如しているからである。論理と知性は学者の生存の基盤であり、これをここまで軽んじられては看過できない。ここまで反知性的な政治家はかつていなかった。その反知性主義は明らかに意図的なもので、首相は一種の全能感に酔いしれている。すなわち、憲法に違反し、歴代内閣の法解釈とも整合性がなく、国民の過半数が反対しているにもかかわらず法案を強行採決するーそれができる自分の全能感に酔いしれている。不合理な政策を実施し、国民を不幸にし、国民に憎悪されても、その地位が侵されないという事実が権力者に最大の全能感をもたらすのである。

…内田先生の論には、いつもながら感心する。私がおぼろげに感じていた様々な「断片」が、見事に構成されている。さて、今回は、アウシュビッツでガイドをしていただいた中谷さんが語られていた事を述べておきたい。
中谷さんは、アウシュビッツで多くのユダヤ人やポーランド人、ロマの人々、障害者などが殺害されたが、それは過ぎ去った歴史的事実ではない。今もなお、我々が同様の様々な悲劇に直面していることを、何度も「33%」という数字を挙げて語られていた。この33%は、1932年11月6日の選挙でのナチの得票率を表している。この後紆余曲折を経て、ヒトラーは首相になる。そして国会議事堂放火事件などの策謀を行い、全権委任法を成立させていくのである。33%しか得票できなかったナチが、その他大勢の(非積極的な・なんとなくの・あるいは無関心といえる)支持をえて、あのような悲劇が起こった、「その他大勢の人々の存在の怖さ」を訴えておられたのだ。これは、内田先生の言われる(政治家だけでなく、多くの日本人の)”反知性主義”に大いに繋がるものだと私は思う。

無関心であること。考えないこと。無批判な”その他大勢にならないこと”が、さらに常に世界を見て、様々な知を求め、真実を求めようとする精神こそが、今日本人に求められていると私は思う。

2015年8月17日月曜日

秋田商 準々決勝で敗退、でも…

5回裏 1点を返した瞬間
先ほど甲子園から帰ってきた。秋田商の80年ぶりのベスト8進出だったのだが、私立のS高校の前にベスト4を阻まれた。野球部の寮もなく、特別な推薦枠もなく、秋田市立という純然たる公立高校が、ここまで残ったことを褒め称えるべきだと私は思っている。秋田商は、ベスト8では唯一の公立校である。ほんと、よく頑張ってくれたと思う。

今日は、本校の秋田高校出身のI先生と共に甲子園に向かった。I先生は本校野球部の顧問でもある。秋田県人会だからと、私の分まで学校関係者の無料のチケットをGETしていただいた。私も今日で6回目、今年は3回目の応援である。県人会のチケットを頂いてもバチはあたらないかもしれない。応援の場所は、一塁アルプス、生徒応援団の真横に座った。今から思えば、I先生にとって見にくい席(攻撃時立って見るしかない。)だったので申し訳なく思っている。だが私としては生徒とともに、秋田に残っておられる英語のO先生の分身となって応援したかったのだった。

古豪の証 団旗手も頑張る
私の隣席に男子生徒がいた。タテに一人ずつ並んでいる。少し聞いてみた。彼らは、チアリーダーの盾の役らしい。(笑)チアリーダーは同好会組織なんだそうだ。昨日は結局、こちらに宿泊したとのこと。「誠一杯応援しいやあ。秋田商の応援3回目やから、くるりと回る(応援)歌も知っているから、遠慮せんと思い切りやりやあ。」と言うと「はい。」と純朴に答えてくれた。ものすごく感じがいい。だからこそ、秋田商を生徒の間近で共に応援したいのだ。

序盤は、昨日の疲れもあるだろうに、秋田商のエースN君は三者凡退を続けていた。だが、4回にソロホームランを打たれてしまう。うーん、さすがは私学。次の回、ついに疲労の溜まっているN君が捕まってしまう。無死満塁から3点を入れられた。しかし、その裏、秋田商も1点を返す。このねばり、諦めないのがいい。アルプスも大盛り上がりだ。しかし、6回もN君は打ち込まれ、一点献上。この時点で、10番をつけたS君についにマウンドを譲り、ライトへ。この回もなんとか最小得点で切り抜けた。I先生と「ふぅ~。」とため息をついた。

7回は、この試合で最も感動的な場面であった。S校の攻撃。三塁打を打たれ、犠牲フライがライトに上がったのだ。マウンドを譲ったN君が矢のような捕殺。アルプスもこれで息を吹き返した。秋田商の校歌斉唱から応援が始まる。(3回目なのでパターンがわかってきた。)その後「さぁいくぞ」の連呼である。二塁打も出たのだが、後一本が出ず、残念。しかし、8回からN君が再びマウンドに。二塁ゴロ、三振、三振。まだまだ秋田商は諦めない。9回にも1点を取られて、6対1。いよいよ最後の攻撃である。N君三振。「森のくまさん」と連呼された背番号13番も三振。絶体絶命から、秋田商の最後の踏ん張りが始まる。四球、ライト前安打、そして二塁打。1点が入り、悪送球で2点目。まだ三塁にランナーがいる。そして昨日3安打のキャプテンである。バットの芯で捉えた快音が響いた。これは完全にヒットだと思った。しかし、ピッチャーライナー。「あぁ~」というため息がアルプスを覆った。しかし、最後二死からの諦めない攻撃は見事だったし、N君は、ほんとに凄いピッチャーだったと思う。
O監督、N投手、キャプテン、そして全選手、陰のスタッフ、感動を本当にありがとう。
最後に、昨日の試合のことを書いておきたい。実は、秋田商の7回2死での攻撃中、キャプテンの打った打球は、センターとライトの間に飛び、相手校の外野手が接触プレーになったのだ。センターの選手は長い間立ち上がれなかったのである。チェンジとなって、秋田商の選手は守備についた。キャプテンは、自分の打った打球で接触したセンターのことを気にかけていたようで、彼が担架で運ばれる際、駆け寄って声をかけていた。何を言ったかはわからない。だが、彼の行動に、秋田商の野球の全てが出ていたと私は思うのだ。高校野球は、スター選手の活躍やどこからかマスコミが掘り出したプライバシーが商業主義的に大々的に語られるが、私は秋田商のキャプテンの姿に「教育」を見た。

もちろん、監督のO先生の指導の賜物だろう。O先生は私と志を共にしている。地球市民を育てることをライフワークしている国語の先生だ。野球部の監督として、秋田商OBの甲子園経験者としての顔ももっているが、同時にアフリカに秋田商の生徒をスタディツアーで送り込み、地球市民を育て、「共生」を説く教育者なのである。
秋田商のブラスバンド 本当にお疲れ様
またO先生の育てた生徒を甲子園で見たい。私はそう思っている。

秋田商業高校野球部の選手諸君、応援の生徒諸君、先生方、関係者の皆様、本当にありがとうございました。お疲れ様でした。英語のO先生、また甲子園で是非会いましょう。

2015年8月16日日曜日

秋田商凄いぞ ベスト8進出

さきほど甲子園から戻ってきた。秋田商の準々決勝である。今まで5回応援したが、最も感動的な試合だった。

5時台の電車で北新地へ向かった。甲子園に着いたのは7時前。ところが凄い人出である。お盆の最終日だし、日曜日だということもあるのだろう。やばいと思ったが、3塁側アルプスの入場券は比較的早く手に入った。しかし凄い人出であるということは、アルプスと言えど秋田商の応援をする人ばかりとは限らないということだ。高校野球自体を楽しむ人もいるだろうし、3塁側の後のチームの応援に来ている人(現に鳥羽高校の帽子を被っている高校生もいた。)もいるはずだ。それで、秋田商の応援席の間近に座ることにした。今回は赤い帽子の一般女子生徒は前回の半分ほど。いつもは生徒たちの後ろで応援している保護者の方々が前に来ておられた。その横に陣取る。前には、学校関係者。私の横には、秋田商OB。5回目の応援で、ついにど真ん中で応援である。やはり、一喜一憂を共有したいと思ったのだ。

試合は、1回表から先制されて、追う展開になった。相手は機動力が凄いと言われているT高校なので、かなり厳しい試合になると思っていた。しかし秋田商の打撃もなかなかのもので、2回には逆転。4回にもスクイズで1点追加した。攻撃時は、応援団の真っ只中なので、立ったまま応援である。得点シーンでの盛り上がりは凄い。周囲と同時に喜べるのが最高である。だんだんわかっていきたのだが、私の隣席はキャプテン、その後ろにはピッチャーのお母さんが応援されていて、なんか私も保護者の気持ちになって、応援歌に声を合わせ、拍手をし、一喜一憂するのだった。

このまま2点差で終われ!と捻じていたのだが、8回裏、大ピンチになる。なんと3連打を浴びたのだ。一気に同点にされ、さらに逆転?という状況だった。それをなんとかしのぎ、9回もやばかったのだが、なんとか延長戦に持ち込んだのだった。保護者の方々は延長戦に持ち込めた時点で、涙されていた。その気持ち、大いにわかる。一時はダメだとほとんどの人が思ったのだ。その直後、10回表に連打して、1点入ったときはもう大騒ぎである。
10回表、ついに再逆転 歓喜爆発のアルプス
10回裏も先頭打者が出て、ヒヤヒヤしたが、最後はキャプテンがセンターフライを好捕してゲームセットとなった。いやあ、涙、涙である。

聞くと、生徒諸君は昨日のヒル3時にバスで秋田を出発したそうだ。明日は、第三試合に対戦が組まれている。どうするのだろう。同業者としては、秋田商の先生方のご苦労が忍ばれる。

明日もなんとか補習をした後、甲子園に駆けつけようと思っている。

2015年8月15日土曜日

NHK ウガンダの石原さとみ

NHK HPから
NHKの番組で、石原さとみがウガンダのテラルネッサンスというNPOの少年兵社会復帰施設を訪れていた。ルフトハンザの機内で「風に立つライオン」を見たが、彼女は好演しており、アフリカの問題にも大いに興味を持ったらしい。私は彼女の熱心というほどではないが、ファンの1人である。

彼女のインタビューを終えた後の車内での最後の言葉が印象的だった。「キャパ・オーバー。」

極めて正直な言葉だと私は思う。少年兵、少女兵、そして元司令官。彼らにインタビューするたびに、無力さを痛感していく。世界の平和のためにな日本は何ができるのか…これがこの番組のテーマだ。

明石氏の発言で、最も犠牲者が多かったのは、南北戦争とスペイン内戦だというのがあった。大きな示唆を含んでいると思う。

特定の宗教をもたず、戦争をしてこなかった日本の国際協力は受け入れ易かったとイスラム教の指導者で、少年兵の社会復帰を応援している人物は語った。

日本の施設で学んだ少年兵は、木工の技術を他の貧しい人々に無償で伝え、人のためになれていることに幸せを感じていた。

またウガンダの旧紛争地域の病院を石原さとみは訪れ、看護の人々と共に働く中で、「対国ではなく、対人なら、なにかできる。」と感じる。

繁栄の孤島であってはならない、と緒方氏は語った。

…LIVEの討論は、日本の国際貢献のあり方に進む。結局地球市民を育てること、地球市民として生きることに帰結するように思える。まだ番組は終わってないのだけれど、明日の秋田商の応援のため早めに就寝しようと思う。

まとまりのないエントリーになってしまって申し訳なく思いますが…。

2015年8月14日金曜日

夏休み 補習三昧

http://www.nianw.com/zt/2011-7-7/ZT_389.htm
以前少し書いたが、ポーランドから帰国してから、毎日「倫理」の補習をしている。受講生はたった1人だけれど、理解力があるのでガンガン進む。そういえば、前任校でも、大阪教育大や府大などに送り込むため、たった1人を相手に補習していた。大人数クラスでやるのも悪くないが、こういう個人的な補習は効果が絶大で、いずれも合格させてきた。以来、倫理90点以上という神話が生まれたのだった。受験指導は受験指導で、やりがいがある。

8月初旬から始めて、(ヘブライズムはすでに世界史Bでやってあるので割愛)ギリシア哲学、大陸合理論とイギリス経験論、カント、ドイツ観念論、ヘーゲルという「西欧哲学の木」の幹をやってから、功利主義やコント、スペンサーなどの枝をやって、反理性的なマルクス主義、生の哲学(ショーペンハウエル・ニーチェ)、実存主義(キルケゴールからサルトルまで)といった上の葉を教えたあと、ヴィトゲンシュタイン、フランクフルト学派、構造主義、フーコーやドゥルーズ、デリダといったポスト構造主義まで午前・午後の連続講義で一気に教えた。今週からは午前のみに軽減。(英語の補習があるからである。)インド哲学から仏教、日本仏教史(鎌倉仏教まで)、さらに中国思想と進んできた。今日は孔子・孟子・荀子をやったので、来週は朱子、陽明学から始める。その後残るは日本思想である。

まずは、理解することが大事。記憶は11月以降でいいと言ってある。11月以降から問題集をやりながら記憶し、間違いを正していく。

今日の補習で、こんな設問をしてみた。孟子と荀子の相違、性善説と性悪説についてだが、ソクラテスやサルトルは性善説か性悪説かという問いかけだ。無知の知を説くソクラテスは、哲学の原点・ゼロに立っているがどちらかといえば性善説。実存は本質に先立つというサルトルも、同様本質は自らつくり、その可能性を信じているので性善説…。なかなかやるではないか。正解はないのだけれど、なかなか論理的である。

ところで、今日は4組のOBが訪ねてきた。公務員志望のK君である。試験に向けて、政経や世界史の復習をしてほしいとのこと。大筋を今一度語る。こういう大筋を語ることが、実に難しい。こちらの理解度が反対に試される。(笑)幸い、私の頭脳は細かい事項の羅列より、大筋をズバッと説くのに向いているようだ。

2015年8月13日木曜日

高野秀行 西サハラ・マラソン

高野秀行の「世にも奇妙なマラソン大会」(集英社文庫/14年4月発行)を読んだ。高野氏は「謎の独立国家ソマリランド」の著者である。また、この本を読んでわかったのだが、かの宮田珠己氏とも親密な関係らしい。今回は、かなり宮田珠己(タマキング)的表現が使われていて、笑える。私は、こういう作風が大好き。

現在モロッコが支配している西サハラ。ここで行われる国際マラソン大会に、高野氏が参加するのである。西サハラの情報は非常に少ない。難民キャンプは国内に5箇所あるそうだ。スマラという難民キャンプが舞台であるのだが、男性は多くが出稼ぎにいくことが多いらしく、女性がかなり前面に出てくるらしい。イスラム圏では極めて珍しい。

また元スペイン領だった故に、(政府がなにもしないので民間の)スペイン人がこういう西サハラ支援を目的にする活動には熱心であるらしい。個人的支援者が、(20万人の西サハラ人の中で)8000人ほどの子供をスペイン本土で何年か教育を受けさせてているらしい。スペイン人、なかなかやるのである。

一方で、バスク人も、このマラソン大会に多く参加している。この辺が面白い。バスク人は、西サハラの人々をアミーゴだと思っている。かつてのスペイン領土内で独立を目指していることに強いシンパシーを抱いているのだという。実際、このマラソンの優勝者はバスク人で、バスクのTV局のクルーも来ていたという。(笑)「サハラ・リブレ!」「バスク・リブレ!」と表彰式でバスク人は叫び、西サハラの人々と大いに大いに盛り上がったらしい。リブレとは「~に自由を」を意味するスペイン語で、独立のスローガンである。

久しぶりに、実に痛快なノンフィクションであった。

2015年8月12日水曜日

「名画の謎」ギリシャ神話篇

ポーランドに行く前、関空の書店で、「名画の謎」ギリシャ篇(中野京子著/文春文庫・本年7月10日発行)を買い求めた。まあ、ヨーロッパに行くのだから、というのが選んだ理由である。ルフトハンザの中でも、ホテルでもあまり読まなかったが、関空から帰りのバスで本格的に読んで以来、だいぶ前に読み終えた。今日は、その書評を書こうかと思う。

ギリシャ神話というのは、欧米の異文化理解では必須の学びである。この本は、ゼウス、ヴィーナス、アポロン、その他の神について、彼らにまつわる名画を1つか2つ上げつつ、詳しく論じている。これが読み出すと止まらない。

アトリビュート(人物を特定する持ち物)というものがあって、絵画にギリシャの神が描かれるとき、例えば、ゼウスなら鷲や雷、ヘラ(ゼウスの妃)なら、孔雀(ヘラの神殿で飼われている。百眼の巨人が退治された時、その目は全てヘラによって孔雀の羽に嵌められたという。)が近くに描かれていたりする。

私はこういうアトリビュートのような知識は面白い雑学の域を超えて、必須の教養だと考えている。ギリシャ神話は、ギリシャ哲学の源である。単なるおとぎ話ではない。比喩からロゴスへという流れから「哲学」が形成された。それ以上に、フーコーなどによって神話が研究されている現在、その存在の重要性は増すばかりだ。

昨今、国立大学で人文系の学部や学科が縮小される方向だという。国策で国立大学は、理系重視になるらしい。それを一概に批判する気はないが、哲学をもたない優秀な理系人間が開発する科学技術というのは怖い、と私は思う。

今回、どれか絵を選んで、どんな風に絵画を読み解くのかを書こう、あるいはアトリビュートの数々を並べたり、チェックした面白い逸話を書こうと思ったのが、つい人文学軽視への危惧になってしまった。(笑)今、日本は人文的な教養や余裕を失って、ありえない方向へと、どんどん向かっているように感じるのだ。

2015年8月11日火曜日

妻の腰痛と内田樹 ユダヤ文化論

先週くらいから、妻の腰痛がひどくなった。ポーランドでは元気だったのだが、帰国してホッとしたらしい。見ていても辛いくらいなので、このところ家事の一部を手伝うようにしている。ところで、我が家の1Fに書庫があるのだが、ピアノが置いてある。妻の友人から遥か昔に譲り受けたもので、息子が高校時代、熱心に練習していた。このピアノ、今夏中に返却することになったらしい。

となれば、急いで片付けなければならい。莫大な蔵書がピアノの運搬を阻害している。妻は腰痛という極限状態なので、私がやるしかないわけだ。先週の土曜日、妻の監督のもと、私が汗だくで整理した。いやあ、悲惨な暑さの中での肉体労働だった。

唯一の成果は、内田樹先生の「私家版ユダヤ文化論」を発見したことだ。息子の本だと思うが、すでに読んだらしい。ポーランド行の最終総括をエントリーするうえで、是非読んでおきたい。と、いうわけで、通勤時や、補習の後に、読書タイムを設定して、今日ほぼ読み終えた。

内田樹先生が「私家版」とされているだけあって、極めて冒険的な人文科学の新書であった。フーコーやラカン、フロイドなど現代哲学を駆使して、困難なユダヤ人論を展開してある。そのエントリーはもう少し寝かせてから…にしたいと思う。

2015年8月10日月曜日

秋田商、甲子園初戦突破なる

さきほど、甲子園から帰宅した。朝のうちは、倫理の補習をしてから、半休をとったのだ。三塁側アルプス席は、その前の試合が京都の鳥羽高校だったこともあって、なかなか販売されない。前から3番目に並んで待っていたのだが、チケットを買いアルプス席に上がった時には、もう試合は始まっていた。

今年の秋田商のアルプス席、赤い帽子の女子生徒が前回より増えている。約2倍というところ。しかも、これまで見なかった赤いユニフォーム姿のポンポン隊も。とはいえ、佐賀のR高校の方がやはり、はるかに応援団が多い。OBらしき壮年の方々の姿も目立った。これまでよりは、アルプス席が大いに盛り上がっていたのが嬉しい。

試合の方は、1回表から、良いといわれていたピッチャーのN君が、三振をガンガンとっていく。しかも1回裏に待望の1点が入った。前回は、結局ホームを踏むことがなかった秋田商だが、早々と点が入った。アルプス席は総立ちである。やったあ。

その後、牽制死やエラーなどもあって、硬直状態。5回には同点にされてしまった。緊迫した試合展開である。6回も7回も満塁までいきながら、結局点が入らずだった。アルプス席では、「さーいくぞー。」の連呼が続いたのだが…。しかし、8回ノーアウトで2・3塁。まさに三度目の正直である。ついに2点が入って、これまたアルプス総立ち。凄い盛り上がりだった。そして9回もN君が三振をバンバンとってゲームセット。見事に接戦をものにしたわけだ。

いやあ、行ってよかった。今年も監督のO先生との(甲子園に秋田商が出たら、応援に行くという)約束を果たせた。しかし英語科のO先生は、3年の学年主任としての責務があるらしく、今回もお会いできなかった。それが残念。(秋田商の先生にお伺いして事情を知りました。)

最後に秋田にバスでも戻る生徒たちの姿。ホントお疲れさん。でも、君たちは幸せ者だと、ちょっと野球が強い大阪の公立高校教師はつくづく思います。気をつけて無事帰ってください。

私が、秋田商を応援している理由については、2011年3月19日~21日のブログを参照ください。

2015年8月9日日曜日

ルフトハンザ航空の機内のこと

機内でみた Night at the Museum Ⅱ
今回のポーランド行は、ルフトハンザ航空を使わせてもらいました。私のパソコンには、Flightraderというソフトが入っています。世界中の航空機が飛んでいる状況がわかるという面白いソフトです。朝10:15にKIXを飛び立ち、岡山まで瀬戸内海を飛んでから北上、日本海を超え、ほんの少しですが、北朝鮮上空を飛行します。その後バイカル湖を横切り、ロシア上空をひたすら飛んで、バルト海経由フランクフルトへというルートです。

というわけで、飛行ルートを事前に知っていたのですが、ルフトハンザ機には、他のエンターテーメントを楽しんでいても、いつでも今の飛行状況に切り替え、現在位置を知ることができるようになっていました。しかも3D表示で楽しめます。時代はどんどん進んでいるなあ、という感を持ちました。

私はあまり、フライトではエンターテーメントで映画を見たりしないのですが、今回は往復の間に、「ひつじのショーン」(現在上映中らしい。)や「風に立つライオン」、「Night at the Museum」の三部作全てを見ました。

今回のポーランド行は、今はいなくなったユダヤの人々の遺跡巡りだったわけですが、「Night at the Museum」の第3作で、エジプト王と主人公のこんなやり取りがあったのです。「成功をこのエジプトの神に祈りなさい。」「いや、あの、私はアイルランドとユダヤ人の血を引いているので、遠慮しておきます。」…この映画を制作した20世紀FOXの創業者はユダヤ人です。(まあ、ハリウッド映画のほとんどといっていいと思いますが…。)こんなところに、アメリカのユダヤ人の痕跡がありました。

ちなみに、私はこの「Night at the Museum」シリーズでは、第2作が大いに気に入りました。ワシントンDCのスミソニアン博物館が舞台だからです。

ところで妻が機内でこう言い放ちました。「お父さん(私のことです。)は、これでビンゴしたんやなあ。私はまだや。」解説しますと、ビンゴとは世界のホロコースト関係の主要な博物館3つを意味しています。ワシントンDCのUSホロコースト博物館、エレサレムのホロコースト博物館(ヤド・ヴァシェム)、そして今回のアウシュビッツ・ビルケナウ収容所博物館を意味します。つまり、妻は、「次はワシントンのUSホロコースト博物館に行かねば。」と言っているわけです。(もちろん、ホロコースト関係の博物館は、これらが全てではありませんが…。)

、「Night at the MuseumⅡ」を見て、スミソニアンの航空宇宙博物館(3回行きました)もだいぶ模様替えしたようで、再訪してもいいなと思いました。「いいね。ワシントンDC。」「前行った時と、また違う見方ができるんとちゃう?」「そうやね。違うやろうね。」

ユダヤの人々がいなくなったが、遺品が豊富なポーランド。
ユダヤの人々が作った国だが、遺品がないイスラエル。
ユダヤの人々もいるし、遺品も残っているアメリカ。

USホロコースト博物館は、(ユダヤ世界のパワーバランスも含めて)人も遺品もあるという点でやはり、重要な位置を占めていると思います。強烈な展示物・展示方法に、とにかく疲れた思い出があります。アウシュビッツには、その凄みでは勝てないと思いますが…。「次は、アメリカか…。」と目を閉じたら、KIXに着いていました。

続 ワルシャワ街歩き DE 発見

ワルシャワ街歩きの続編です。ホテルで一休みしてから、また付近をあてもなく街歩きすることにしました。こういう海外での時間は、贅沢で、なかなかいいものです。発見したことを続けてみたいと思います。

■ポーランドの窓 ホテルの窓は、上の方には蝶番(ちょうつがい)がついていません。最初はそれは壊れているのだと思っていました。結局いつも閉めたままにしていたのですが、最終日になって、妻がその謎に気づいたのでした。
ホテルの近くの住宅街を歩いていて、窓ガラスが少し後ろに下がっているように見えるのが、ポーランド流の(少しだけ空気を入れ替えるための)開け方らしいのです。なるほど。網戸がないので、全開すると虫が入ってくるの可能性があるのですが、これなら…。(ポーランドはハエなどがかなり飛んでいます。)

■ポーランドの犬 ブラブラ歩いていたら、ある店の前でお客さんが出てきました。犬もいっしょです。ポーランドでは、犬にリードをつけていない人が多いので、その人の犬だと思ったのです。ところが、その犬、そのまま玄関に座ったまま。看板犬のお見送りのようでした。(笑)ポーランドの犬は、よく躾けられています。トラムや列車にもフツーに乗れるようで、慣れない私など大いにびっくりしました。もちろん吠えたりなんかしません。

ところで、翌日のワルシャワ空港で、大きなハスキー犬が、動物用のケージに入らないようでカウンターで、乗客とスタッフがメジャーを持って測りなおしたり、腕組みしたりと困っていました。その後のことはわかりませんが、(ヨーロッパでは)犬を連れて旅行することはフツーのことのようです。

クラクフのホテルで出会ったフィンランド人のおばさんも、犬を連れていました。グダンスクまで飛行機で来て、レンタカーで回っているそうです。後でホテルのインフォメーションを見てみると小さなペットはOKと書いてありました。

■ひまわりの種 ホテル近くのスーパーで、ひまわりの種というより、ひまわりがドンと売られていました。これにはびっくりしました。海外に出かけてスーパーで珍しいものを発見するのも楽しみのひとつです。初日に、球体でない、妙にぺちゃんこになった桃も発見して買いました。中身は桃そのものでした。(笑)

■自転車 自転車も市民権を得ています。自転車専用道路もありますし、これまたトラムや列車にも乗り込めます。ちょうど、ホテルの近くで、イベントが行われていました。有名な女性のコメディアンの寸劇があるらしく(珍しく英語で教えてくれた中年女性がいたのでわかりました。)、大勢の人が集まってきました。自転車をうまく椅子がわりにしている兄さんもいたりして、なかなか味わいがある空間でした。

2015年8月8日土曜日

ワルシャワ街歩き DE 発見

クラクフ駅 出発の列車案内 11:15発 5番ホーム
前述のように、マイダネク絶滅収容所に行くという強行日程は去け、ツアーの日程に従って、我が夫婦だけでワルシャワに列車で戻ることにしました。さすがに4日間歩き続けて、疲れたのです。3年前のイスラエル行でもよく歩きましたが、旅行期間が短く、休息日がとれなかったこと、なによりこの3年間で体力が衰えたことが最大の原因だと思います。

妻が言うには、「ワルシャワ中央駅から、表通りをさけながらブラブラ歩いて(1・2泊目に宿泊した)ホテルに戻ろう。何か発見があるかもしれへんで。」ということになりました。歩いて20分ほどの距離ですし、土地勘も残っていますので私も賛成しました。

■空き地に向かって立つイエス像 ふと見つけたのはこれです。近くまでいきましたが、そこには閉ざされた空き地のみ。実に不思議な光景です。
■Oishii Sushi 寿司レストラン ネーミングがすごい。オイシイ・スシ。ベタベタです。カフェ風に外で食事している人がいました。赤い毛氈がテーブルクロス。雰囲気は出ています。(笑)お寿司自体はカリフォルニアロール風。妻が「食べる?」と聞いたので「うーん。」と唸り、やめておきました。
■落書き ポーランドは、ワルシャワだけでなく、実に落書きが多いのです。ちょっとした壁に空白があると落書きがされています。社会主義から西側になって、一気にアメリカの真似をしたのではないか?そのシンボルのような気がします。中にはなかなか芸術的なものもあって、私は否定的に見ていません。ホテル近くのマーケットの向かいにあった落書きです。ワルシャワ初日に見て以来すっと気になっていました。(笑)

2015年8月7日金曜日

波蘭ユダヤ民遺蹟巡礼 8

夕暮れ迫る プワシュフ強制労働収容所跡
ポーランド、最後のユダヤ民遺跡巡礼は、息子の案内によるプワシュフ強制労働収容所跡でした。シンドラーの工場から少し離れた場所にあります。シンドラーは、ここに入れないよう、雇用していたユダヤ人を自分の工場内に収容所のような施設をつくり匿ったわけです。

強制労働収容所跡といっても、記念碑があるだけで、事情を知らないと(事実私は寸前まで知りませんでしたが…)芝生のちょっとした丘のある公園という感じです。当然、地球の歩き方などには載っていません。息子に言わせると、「ホロコーストの跡を回るというのは、こういう地味な場所を回ることなのだ。」ということでした。

この収容所、実は冷酷な殺人鬼のような所長のために、多くのユダヤ人が殺されています。毎朝彼は、ライフルで収容者を狙撃して楽しんでいました。彼の嗜好のために500人以上も死んでいるのです。アウシュビッツでもビルケナウでも、多くのユダヤ人が命を落としましたが、ここで所長のライフルで狙い撃ちされたユダヤ人たちには、違う種類の哀悼が必要な気がします。
記念碑
というのも、帰国してから今週はひたすらセンター倫理の補習を毎日5時間程度、個人授業でやってきました。センター試験では、最近フランクフルト学派がよく出題されます。その第1期の中心人物であるホルクハイマーは、アメリカへ亡命したユダヤ人で、「啓蒙の弁証法」「道具的理性批判へ向けて」などで、アドルノと共にナチの反ユダヤ主義を批判的に論じた人物です。今回、ポーランド行を終えて、その実感からか、今まで以上にうまくホルクハイマーのいう道具的理性を解説できたと思うのです。デカルト、そしてカント、フィフテ、シェリング、ヘーゲルと繋がる大陸合理論・ドイツ観念論の理性主義。理性の体系。ホルクハイマーは、この理性への信仰を断ち切るのです。すなわち、ナチによって、理性の批判的側面は失われ、与えられた職務を全うする手段としての理性(道具としての理性)に堕してしまったと説くのですのです。

SSの中央で組織的、かつ効率的なユダヤ人虐殺計画を練ったアイヒマンなどは、ホルクハイマーの言う道具的理性による職務遂行上の殺人者であるといえます。アウシュビッツのルドルフ・ヘス(イギリスに亡命したヘスとは同名ですが別人です。)所長も、道具的理性による職務遂行で殺人を指揮していたといえると思います。でないと、ガス室・焼却場の300mそばに家族との住居を構えれるはずがないと思うのです。(道具的理性によるものだからといって許されるものでは当然ありませんが…。)

ですが、このプワシュフ強制労働収容所の所長であったゲートは違います。道具的理性によるものではなく、単なる享楽による殺人であると私は思うのです。これは彼個人の異常な資質によるものなのでしょうか。
シンドラーの工場博物館にて SSの帽子の展示
人間をここまでに変える思想というものの怖さと、一般の人間が巻き込まれ道具的理性に操作されていく危うさを強く実感でき、フランクフルト学派を実感を伴って教えるようになれたことこそ、今回のポーランド行の最大の成果かもしれません。

2015年8月6日木曜日

波蘭ユダヤ民遺蹟巡礼 7

クラクフの旧市街の南にあるカジミエシュ地区のさらに川を超えた地区に、映画シンドラーの工場跡があります。ここは、現在博物館になっており、第4日目の午後、ここを訪れました。館外には、シントラー氏に救われたユダヤ人の写真が並べられています。ところが、入場券を求めようと館内に入ると長蛇の列です。チケットの販売はこんなに混んでいるのに一箇所だけ。しかも、入場料が(ポーランドにしては)かなり高いらしく、息子が「意外だ。」と言っていました。私も息子も、この博物館、小さくて、大したことがないだとうと踏んでいたのです。

ところが、どっこいでした。館内の通路は狭い(したがって入場制限が必要。長蛇の列の理由)のですが、展示の内容は素晴らしかったのです。シンドラーの工場としての展示は終わりの方に10%、ナチスの支配の展示がそれ以外で90%という感じでした。中でも、息子が早朝から1人で調査に行っていたクラクフ・ゲットーの詳しい展示もあって、私も大いに興奮気味で見学しました。メインの展示はシンドラーの社長室で、その前に製品の鍋がアクリルの壁の如きBOXに山積みでした。
しかも演出が凝っています。映像や照明、通路の足に伝わる感覚(ギシギシいう板張りやふわふわした布の通路などもありました。)など、非常に凝っているのです。料金の高さに途中で十分納得がいったのでした。ナチスの遺品もポーランドにはかなり残っているようです。貴重な本物を見る経験になりました。結局大満足の博物館であったわけです。
さらに、クラクフの現代美術館が併設されていて、アウシュビッツ関連芸術も展示されていました。これはかなりの噴飯物(とちらかというと、間違った慣用句の使い方の方)でした。上記の画像のレゴなどは信じられない作品です。(ちなみにレゴはポーランドで人気があるようで、レゴ・ショップがあちこちにあります。)やはり、アウシュビッツは、たとえ芸術という切り込み方でも十分な配慮が必要だと思います。
一方、別の展示場で、90歳をすぎた元収容者が、収容時代に入れられた刺青の収容者番号をもう一度はっきりとわかるように入れ直すというドキュメンタリー作品がVTRで展示されていました。作品名「90064」。凄い。今も目に焼き付いています。

2015年8月5日水曜日

波蘭ユダヤ民遺蹟巡礼 6

カジミエシュ地区の様子
クラクフの旧市街の南にあるカジミエシュ地区を歩いた4日目のことを今日はエントリーしようと思います。この地区は、何度かエントリーしているように、中世以来ユダヤ人を保護した関係で、自治が行われているほどのユダヤ人街でした。クラクフのWWⅡ前の人口は25万人。その約1/4、6万人がユダヤ人だったといいます。戦後、その10分の1ほどの人々が迫害・虐殺を逃れ、戻ってきたらしいのですが、結局イスラエルやアメリカに逃れてしまったらしいのです。
シナゴーグの内部(1・2)
この一度死んだ街が、「旧ユダヤ人街」として今は復活しています。街には、シナゴーグや博物館がいくつもあり、私はシナゴーグに入るのが大好きなので退屈しません。ただ、信仰活動の場というよりは、観光客の好奇の目に触れるために存在しているという感じです。シナゴーグ内に入るには、男性はキッパが必要です。(私はずっと「死海」が英語表記された野球帽を被っていましたのでせる必要はありませんでしたが。)この形式的なキッパが、なにかエンターテーメントの一演出のような気がしました。ここはユダヤ人のいない旧ユダヤ人街でしかないのです。
シナゴーグ内部(3・4)
3年前のイスラエル行でも、いくつかシナゴーグに入りましたが、ユダヤ人墓地には入っていません。オリーブ山で墓地の横の道は歩きましたが…。今回は、そのユダヤ人墓地にも入ることができました。と言うより、あるシナゴーグの追加エンターテーメントという感じでした。このユダヤ人のいない旧ユダヤ人街の感覚。正直、テーマパークのような感覚でした。
ユダヤ人墓地
ポーランドには、ユダヤ人はいなくなってしまっまったのに、古いアシュケナジの「物(建築も様々な宗教用具も)」はたくさん残っています。今はそれをポーランドの人びとが活かしてビジネスをしている。こう言ってしまうのは酷でしょうか。ただ、私自身は、ユダヤ教やユダヤ文化に大きな興味をもっていますので、こういう街の存在の意義を十分に認めたいと思います。