2015年12月31日木曜日

Dear Ukrainian follower

10月くらいから、ウクライナからの大量アクセスが続いていいる。いくつかの同じエントリーに、莫大なアクセスがなされている。ウクライナのフォロワーは、何を訴えようとしているのだろうか。実はずっと気になっている。

おそらくは、ロシアのプレモダン的な侵略に対し、国際的な喚起を促しているのだろうと思われる。もし、そういう意味合いで大量アクセスをしておられるのなら、年末最後のエントリーにあたって、是非コメントをして欲しいと思っている。英語ならなんとか解読できると思う。最後に、サバイバルイングリッシュでメッセージを書いておきたい。
Lily君、もし大きな間違いがあったら直してください。(笑)

Dear Ukrainian follower, thank you for reading my blog.
Why do you many access?
I think, you want rousepublic opinion for Ukraine.
In that case, I want you to write my blog's comment in English.

*Lily君に教えてもらった文章です。(23:13)
Why do you Ukrainian people access my blog so much? 
please leave comments below in English. I will be happy to reply to you. 

2015年12月30日水曜日

今年この1冊2015

今年も「今年この1冊」を選びたい。ただ、今年に関しては、現在読んでいる「貧困を救うテクノロジー」(2015年8月31日付発行)と「統計はウソをつく」(2015年8月30日付発行)の2冊を、来年度の対象に置いておきたいと考えている。情けないことに年末までに読破できなかったのが最大の原因だが、そうしておく必要があるほどの2冊だからである。特に、貧困を救うテクノロジーには、現在の”持続可能な開発”に関して大きな疑義が書かれている。まだ自分の中で整理ができていないほどの衝撃があって、新ゲーム制作にあたっても大きな壁となっている。この2冊はまだ、読んでいない、ということを確認した上で、本年の1冊を選びたいと思う。(えらくややこしい話だが…。)

今年は、夏のポーランド行をめぐって、ホロコースト関係、ならびにISに関する書籍をだいぶ読んだ。特に、「ホロコースト全史」(マイケル・ベーレンバウム/創元社)と内田樹「私家版ユダヤ文化論」は、なかなか読み応えがあり、11月の人権学習のPP教材のネタ本としても珍重した。

また、ISに関しては、中田考氏の「イスラーム 生と死と聖戦・集英社新書 2月17日発行」、「カリフ制再興 未完のプリジェクト、その歴史・理念・未来」(書心水/2月刊行)、「私はなぜイスラム教徒になったのか」(太田出版/5月25日発行)などを連続で読み込んだ。おかげで、日本最高峰のイスラム法学者の視点がおよそ掴めた。これは大きい。

一方で、佐藤優氏の「新・戦争論」「大世界史」など、内田樹先生の「最終講義」などおよそ、現在の日本におけるオピニオン・リーダーの考えは常に意識するようになった感がある。

とはいえ、今年の1冊は、やはりアフリカ本、それも開発経済学から選びたい。残念ながら昨年10月発行だが(環状線の外にある本校赴任以来、新刊情報が遅くなっていることは仕方がないということで、この件はあえて目をつぶって)、「現代アフリカ経済論」(北川勝彦・高橋基樹著・ミネルヴァ書房/昨年10月15日発行)を今年の1冊としたい。最新の情報を駆使し、これほど見事にアフリカの経済の現状と開発経済学上の集約をおこなっている日本語の書籍はないと思われる。本当にすばらしいテキストである。この本を乗り越えるとしたら、さらに新しい視点が必要になるだろう。それが、前述した2冊になるかもしれないというわけだ。

2015年12月29日火曜日

上田正樹のライブに行ってきた。

今日のライブ会場
梅田のライブハウスに、妻と上田正樹を聞きに行ってきた。11月の中之島公会堂で行われた「これが大阪!BLUES&SOUL 奇跡の軌跡! THE LIVE SHOW!」の時に、今日のチケットを購入していたのである。PM5:00に開場、PM6:00開演である。が、少し遅れて始まった。後で、キー坊の話によると、注文していた「うどん」が来るのが遅れたかららしい。(笑)

いつもながら、キー坊のブルースもソウルも素晴らしい。ドラムは五郎ちゃん、そして他も前回と同じメンバーである。バックも実に素晴らしい。Yoshie.Nさんというコーラスを担当する女性ソウルシンガーもホント素晴らしい。

今日のライブでは、キー坊の「哲学」が各所に見えていた。今年、亡くなった石田長生の曲をやったり、(途中で有山じゅんじが突如出てきて、共に歌ったのでびっくりした。キー坊にもサプライズだったらしい。)同じく亡くなったBBキングの曲をやったり…。あるいは、東日本大震災の人々を想い、海という童謡をソウルフルに歌ったり、故郷を亡くしてしまったフクシマの人々にケンタッキーホームを送ったり、そして最後の方に、亡くなった元サウストゥサウスのゆうちゃんの遺作となった曲を歌ったり…。アンコールでは、有山も登場して『梅田からナンバまで』を歌ってくれた。

面白かったのは、途中、前から2列目に座っていた私の2人横にいたオジサンが眠りこけてしまっていて、キー坊が気づいたのだ。(笑)会場も、キー坊のコメントで気がついた。何度もソウルフルな曲で起こそうとしたのだが、なかなか起きない。「ウェイクアップ」という、キー坊の声が曲の中に出てきて、会場は大爆笑になった。終わりの方に、起きてきたオジサンに「今年1年の労働ごくろうさまでした。」とキー坊が言ったので、会場がまた大爆笑に包まれたのだった。

キー坊は、来年アフリカに行って、R&Bをやりたいそうだ。私は、これには、思わず大拍手をしてしまった。個人的には極めて嬉しい。きっと受けると思う。

いやあ、いいコンサートだった。観客が歳をとっていて、もう踊りたくても踊れない状況は、前回の中之島公会堂と同じ。うーん、昔なら2時間立ったまま、踊り続けていたのだが…。

2015年12月28日月曜日

広河隆一「人間の戦場」を見る。

十三にある映画館・第七芸術劇場に、広河隆一氏の映画「人間の戦場」を見にいってきた。先日エントリーしたように、妻の付き添いなのだが、パレスチナ・チェルノブイリといった私も大いに興味をもっている地域を中心にジャーナリストとして活躍されている氏を追ったドキュメンタリーであるので楽しみにしていた。

タイトルの「人間の戦場」とは、広河氏が人間の尊厳が奪われている場所をこう呼んでいるところから来ている。広河氏の出発点は、早大卒業後に渡ったイスラエルのキブツである。60年安保世代で、社会主義的な集団農場・キブツに憧れたのだという。しかし、そのキブツの広大な農地に残された残骸が、パレスチナ人が住んでいた村であること知り、またパレスチナ人への過酷な人権侵害を知り、親パレスチナ・反シオニズムの立場に変わっていった。

映画もパレスチナから始まる。パレスチナ人たちが(おそらく入植地拡大に対して、安息日の礼拝後に)デモを行うシーンだ。14歳の少女の写真、(彼女はイスラエル軍の兵士が怖くて逃げたただけでテロリストの疑いを受け収監されているという)を持ち、パレスチナの旗を持ち20人ほどで、抗議の声を上げながら歩き出す。その先には、イスラエルの警察車両と数人の警官がいる。まるで、お約束ともいうように催涙弾を打ち出す。これを広河氏がガスマスクを付けながら、ニコンのシャッターを押しながら記録する。広河氏は、ジャーナリストの存在・その取材されることへの恐怖が、権力側に、そこを人間の戦場化することを躊躇させる効果がある、と言う。

しかし、広河氏は、ベイルートで、世界中のジャーナリストが集まっていながら、人間の戦場化(パレスチナ難民への大虐殺)を防げなかったことを今でも悔いている。ジャーナリストである前に、一人の人間として、目の前に溺れている人がいたらカメラを置いて助けるべきだと信じている。

だから、パレスチナの子どもの里親運動や、チェルノブイリ子ども基金(チェルノブイリの影響を今も受けている子どもたちを保養させる施設を運営、保養後20~30%も体内の被爆量が減少するらしい。)、沖縄球美(くみ)の里(フクシマで被爆したり、汚染された地域で暮らす子どもを沖縄の久米島に無料で呼んで保養させる運動)などの市民運動家としても活躍しているのである。

チェルノブイリへと向かう列車の中で、広河氏は、これだけ現地を取材しながら、当時、フクシマでは何もできなかったと嘆く。常に、自分に何ができるかを考え続けているのが、広河氏なのである。✖✖ドロボウ扱いされている復興担当大臣との格差はあまりに大きい。反知性的な政治家に、そんな覚悟があるのだろうか。

今年フクシマで、帰村が許可された地域の放射線量は、(同じ放射線量の)チェルノブイリの地域が今も廃墟のままであることもわかった。それでも、次から次へと子供たちへ被爆の負のスパイラルが続いていく。これが、真実であるらしい。

2015年12月27日日曜日

「構造的暴力」というコトバ

年末故に、本年の様々なニュースをもとに真面目に考察するTV番組もある。マスコミの品位を疑うようなバラエティ番組が多い中で、時折見ることがある。今朝もそういう番組があった。国際政治等にはまったく素人の俳優の司会者が、(素人ゆえにあまりに率直な)凄い質問をした。「ISを中心としたテロの原因は何ですか。(趣意)」そこに出演していた学者な評論家、ジャーナリストは、それなりの回答をしていた。

私なら、「構造的暴力」という一言で終わってしまうと思う。このコトバ、ノルウェイのガルトゥング氏が提唱したコトバで、国際政治学や平和学で使用される。、国際理解教育の世界でもわりと使われるコトバなのだが、まだまだメジャーではない。

そういえば、「持続可能」というコトバや、「ガバナンス」というコトバは最近メジャーになったような気がする。ずいぶん様々なメディアでもフツーに使われるようになった。おそらく「構造的暴力」も、そのうち使われるようになると思う。それと、「神定法」と「人定法」という概念も…。

あえて、「構造的暴力」の意味は、書かなかった。ブログを読んでいただいた方がそれぞれ調べられる方が広まると思うので…。

2015年12月26日土曜日

ベツレヘムの聖なる夜’15

http://echigo1978travel.seesaa.net/article/413008983.html
昨日だったと思うが、朝日新聞に、本来ならクリスマスで賑わう、イエス誕生の地ベツレヘムには、観光客がほとんどいないという記事が載っていた。

現在のテロが続くイスラエルの状況について最も信用できるのは「オリーブ山便り」であると私は思っている。「オリーブ山便り」によると、ギリシア正教やロシア正教のキリスト教の観光客がベツレヘムに来ていたようだ。ちなみに、正教会のクリスマスは1月7日だという。アラブ人にもキリスト教徒がいる。これは先年、ベツレヘムを訪れた時に知った。カトリックだけでなく、正教会の信徒もいて、彼らはイスラエル国籍をとって従軍している若者もいるらしい。一方で、パレスチナ=アラブのムスリムとキリスト教徒はうまく共存してきたらしい。同じパレスチナ人であるという意識が強く、クリスマスやラマダンの祝いの時は異教徒でありながら祝いに訪れ合うという。宗教対立だけが、今回のパレスチナ人による単独テロの理由ではなさそうだ。

生誕教会のミサには、アッバス議長が訪れている。アッバス議長は、極めてユダヤ史に詳しいインテリである。その政治姿勢も対立ではなく融和的である。しかし、今回の声明は少し違う。「ベツレヘムは18の違法なイスラエル人入植地に囲まれている。」として、人種差別の国、イスラエルが2国家案を破壊した、とイスラエルを非難。「イエスは全パレスチナのシンボルだ。パレスチナは、キリスト教が発症した地であることを誇りに思う。」と述べ、「ベツレヘムとエルサレムがキリスト教2000年の中で初めて分離されている。」「エルサレムを首都としないパレスチナ国家は有り得ない。」と述べた。

この100日間のテロで、イスラエル人の死者24人、重傷者24人。259人が負傷。治安部隊に射殺されたパレスチナ人は121人とされている。(12月24日現在)今回のテロの最大の原因は、いくらパレスチナのヨルダン川西岸が共存のために譲歩しても、我を押しと通すイスラエルのシオニズムにあるような気がする。(ムスリムとユダヤ教徒の)彼らの正義が「神」の定めた法にある故に、共存はかなり難しい、とも思う。

http://mtolive.blog.fc2.com/
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye2666575.html

ジンバブエの法定通貨に人民元

http://sky.ap.teacup.com/dalian4649/507.html
毎日新聞の朝刊に、来年からジンバブエの法定通貨として、中国の人民元が本格的に活用されることが決定されたという記事が載っていた。ジンバブエは、例のハイパーインフレに対して、自国通貨を廃止するという凄い方法をとった。かのジンバブエドルは消滅したわけだ。

現在は米ドル、あるいは南アのランドが使われているのだが、これに人民元も使えるようになるわけだ。通貨が全て人民元になる、というわけではない。この背景には、48億円相当の中国の債務放棄があって、その見返りとしての導入らしい。中国の観光客は、そのまま人民元が使え、流通を促進する、と言い、その人民元は中国への債務変換にも利用できるという皮算用だ。おそらく、これは大したことではない。それより重要なのは、人民元がアフリカの一国で法定通貨として認められた、という(極めて精神的な)事実だ。

ムガベ大統領としては、してやったりであろうと思う。法定通貨に加える、と言ったただけで48億円がチャラになったわけだ。習近平主席も、たかだが48億円で、法定通貨に人民元を入れた国を1つつくったわけで、安いものだと考えているだろう。さらにアフリカで第二・第三のジンバブエをつくろうとするだろう。私のカンでは、エチオピアあたりかなと思う。

ジンバブエは、白人の経済支配を無理してひっくり返し、失敗国家化した。旧宗主国イギリスとの関係は最悪である。中国としては、だからこそ付け入るスキがある。宗主国との関係が、それなりに残っている国、たとえば西あるいは中央アフリカの旧フランス領の国々は、みんなセーファーフラン圏である。こんなところには、なかなか人民元が入り込めないはずだ。一方、エチオピアは他の地域が植民地化された時も独立国であった。旧宗主国がいないわけで、携帯電話のアンテナをあのエチオピア高原に人海戦術で張り巡らした中国としては、次はエチオピア、と舌なめずりしているのではないだろうか。

2015年12月25日金曜日

最近の外国人は日本語が上手

「TV番付」という番組で日本を旅をするアイリス
最近、日本に来ている外国人を中心にしたTV番組が多い。外国人が見た日本のイイトコロやワルイトコロを聞いて、日本を再発見するような番組。我が家は、こういう番組が大好きでよく見るのだが、それにしても感じるのが、外国人の話す日本語能力の高さである。

日本語はかなり難しい言語だと私は思っているが、それにしても上手い。大阪に住んでいるとあまり外国人と合わないが、東京の山手線などに乗ると、かなり外国人が増えていることを実感する。私などは古い日本人なので、外国人=日本語がしゃべれないと決めつけているが、案外日本語がしゃべれるのかもしれない。(笑)

今年は、(サバイバル英語で)あまり外国人と話す機会がなかった。ポーランドでは、ホテルのカウンターのスタッフと話したくらいだった。フツーのポーランド人は私以上に英語を解さなかった。(笑)

今度、日本にいる外国人と話すときは、まず日本語で語りかけようかな。

2015年12月24日木曜日

本年最後の人権講演会

府立高校は今日が終業式らしいが、大阪市立の高校は明日が終業式である。不思議な話である。いくつかのクラブが公式戦らしく、明日公欠扱いなんだとか。ここ数年不思議なコトが起こっては、現場を苛立てさせている。

まあいいか。今日のエントリーは、人権教育の話である。HIVと人権・情報センターの方に来ていただいて、HIV・AIDSの話や性教育をしていただいた。例年1年生が対象なのだが、昨年は、講堂の天井板を外す工事(これも不思議なコトのひとつだ。)のために開催できなかった。それゆえ今回に限り2年生も対象である。

あっけらかーんとした性教育講話なので、生徒も最初は戸惑うのだが、今回もなかなか反応は、よかったと思う。講話後、アンケートをして、情報センターに送る100枚をチョイスしていたのだが、よく聞いているなと思った次第。これは、本校の生徒の姿勢云々というより、来ていただいた情報センターの4人の方々のお話の上手さだと思っている。

校長室で、お話を伺った。最近はHIV・AIDSを始めとした性教育への関心が、全体として薄れているのだという。様々な✖✖教育が次々と現れ、それをこなさなくては、と(小・中・高の)各学校が追いまくられているようだ、とのこと。なるほどと、私も思った次第。

今日の画像は、HIVと人権・情報センターが作られた漫画本全三冊から。もちろん、本校の保健室にもある。また来年もよろしくお願いします。

2015年12月23日水曜日

天皇誕生日に想う。

http://www.huffingtonpost.jp/2015/12/23/princess-kako-appears_n_8867082.html
陛下の82歳の誕生日である。陛下の記者会見全文を読むと、陛下がいかに先の大戦を我が痛みとされているか、平和を希求されているかがよくわかる。特に念願とされていたパラオ訪問について語られ、日本国民だけでなく、現地の方に大きな負担をかけていることなどにも触れられたり、民間人の犠牲にも触れられておられる。

「(戦争を知らない世代が)戦争の歴史を学び、今後の日本のあり方を考えることが極めて大切」と陛下が語られたことを、私は重く受け止めたい。陛下は、憲法上、政治的発言をされることはない。だが、このお言葉は、今年の日本を振り返って、陛下が感じられた戦後構築された平和への危機感を表現されたものだと思うのだ。まさにぎりぎりの思いを吐露されたのではないだろうか。

…戦争の歴史を学ぶということ、今年は特に世界史Bでドイツの全権委任法が民主主義のシステム上で成立したこと、ドイツ人の勤勉で、しかも従順な国民性と道具的理性がナチの独裁を許したことを教えた。現在の日本の状況、小選挙区制というシステム故に政権党の総裁に権力が集中しているコトは、当時のドイツと極めて似てきている。危険だ。

…反知性的なところもよく似ている。日本における戦争への道は、反知性的な「神国の物語」を信ずるだけの青年将校が、過激な発言を繰り返し、責任ある立場の者がそれを止めれず、誰も責任を取らない総無責任状態に陥ったことが大きいと私は思う。美しい日本?普通の国日本?✖✖ノミクス?そういう「物語」に紛らわされてはいけない。歴史は、そういう単純なプロパガンダに踊らされ続けてきた。政府の政治家の語る、おそるべき「反知性」を我々は大いに糾弾していかねばならない。

…陛下は、政治的発言をされることはない。誰よりも憲法を遵守される。たとえ、時の政権が憲法をないがしろにしても、である。陛下のお言葉には、そんな深い危惧があるように思う。

http://mainichi.jp/articles/20151223/k00/00m/040/131000c

2015年12月22日火曜日

広河隆一の映画「人間の戦場」

妻が突然、広河隆一氏の映画の話をしてきた。広河氏は、妻が大ファンである著名なジャーナリストである。TVで、ドキュメンタリー映画が上映されていることを知ったらしい。さっそくWEBで調べてみた。大阪では、今月26日から上映されるとのこと。十三の映画館である。

さっそく、妻がローソンチケットで前売り券を購入すると言い出した。おお、なかなか素早い。と、いうわけで先ほど近くのローソンまで車を出したのだった。もちろん、私も付き合うことにした。おそらく年内に見に行くことになると思う。

ドキュメンタリー映画は、夫婦ともども大好きである。昔、八尾に住んでいる頃、近くの西武百貨店で、夏休みのドキュメンタリー映画大会があって、朝から晩まで一週間ほど毎日見に行った。クーラーが強くて、二人とも見事に風邪を引いたのを覚えている。(笑)

<映画の紹介HP>http://www.ningen-no-senjyo.com/

森氏が言ったB案ではなかった。

国立競技場の設計案、正直なところ私はどっちでもいいのだが、気になっていたことがある。大会組織委員長の森喜朗氏が、仕切り直しのA案・B案が出た直後、さっそく「B案が(スマートで)いい。」と言っているニュース映像が映し出された。「どちらがいいと思いますか。」という質問に不用意に答えたものだと思われるが、私は唖然としたのだった。この人には常識や分別というものがないのではないか?こういう人物が、元首相であり、オリンピックの組織委員長でいいのか、と思ったのだ。反知性的な政府故に反知性的な人物が委員長になったようだ。

私のような者でも、立場上自分の意見を封印することがある。一昨年実施した修学旅行の行き先を決める時、担当だった私は自分の意見は言わなかった。ホントは私は行ったことがなかったので沖縄がよかったのだが、北海道に決まった。(笑)担当者としては当然のことだ。もし、あの場面で私が沖縄を推していたら沖縄になっていた可能性が高いと思う。これが、常識というか、分別ではないだろうか。

結局、A案となったようだ。もし、B案になっていたら、組織委員会からなんらかの圧力があったのではないかという疑念が生まれていたはずだ。あまり興味のないことだったのだが、よかった、よかったと私は胸を撫でたのだった。…今の日本、全く疲れるコトが多すぎる。

2015年12月21日月曜日

月刊アフリカニュースを読む。3

http://www.dailymail.co.uk
/news/article-1271848
/Woman-Italy-fined-43
0-wearing-burqa.html
15日付で、12月度の月刊アフリカニュースが配信されている。今回も、私が注目した内容についてエントリーしておきたいと思う。

■ブルンジでまた民族浄化の地獄絵図の再現か?
ブルンジの、フツ人エリートによる政府は、少数のツチ社会の根絶を示唆している。警察や武装集団が、反政府派、ジャーナリスト、人権擁護者等を逮捕していて、暗殺も毎夜のように起きていると国連人権機関が声明をだしている。「人々を動員し、命令を出す日が来るかもしれない。注意することだ」と、警告ともとれる発言をしている。ルワンダの悲劇から21年。国際社会は、何もできないのか。

■セネガルで、テロ対策のためブルカを禁止するらしい。
すでに、チャド、ガボン、コンゴ共和国、カメルーンでは婦人の目だけを出すグルカの着用を禁止している。セネガルは、比較的寛容なイスラム国であるセネガルでは、グルカ着用者は少数ながら、テロを取り締まるためにグルカを禁止。同時にシムカード(市民証?)やセルホン(携帯電話の番号?)などの登録を義務つけたという。

■ボコハラムは最悪のテロ組織
2014年ボコハラムは6665人を殺害、ISは6073人を殺害した。世界テロリズム指標によれば、2014年この両者による犠牲は世界中のテロの犠牲の51%を占めている。本年ボコハラムは既に5000人以上を殺害している。ナイジェリア北部、カメルーン、ニジェール、チャドなどの近隣の国々には避難民が大量に流れ込み、最貧国のこれらの国ではその負担が莫大であることが、完全に忘れ去られている。

…シリア難民がヨーロッパに向かって、大騒ぎになった今年。先進国の人々がISの犠牲になって大騒ぎになった今年。

ブルンジでは、また不穏な動きがあっても、全く報道されず、国際社会は、このまま悲劇を待つだけなのだろうか。ボコハラムの蛮行は、時々ニュースになるが、センセーショナルさが主で、現実の避難民と最貧国である隣国のことなどほとんど報道されない。

…報道においても大きな格差がある。報道こそ構造的暴力が顕になっている部分かもしれないと思うのだ。
http://www.africasociety.or.jp/africanews/africanews_no38.pdf

2015年12月20日日曜日

毎日 ロシア正教のスタンス

http://en.firenze-online.com
/visit/informations-florence
.php?id=8#.VnY10PmLTs0
毎日の国際面に、「我々は、西側のよそ者が書いた処方箋で生きるよう強要されてきた。」という、ロシア正教のスポークスマン的存在チャプリン神父の発言が載っていた。旧ソ連・ペレストロイカから30年という特集の第4回目、「政権を支える(ロシア)正教会」という記事である。発言の場は、親政権派のシンクタンクが開いた「西側諸国が展開する反露プロパガンダといかに戦うか」というシンポジウムである。彼は「イスラエルは反ユダヤ主義を絶対に許さない。反露主義者は背徳者であり、ロシア政府が厳しく罰するべきだ。」とも語った。9月末に、プーチン氏がシリア空爆に踏み切った際、ロシア正教トップのキリル総主教は「責任ある決断をした。」と述べ、祝福した。9000万人の国内外の信者をかかえているロシア正教は、プーチン政権を強く支えているわけだ。

日本では、この正教会(オーソドックス)のことはあまり認知されていない。基礎的なことを羅列すると、東ローマ帝国のキリスト教会が民族ごとに独立した教会である。ギリシア正教会やセルビア正教会というふうになり、ローマ=カトリックのように、唯一のイエスの一番弟子ペテロの後継者としての法皇(教皇)は認めないし、各民族教会は独立している。またローマ=カトリックと異なり、神の偶像(彫刻)は認めないが、絵画(イコン)は認められる。細かい話になるが、十字をきるのも順番が逆になる。ローマ=カトリックがラテン語と中世の共通語をもち、ヒエラルヒーをもった教会組織があって、西ヨーロッパの統合のベクトルを受け持ったのに対し、民族ごとに独立したオーソドックスでは、そういうベクトルは薄い。

ロシアは、もちろんヨーロッパの国の1つだが、西側(と呼ぶより、文化的・経済的先進地域だった西ヨーロッパ)に、押され、時に侵略されてきた。気候が厳しいという事情もあるし、オリエントな風土(ギリシア・ローマの民主制ではなく専制君主制に馴染んできた。)もある。その基盤において異質な大国なのである。ナポレオンにも、ヒトラーにも(結局は勝利したとはいえ)莫大な人的損害を受けた。ロシアでは、WWⅡを大祖国戦争と呼ぶ。先日読んだ、「チェルノブイリの祈り」の中でも、この時の戦争の記憶がいかに鮮明で、ロシアの人民にとって一大事であったかが、意外な程書かれていた。

『西側のよそ者が書いた処方箋』とは、西側との比較(民主主義・資本主義の進み具合を基準において)でロシアを理解するというコトであるだろう。この処方箋から見れば、ロシアは民主化にも、資本主義の深化においても今だ多くの問題が残されている。こういうロシアの反露主義に対する(プライドとコンプレックスが入り混じった)意識は、我々も十分理解しておくべきだとあらためて思うのだ。

ところで、同じ国際面に、ドイツ政府が18日までに、フェイスブックやGoogleと、ヘイトスピーチなどドイツで違法とされている書き込みの(可能な限りの)24時間以内の削除について合意したという記事が掲載されていた。気づいた利用者が報告できる仕組みを確保するらしい。WWⅡにおけるデマゴーグやプロパガンダへの反省からくるドイツの姿勢は、当然かもしれない。

このロシアとドイツの、国家というもの、民族というものに対する姿勢の大きな差異は、長い歴史的な背景を抱えているわけだ。世界史を学ぶ意義は、まさにこういう各国の理解の基盤となるところだろう。

2015年12月19日土曜日

ブラタモリ 日光を見る。

先週に続いて、ブラタモリの日光編を見た。先週は、日光東照宮を江戸のテーマパークになぞらえての内容で、なかなか興味深かった。東照宮は、家光の時代に、小さな墓を望んだ家康の遺言をたがえて、徳川幕府の威光を知らしむるために当時の最先端芸術で飾りまくっていた。眠り猫も見る角度によっては、飛びかかる寸前にも見えるという、意味ありげな彫刻だったりして面白い。

今日のテーマは、日光がNIKKOになった話。明治期に、イザベラ・バードという英国の女性冒険家が12日間も泊まった武家屋敷を訪れる。イザベラ・バードは、奥日光の中禅寺湖の絶景を世界に紹介し、大正期には、湖畔に40を超える外国人の別荘地が建てられている。ヨッtトレースも行われていたという。凄いな。全く知らなかった。

男体山の溶岩でせき止められた華厳の滝は、軽石層の関係で800mも後退し、1万数千年たった今が見頃らしい。さらに中禅寺湖の一段上に、湖だったところに火砕流が流れ込んでできた湿原・戦場ヶ原、さらにその上に湖があり、温泉があるという、東照宮のある街から見て四段構えの構造に日光はなっているのだった。

…昔々、小学生の頃、日光には行ったことがある。全く記憶から抜け落ちているけど…。

まさに見る角度によって違って見える深さが、ブラタモリという番組の魅力だと思う。

2015年12月18日金曜日

南ア ズマ大統領のドタバタ人事

http://www.newyorker.com/
magazine/2010/07/05
/the-third-man-7
日経の朝刊に、久しぶりにアフリカの記事が比較的大きく載っていた。ちょうど、アメリカFRBのゼロ金利政策の解除で、途上国から投資されたドルがどっと引き上がられるのではないかという懸念が一面を飾っていた中での国際面。

南アのズマ大統領がネネ財務大臣を解任した話だ。ネネ氏は、南ア経済の低成長の中、政府支出の削減に取り組んでいたのだが、地方選を控えたズマ大統領が、原発建設の促進や航空会社の救済など支出拡大を求め、対立したらしい。

その後任にデービッド・ファンルーエン氏を任命したのだが、知名度が低く、南アの財政はどうなるのか?という不安が一気に広まった。その結果、南アの通貨・ランドが6営業日連続落、国債相場も過去最大の下げ、銀行株も最もこの14年間で最大の値下げという、金融市場のトリプル安となったらしい。

この人事に批判が高まり、そこで、急遽、ネネ氏の前任財務相だったブラビン・ゴーダン氏が財務相に任命された。すると、市場は安心感を取り戻し、一気にランドは上昇。持ち直したのだという。

…ドタバタ人事を行ったズマ大統領の求心力は一気に低下したんだとか。そりゃあそうだ。ところで、このズマ大統領、ANCの中でも、名家出身のマンデラ大統領やイギリス留学経験のあるムベキ前大統領といったインテリではなく、「彼こそ本当のアフリカ人大統領」と言われる人物だそうだ。様々な過去をもつ豪傑らしい。まあ、中国で言えば、アヘン中毒で軍閥の長だった朱徳が主席になるようなものだろうか。という感想を私は抱いたのだった。

http://www.bloomberg.co.jp/news/123-NZ5II86KLVR401.html
http://jp.reuters.com/article/safrica-gordhan-idJPKBN0TX01020151214
http://www.newsweekjapan.jp/stories/2010/06/post-1348.php

2015年12月17日木曜日

RCサクセションのCOVERS

我が家では、音楽を聴くのは車の中くらいである。オーディオセットもないし、ウォークマンを持ち歩く習慣もないので、仕方がない。(そもそも電化製品の極めて少ない家なのだ。)このところ、車中で、よくかけるアルバムは、RC・サクセションの”COVERS”である。昔、息子がMDに録音していたものであるらしい。、なんと1988年の作品だ。ボブ・ディランの「風にふかれて」などの洋楽のカバー曲(歌詞の内容を変えて日本語になっている。)が収められている。

このアルバムは問題作中の問題作で、東芝EMIが発売を中止、キティーレコードから出たという忌野清志郎のロッカーとしての面目躍如たるものがある。詳しくは、ウィキで調べていただくと良いが、反原発や反核ソング、大韓航空機爆破事件を扱ったものまで、なかなか聴き応えのある曲が多い。

さらに面白いのは、多くのゲストが参加していること。忌野清志郎の意外な交友にも驚かされる。坂本冬美が演歌調に歌い上げるシークレット・エージェント・マンなど、なかなか凄い。(笑)

ふと、こんなことをエントリーしたくなったのだった。

2015年12月16日水曜日

12月なのに授業で汗だくになる。

http://airandspace.si.edu/collections
/artifact.cfm?object=nasm_A19600342000
暖冬、というより異常気象と言ったほうがいい。とても12月とは思えない日が続いているのだが、明日はいよいよ近畿でも初雪か?という天気予報が流れた。

私の方は、3年生の世界史Bで焦りながらWWⅡ以後の現代史を語っている。およそ各クラスは、残り8時間というところ。国際理解教育のアクティビティも1回くらいはやりたいので、6時間を目処に語っている。

特に優秀な1組は、みんなシーンとして集中して聞いてくれるので、つい力が入ってしまう。12月だというのに、Yシャツを半袖にして、タオルで汗を拭きながら授業をしてしまった。
原爆やロケット開発の話も現代史では重要な項目だと思っている。V2を開発したブラウン博士をアメリカがGETしたのだが、ロケット開発は彼の弟子たちを連れ去ったソ連に負けてしまう話をしていて、ワシントンDCのスミソニアン航空宇宙博物館に、そのV2の本物が展示されている話(今日の画像参照)にまで脱線してしまった。(笑)スプートニクは、国連本部に展示されていたりする。1組には外国語をやりたいという生徒も多い。こういう話を記憶していて、是非現地に行って欲しいものだ。

とはいえ、汗まみれで職員室に帰ると、他の先生方に不思議な目で見られる。まあ、当たり前やな、と思う。

2015年12月15日火曜日

「統計はウソをつく」を入手。

先日、エントリーした「貧困を救うテクノロジー」の画像を探していたら、(アマゾンの商業主義的かつ、極めておせっかいなCMによって)これは読まねばならないという本に出会った。「統計はウソをつく」(モルテン・イェルウェン著/青土社、本年8月10日発行)である。サブタイトルが、「アフリカ開発統計に隠された真実と現実」とある。

著者は、ノルウェー出身の経済史研究者で、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスで経済史の修士号・博士号を取得、現在はカナダのサイモン・フレーザー大学准教授だという。
博士論文のための調査でザンビアの統計局を訪れた際に「彼らは一体どうやって、これらの数字をひねりだてしたのか」という疑問から出発して、サブ=サハラ・アフリカ諸国の国民経済計算とGDP統計の検証を行い、「統計の数字はあてにならない」という答えをだす。(訳者あとがきより)

アマゾンを始め、WEBにおける次から次に押し寄せるCMの波にうんざりしていた私だが、この本との出会いに関しては、ちょっと感謝している。(笑)毎日新聞では、日曜日だったか、いよいよ「今年この3冊」が掲載された。まだまだ多くの人々の3冊が紹介されるはずだ。この本は、「貧困を救うテクノロジー」とともに、私にとって、突如として現れた「今年、この一冊」(毎年ブログ上でエントリーしている。)候補である。この二冊、ともかくも年内に読まねば。

2015年12月14日月曜日

熱音響システムって凄いな。

http://www.ed.u-tokai.ac.jp/thermoacoustic/
昨夕、「夢の扉」という番組で、東海大学の長谷川氏が、凄い技術を開発中であることを知った。熱エネルギーを音に変え、それを「熱音響エンジン」に結びつけると、冷却装置になったり、発電に利用できるそうだ。極めてシンプルな構造なのだが、その部品の厚みなどの詳細な設計は、極めて難しいらしい。今まで多くの人々が諦めたらしいのだが、長谷川氏が実現化に向けて着々と進めているそうな。完全文系の私には、難解だったが、ものすごく面白い原理であることはわかった。このエネルギー・プロジェクト、うまくいけば原発の代替となるかもしれない。そんな希望をもった次第。

ちょうど、COP21が、ようやく「パリ協定」を採択した。地球温暖化は待ったなしの課題だが、これまた非常に複雑である。私は、当然ながら途上国の側に立っている。これまで、先進国が、途上国のハシゴを外し続けて、今の豊かさを手に入れていることは自明の理。全ての国の最大公約数を見つけようとすれば、あのような玉虫色の協定にならざるを得ないと思う。だから、がっかりもしていないし、大きすぎる希望ももっていないと、いったところである。

それより、長谷川氏のような新しい技術に大いに期待したいと私は思う。原発の恐ろしさは、すでにチェルノブイリやフクシマが実証した。石炭などの化石燃料によるPM 2.5の恐ろしさも北京が実証している。誰が考えても、一刻も早くどうにかしなければならないわけだ。

ESD(持続可能な開発のための教育)には、環境問題も含まれている。これからも注視しなければと思ったりするのだ。

2015年12月13日日曜日

黒猫チューチューの再出発

うちにいた頃のチューチュー
10月に2週間預かっていた黒猫チューチューの新しい里親さんが見つかったようだ。お世話になったボランティアのOさんのHPの里親募集欄を時折見ては、心を痛めていたのだが、実に嬉しい。ほっとした。

もちろん、どんな方が新しい里親になられたのか知らないが、Oさんは慎重な方なので、きっと良い方に違いない。うちではうまくいかなかったが、きっと幸せになってくれるに違いない。

チューチュー、今度こそ幸せに。

2015年12月12日土曜日

「貧困を救うテクノロジー」入手。

先週、京橋に出たとき、K屋書店で「貧困を救うテクノロジー」(イアン・スマイリー著、イーストプレス/本年8月31日発行)を入手した。

期末考査の採点や何冊かの新書本を読んでいたの関係で、自宅に置きっぱなしになっていたのだが、今日あたりから読みだそうと思っている。もしかしたら、私のESDにも大きな影響を与えるかもしれない、と思っている。

この本は、貧困、援助、技術に関する本である。シューマッハーは、「政治の主な中味は経済であるし、経済学の主な中味は技術」と言っているそうだ。技術から見た開発経済学といった内容で、実に面白そうだ。目次を紹介しておきたい。

第1部 南北問題で繰り返される失敗
 第1章 開発援助の歴史と変遷
 第2章 発展途上国の貧困の実像
 第3章 先進国の成長戦略への過信
 第4章 第三セクターと第三世界
第2部 今、わかっていること
 第5章 技術の進化と移転の歴史
 第6章 成長戦略に代わる小さいことの価値
 第7章 農業、畜産と持続可能な技術
 第8章 収穫後の保存・加工技術
 第9章 エネルギーと電力の移転
 第10章 建築資材と中間技術、その普及と利益
 第11章 大量生産と過度な工業化の代替案
第3部 前に進むために何が必要か
 第12章 持続可能性、その虚構と現実
 第13章 女性と技術に関する展望
 第14章 雇用問題と非公式な産業
 第15章 グローバル化と適正技術
 第16章 技術を適正技術とするために

2015年12月11日金曜日

出張で「松鶴」と「米朝」

吉村氏の著作
おもしろそうな内容だ
久しぶりに、人権主担として出張に行ってきた。大阪市立高校教職員人権教育研修会である。人権関係の出張依頼はどんどん来る。これまで、後輩の先生方にできるだけ行ってもらってきたのだが、さすがに本年度最終の研修会くらいは顔を出さないといけない、と思ったわけだ。今日は、大阪市立大学の特別研究員の吉村智博氏の講演であった。お題は「近代大阪100年史における人権問題~部落と在日外国人~」であった。

15:30開始で、17:00が終了予定である。最初に挨拶があったりするので、事実上1時間強で、大阪における部落問題と在日韓国・朝鮮人問題を語れというのは、さすがに厳しい条件だ。吉村氏は、都市問題の歴史と部落問題の専門家故、こちらに絞って頂いた方が良かったのではないか、と私は思っている。実際、吉村氏も、かなり大変だったようだ。喋らねばと思うことがいっぱいあるのに、簡素に語らねばならないのは極めて苦痛である。私も世界史Bでそういう”しんどさ”を日常的に味わっている。

ところで、今日の講演で、吉村氏は意外な枕をふってこられた。六代目笑福亭松鶴の「らくだ」の落ちは、「ヒヤでいいからもう一杯。」だそうだ。このヒヤは火屋(火葬場)と冷酒をかけたもので、江戸時代に形成された大阪のインナーシティに、被差別民の仕事場が形成されたことを教えていただいた。また、初代桂米朝の「代書屋」の話も出てきて、当時大阪にきていた韓国・朝鮮の人々の渡航証明書を代書する部分を聞かせていただいた。彼らの言い回しを決して揶揄したりするわけではなく、淡々と写実的に語る人間国宝。ここの部分が後の韓国・朝鮮人問題における「法的な問題」の話に結びつくわけだ。

なかなか勉強になったのだが、できれば2回に分けて講演していただきたかったと思う次第。誠に申し訳ないと、主催者でもないのに謝りたい気分だった。

2015年12月10日木曜日

胸が痛い…離煙パイプ再び。

3年前に、離煙パイプを使って、禁煙に成功した。半年位やめれたのだが、仕事のストレスからまた喫煙を再開したのだった。今回は、ホント胸が痛くなってきたので、なんとかしなければならない。6mmを1本吸うと胸が痛くて堪らないほどなので、すでに6mmから1mmのタバコにしている。

離煙パイプは31本セットなのだが、今回はテキトーに12番くらいからスタートした。今日も昼食後、休憩時間に公園でパイプ付で喫煙したが、吸いたくて堪らないというほどではない。1番から始める必要もないだろうと思ったのだ。

離煙パイプは無理しなくていいところがいい。私に合っている。(笑)

2015年12月9日水曜日

ヒトラーに抵抗した人々を読む。

先日から「ヒトラーに抵抗した人々」(中公新書:對馬達雄著/本年11月25日発行)を読んでいる。だいぶ前、日本史演習の授業で、WWⅡでの日独伊の三国の相違を講じていて、日本では戦争遂行にあっていた軍部への批判的な直接行動(柔道家・木村政彦の師牛島辰熊の暗殺計画があったらしいが…。)はほとんど見られなかったが、イタリアでは、ムッソリーニがパルチザンの手によって逮捕され吊るされた。またナチス=ドイツでは、ヒトラー暗殺が実行されたが失敗に終わったことを教えた。そのあたりの事情を少し詳細に知りたかったのである。ほぼ読み終えかけだ時点で、どうしてこの本の中でエントリーしておきたいことがあった。それは、一昨日からのエントリーの延長線上にある「現代世界への不安」である。

ナチス=ドイツ下で、抵抗した市民には、白バラグループ、エミールおじさん、クライザウ・サークルなど、ホロコーストに反対し、ユダヤ人救援ネットワークを形成した組織があり、軍部の中でこれに呼応する貴族の将校たちも絡んでいる。ヒトラー暗殺の実際の動きは、最近映画になったゲオルグ・エルザーの事件、7月20日事件が挙げられる。だが、今日のエントリーで記しておきたいのは、このような歴史的事実ではない。

軍部と連携しながらクーデターを計画した知識人のグループ、クライザウ・サークルは、その後のドイツについて、真剣な討議が行われている。この『構想』の最大の特徴は、ワイマール政の復興を否定していることである。本来ワイマール民主政の支持者であった故にナチの台頭に反対したメンバーなのだが、人権と自由を放棄して熱狂してヒトラー独裁が受け入れられた事実を目の当たりにして深い幻滅を味わう。しかもナチ体制のもたらした同胞の精神的荒廃という事態が追い打ちをかけた故である。彼らは、民主主義のプログラムをもって戦後の再建を始めても、機能しないばかりか、第二のヒトラーが現れるという危険性を考慮していた。したがって、完全比例代表制の普通選挙を否定、地方自治の原則を前提に、町村や郡レベルは直接選挙だが、戸主の優先選挙権を認めたり、州議会選挙は間接選挙、国会議員も各州議会による間接選挙をとり、議院内閣制を想定していない。これは、形式的な民主政を排してドイツを段階的に再建しようとした案であった。この案が戦後の西ドイツのボン基本法へと繋がっていく。ヒトラーに全てを委ねるという全権委任法制定の意味が理解できないような広範な人民をただちに自分たちの政治的運命を変える議論に参加させられないと思ったからだという、西独のシンクタンクの専務理事の言もある。

現代史の中で、デモクラシーは、常に大衆煽動にさらされ容易に衆愚政治に陥るか独裁制さえ引き出す危険なもの、条件付きで有効に機能するものであると、クライザウ・サークルのメンバーは身を持って悟った。ここで言う条件つきとは、外形ではなく人間である。これについて戦後西独ケルン大学のハンス・ペーターズは、一言で述べている。『民主主義者なくして民主政治は存在しない。』

…こうして見ると、ドイツでは、ヨーロッパの社会類型で示される『(領邦国家以来権力をもっていた)自由な個人(である貴族や知識人階級)』が、「不自由な共同体(であった農民や労働者など一般国民)」のもつ政治的権利を再構築する必要があったというふうに受け取れる。ヨーロッパの近現代の民主政治史は、まさにこの階級の問題をいかに超克するかという課題を常に内在していた。ドイツは、やはり近代化が遅れ、手痛い大きな失敗をしてしまったといえるわけだ。

…同時に、WWⅡ以後西側諸国の覇者となったアメリカの国是「明白な天命」(自由と民主主義を世界に拡大する)には、当然ながら各国において、相当な時間が必要だという当たり前のことを強く再認識する必要があるということだ。民主主義は、ある意味、大きな危険が潜んでいる。アラブの春を軽率にも軍事的にも応援した欧米の選択を批判するジェフリー・サックス氏の批判は当然正しい。民主主義者なくして民主政治は存在しない。この言のもつ意味は深い。

…トランプ氏の超反知性的発言やフランスのFNの伸張、近代化の逆走など「現代世界の不安」をかかえながら、こんなコトをこのところ考えているのである。

2015年12月8日火曜日

世の不安を食べて成長するモノ

日経の今朝の朝刊の「春秋」に、こんな一節があった。「世の中の不安を食べて成長するモノはなーんだ?、こんなナゾナゾを出されたらどう答えよう。正解は、排外主義とポピュリズムだ。」春秋は、この後予想通りフランスの選挙結果の話、米国の大統領選の話へと続いていく。「21世紀が訪れたころ、こうも世界が変調をきたすとどれだけの人が想像できただろう。」

…まさにその通りだと思う。昨日のエントリーで、同じ日経に載っていたジェフリー・サックス氏のオピニオンについて記したが、その横に『止められるか「近代の逆走」』と出した芹川洋一論説委員長のコラム(核心)があった。私は、ISを領域国民国家に対抗するモノという視点で見ていることを何度か主張しているが、このコラムは、同じ視点で論じられていた。

その論旨は、上記の画像(新聞に載っていたものをPPで作成してみた。)のように、現代の世界を、近代国家論で3つに区分したもの(クーパーモデル)である。プレモダン(前近代)にISをおき、モダン(国民国家)に中国やロシアをおき、ポストモダンに、国の主権よりも人権、軍事力よりも相互信頼が尊重され、国という枠組みを超えていくEUをおく。

このクーパーモデルが逆走している、と芹沢氏は説く。ISに対するフランスの行動は、ポストモダンではなく、近代国家そのものである。今回の事件はポストモダンの範囲拡大に待ったをかけたかたちである。そもそも中東世界から見れば、サイクスピコ協定で勝手に国境線を引いたことに今日の混乱のおおもとがあるわけで、プレ・ポストの近代論など無縁の話でしかない、と。一方、近代国家からポストモダンへの挑戦がある。ロシアのウクライナ介入、クリミア併合がそれにあたる。東アジアでも中国の南沙諸島問題。漢王朝時代の支配権を持ち出す中国の動きは、1648年のウェストファリア条約以前のプレの世界に放り込む動きともいえる。

現代は、この3つの世界が併存している。ポストモダン国家は再近代化し、近代国家は近代秩序からはみ出そうとし、プレ近代は国際秩序そのものを否定する、これを常態と見てニューモダン(新しい近代)と名づけてもいいのではないか。上手く管理し、近代の逆走を止めることを考えないと無秩序の淵に追いやられる。これが、芹沢氏の結論である。

…このニューモダンの不安が、排外主義とポピュリズムとなり、近代を逆走させているわけだ。今日の春秋のナゾナゾの最終回答は、昨日のこの『核心』の中にある。

http://www.nikkei.com/article/DGXKZO94887170Y5A201C1MM8000/

2015年12月7日月曜日

日経 ジェフリー・サックスの意見

http://millenniumpromise.jp/blog-archives/page/6
日経の朝刊に、コロンビア大学教授のジェフリー・サックス氏の「中東の混乱、欧米に責任」という意見(グローバル・オピニオン)が載っていた。世界的な開発経済学者である氏の意見は、極めて直載的であった。

氏は、民間人に対するテロ攻撃は人道に対する犯罪である、ISは何としても阻止しなければならない。と大前提を述べたあとで、このISの勢力拡大は欧米、特に米国に大きな責任がある。テロのリスク低下のために、欧米が中東政策を変更するしかないと述べている。

1970年以降CIAは旧ソ連をアフガニスタンから追放するため多国籍のイスラム・スンニ派戦闘部隊「ムジャヒディン」を組織した。この時の戦闘部隊とそのイデオロギーが、今でもISを含むスンニ派の過激武装勢力の基礎になっているからだ。さらに、リビアのカダフィ政権の打倒、エジプトの(アラブの春後、選挙で選ばれた)ムスリム同胞団の政府を追放、さらにシリア内戦と、こうした作戦が中東の安定を破壊したと言わねばならない。

氏の中東政策提言。第1ステップはオバマ大統領がCIAの中東での策動を中止させること。第2は、国連の安保理常任理事国が、内輪もめをやめシリア和平の枠組みを確立させること。反アサド勢力による闘争の即刻停止と停戦、米国ではなく国連が主導するシリアの政権移行と暴力によらない政治の再建。第3は、持続可能な開発。中東においては、戦争だけでなく、淡水不足、砂漠化、若者の高い失業率、劣悪な教育システムなど深刻化する開発の失敗に再挑戦するべきだ。

…ジェフリー・サックス氏の「貧困の終焉」を読んで久しい。アメリカの開発経済学者らしいプラグマティックな楽天主義で、2025年までに貧困を撲滅するための様々な方途を示した本である。若干リアリティにかける内容も多いように感じたのだが、言っていることは正しい。私の氏への感想は、今回も変わらない。共和党の大統領選を戦っているトランプ氏が聞いたら、売国奴と罵るかも知れない意見だが、反知性的政治が世界を覆う中、世界市民の代表として、言ってくれたよなあ、と私は感じるのだ。

2015年12月6日日曜日

教え子がとなりの人間国宝さん

http://sutakorasacchan.com/post-2849/
先ほど、TVを見ていたら、「よ~い、ドン」の日曜版で今週の「となりの人間国宝さん」の第二位に、教え子の名前が出ていた。ちょうど、風呂に入っていて見逃してしまったのだが、間違いなく私が工業高校時代に3年間担任をした教え子である。珍しい名前(風如:かぜとしと読むが、ふうにょとみんなで呼んでいた。)なので間違いない。気のいい奴で可愛がっていた。たしか、文化祭の時つくった「六角ボルトブルース」というビデオで、最後にG先生に追いかけられる役をしていたはずだ。

WEBで確認してみたら、目覚ましテレビや、マツコの「月曜日から夜更かし」の取材を受けているらしい。何をやったのかというと、”リニアモーターカーを奈良に”という、奈良の非公認ゆるキャラの「リニー君」をつくったというか、なったというか、そういう話らしい。

うーん、見事に見逃してしまった。実に悔しいが、意外なところから、教え子が元気に頑張っていることがわかって嬉しい。

40歳を過ぎて何やってんだという声もWEB上であるようだが、私は大いに賛嘆したい。自分のやりたいことをやって、注目を浴びたわけで、その評価は自分の中で下せばいいと思うのだ。

2015年12月5日土曜日

胸が痛い

昨夜、NHKの「関西熱視線」で、大阪のブルースの特集をやっていた。憂歌団の木村のLIVE映像がNHKに出ていた。先日も書いたが、私が憂歌団で最も好きな曲は「シカゴバウンド」だが、妻は「胸が痛い」だそうだ。

そう、胸が痛い。ここ2・3日、歌ではなく私の胸が痛い。もっと詳しく言えば、肺が痛い。先日旧友のK氏が肺気腫で入院した。また最近、近所のYさんも肺気腫で入院した。このところ、肺気腫が身近である。ついに私にも来たのかな、と思ってしまう。

保健室でそんなこと雑談していたら、U先生に肺気腫の恐ろしさを講義されてしまった。「今、タバコをやめたら、とりあえず悪化を防げますよ。きっとダッシュしたりできないままだけど、少なくともこのまま、酸素ボンベなしの生活ができるはずです。」その悪化の話がこわかった。寝るのが苦しくなるそうだ。仰向けも横向きもできなくなるという。

うーん。一度はやめれたタバコである。うーん。このところは、吸おうと思っても、肺が痛くて、もう吸えないような感じの時がある。やめる、というのではなく、吸えなくなったような…。胸が痛い。

2015年12月4日金曜日

毎日 過激思想は共通課題?

トルコ共産党の旗の画像らしい。
http://www.nicovideo.jp/watch/sm26967389
毎日新聞の今日の朝刊「金言」は、西川恵客員編集員の「過激思想は共通課題」と題したものであった。数年前に日本在勤のトルコの外交官が「冷戦時代、トルコ共産党の党員とはよく激論になったが、会話が成立した。しかし、イスラム過激派といわれる人とは話が通じない。彼らの論理の飛躍と狂信的なものには、イスラム教徒であるわたしもついていけない。」と言った話をもとに、共産主義思想の過激化(70年代の日本やドイツなどの「赤軍」や毛沢東時代の大躍進・文化大革命、ポルポト政権下の虐殺を例に出している。)は、国内にとどまっていたのに対し、ISは国際的な広がりをもっていると指摘、(共産主義も)イスラムも、都会的な匿名社会の疎外に問題があるというアルジェリア紙の社長の言を引いてまとめている。

…私は、この「金言」、かなり視点がすれているように思う。まず、トルコは、イスラムの中でも最も早く政教分離し「領域国民国家」たることを目指した国であるという前提がある。次に、現在過激派と呼ばれているISなどは、(過激と言ってもいいと思うが)イスラム復古主義者であるという認識がかけていること。彼らは「領域国民国家」を否定する。イスラムの神定法、カリフ制の下で、自由な往来を認めるアナーキズム的な共同体再構築を目指していることが顕著である。

彼らから見れば、トルコをはじめとした多くのイスラム教国は、神の定めたイスラム共同体を、西洋近代国家論に従い分割している(といより、分割された)と見えるだろう。そこには、キリスト教的な人定法で「法の支配」が優先される民主主義社会が形成され、さらに各国の国民という縛りが生まれ、資本主義の利益が優先されるようになっている(と、いうより堕してしまった)と見えているはずだ。復古主義者の彼らと、領域国民国家の官吏では、当然ながら話が成立しないだろうと思う。ただ、復古主義者でない領域国民国家に住み、それを是としている普通のイスラム教徒からみれば、論理の飛躍・狂信的ということになるのだろうとも思う。この違いを明確にしておくべきだ。

…ところで共産主義思想は、本来的にはキリスト教世界の二元論から、階級闘争として組み立てられたものだ。その後、領域国民国家(ソビエト=ロシア)の成立を目指したスターリニズムと、世界革命をめざしたトロッキズムに分裂した。70年代の赤軍はトロッキズムの流れを汲んでいるから、金言にあるように必ずしも国内に留まっていたわけではない。中国でも基本的には、世界人民大団結万歳の文字が長く天安門に掲げられていた。

西川氏の論はこのあたりの視点も欠落している。しかも現在のISとひっくるめて、疎外された人々によるもので「過激思想は共通課題」などど言われると、うーんと唸ってしまうのである。基本的な社会思想史と一神教理解があれば、思わず首を捻る今日の金言であった。私は、毎日新聞のコラムは、意外な視点が提示されていたりして、いつも楽しみにしているので残念である。

講談社現代新書 鄧小平を読む。

日経の広告で、講談社現代新書の鄧小平(エズラ・F・ヴォーゲル:聞き手=橋爪大三郎/本年11月20日発行)が好評らしいことを知った。さっそく読んでみたのだが、評判通りに面白かった。この新書は、そもそも日中の研究者であるエズラ・F・ヴォーゲル教授(社会学者)の「鄧小平」という本編があり、それは英語版でも中国語版(本土・香港・台湾で発行されている。)でもベストセラーになったものであるらしい。もちろん日本語版もあるという。これを受けて、橋本氏がインタヴューしたものであるので、本編のエキスがうまくピックアップされているといえる。

特に興味深かったのは、鄧小平と毛沢東の関係である。最近は、中国現代史を授業で講ずることもめっきりなくなってしまったが、鄧小平は何度も失脚する。その度に復活して市場経済で中国を発展させる。鄧小平は、なぜ復活し得たのか?この新書は、それに答えてくれる。

中国現代史で、毛沢東が、「紅」に走り、「大躍進政策」を発動し、大パニックを起こした際、彭徳懐が毛沢東を批判するのだが、毛沢東は反対に彭徳懐を失脚させる。この会議に、鄧小平は足を怪我したということで欠席しているのだった。この仮病を使ったことが鄧小平の鄧小平たる所以である。

この辺の細かいことは資料にないが、鄧小平は、彭徳懐の意見は正しいと思っていたらしく、人民公社の調整政策をまとめている。毛沢東は、大躍進の失敗を認めていたようで、この調整制作には不満ながらもノーとは言わなかった。ただ、正面切って自分を批判した彭徳懐はゆるさなかった。鄧小平は、毛沢東がいう事には絶対反対しないという、中国共産党のテーゼを守りぬく。ここが、彭徳懐と鄧小平の相違である。

文化大革命後、毛沢東の後継者となった華国鋒は、二つのすべて「毛沢東の決定、指示はすべてその通りに実行しなければならない。」を掲げた。その時代に改革開放を進める際にも、鄧小平は、「実事求是」(現実が真理を判断する基準になる)という、コトバを毛沢東の著作から引っ張ってきて、これを打ち出している。毛沢東の一番根本的なことは、新しいことを実験しよう、それが毛沢東の精神だと。新しい実験をやる中で、毛沢東と違ったことをやってみる。毛沢東が生きていたら、きっとこれを許すだろう。これはうまい。(ヴォーゲル教授談)

鄧小平のしたたかさ。確かに尋常ではない。

2015年12月2日水曜日

日経 ブルキナの新大統領選出

エントリーに直接の関係ないのですが…。ブルキナの野球を応援する会
http://blog.canpan.info/obog/archive/308
久しぶりに、アフリカの明るいニュースである。ブルキナファソで大統領選挙があり、市民ら訓練された6000人の監視団のもと、平和理に大統領選が行われ、元首相のかカボレ氏が14人の候補者の中で過半数(53%)を得て、当選した。

アフリカの選挙というと、デモクレイージーな話が多いのだが、ブルキナファソでは、先の市民デモで軍事クーデターも吹っ飛ばし、こういう公正な選挙で大統領を選んだわけだ。実に喜ばしい話である。

こういうまっとうな民主主義を実現できるブルキナファソに、世界の注目が集まり、これからの開発に有利に展開することを祈るばかりである。

http://www.nikkei.com/article/DGXLASGM01H4G_R01C15A2000000/
http://www.cnn.co.jp/world/35074274.html

2015年12月1日火曜日

朝日 又吉氏の広告「将来の幸せ」

http://websta.me/tag/%E8%AA%AD%E
5%A3%B2%E6%96%B0%E8%81%9E?lang=ja
朝日新聞に昨日、又吉直樹氏の「将来の幸せ」と題した文章をおいた全面広告が載った。日経の文化面で、歴史に残る様々な新聞広告(特に文章で勝負する広告)を紹介するのコラムを以前から読んできたこともあり、大いに興味をもったのだ。私は「火花」を読んでいないので、又吉氏の文章を初めて読んだが、なかなか味わい深い。帰宅後、毎日新聞に載っていると期待したのだが、載っていない。で、今朝職員室の朝日新聞をコピーして、一日遅れでエントリーすることになった次第である。

「舞台に立つ時、客席の一番後ろに立っている十四歳の自分が笑っているかどうかを想像することがある。残念ながら大抵は笑っていない。」

と、文章は始まる。又吉氏によると、「十四歳の自分というのは、お笑い芸人になりたいと本気で考えたはじめた頃の自分」だということだ。「文章を書くときは十九歳の自分を意識する。素晴らしい小説との出会いが沢山あって救われたのが、十九歳の頃だったので、その頃の自分が面白いと楽しんでくれるものを書きたいという思いがある。」そうだ。

これに続く「現在の、三十五歳の僕は僕だけでなく、過去の自分達がいたことによって存在している。」という文は、実に文学的であり、哲学的である。

実は、ここから未来の自分のあるべき姿へと話が進む。”今を考え、明日を想う年金”の広告だから当然だが、私が感じ入ったのは、この一節なので、少し考察したい。

仏教的には、今この時の自分に、あらゆる因縁果報が内在していると説く。因とは直接的原因、縁は間接的原因、果はそれらの結果、報はそれらの報いである。ふと、今の自分を振り返ってみる。先日、35年の永続勤務表彰を受けたベテランとしては、決して良い因縁ばかりを積んできたとは思えない。(笑)失敗を無数にしてきたと思う。とはいえ、良い因縁も積んできたつもりである。自分を追い込んで、逃げずにやってきたとも思う。

その結果が今の私である。なにより傲慢な自分を冥伏(その存在を無にはできないが、表面に出ないようにする)させること、生徒との約束を破らないこと、人間関係においては、何より人情の機微を大切にすることを意識してきた。、

とはいえ、又吉氏の文章を読んで、思い出したのは過去の過ちばかりだった。(笑)あんなこともあったなあ。こんな失敗もしたなあと、改めて二十代、三十代の自分が、今の自分を追いかけてきたような気がした。文学の持つ力とは、こういうものかと思うのだ。