2016年7月31日日曜日

国際理解教育学会 新プロジェクト

日本国際理科教育学会の、私は一応会員である。毎回研究発表大会に参加して現地で会費の更新をしていたのだけれど、今年はマレーシアにあって、長岡教育大学の大会に参加できなかったので更新していない。故に(会費未納入の)不良会員になってしまった。これからも大会に参加できそうにないので自然退会することになると思われるが、仕方がない。そういう覚悟をもって渡馬したのだから。だが、同志の皆さんがどんな研究しているのかは知っておきたいと、ひさしぶりにHPを開いてみた。

すると、「国際理解教育の理念と方法を問い直す」という共通テーマのもと、「この指とまれプロジェクト」を行うらしい。プロジェクトは3つ。どれも魅力的なテーマだ。原文のまま紹介したい。

1.グローバル時代の市民像を問う 
近年、道徳の教科化、グローバル人材の育成、18歳選挙権導入にともなう主権者教育の実施など数々のトピックが、政策課題としてやつぎばやに浮上してきました。ユネスコもGCEDを提唱する中で、国際理解教育はいま、さまざまな市民像がダイナミックに交錯する事態に直面しつつあります。この事態を受けて本委員会では、政治経済の動向や国内外の思想状況の分析から”市民性の現在”の解明に取り組むことにより、改めて国際理解教育の理念を問い直します。
*GCED: Global Citizenship Education(文部科学省HPに詳細・掲載中)

2.難民問題から国際理解教育を問う
シリア難民問題が世界的なレベルでの大きな社会問題になる中で、平和・共生をめざす国際理解教育は、この問題をどう捉え、どう扱うのかが問われています。難民を生む社会構造の問題、難民にとっての生活・教育上の問題、難民を受け入れる国・地域が抱える問題など、切り口は多様ですが、改めて日本国内のインドシナ難民・ミャンマー難民などのこれまでを踏まえつつ、難民と教育の関連を問い、これからの国際理解教育を問いたいと思います。

3. SDGs時代の水・気候変動を問う
人間、そして、地球上のすべての動植物が生きる上で絶対に必要な「水」。しかし、「水」は地域や国によって様々な課題を抱えており、気候変動(地球温暖化)にも大きくかかわる問題です。また水問題はSDGs時代の国際理解教育への大きな課題となってきています。本プロジェクトでは、現在、注目されている水・気候変動教育を問い、子ども・若者たちが大陸を超えて学び合い、問題解決に向けた具体的な活動を通して協同活動や交流を生み出すことを目的とする活動です。

うーん。私は参加できないけれど、それぞれに興味がある。1のプロジェクトで語られるだろうことは、およそ見当がつく。市場経済はグローバル化を志向しながら、政治は内向きなポピュリズム化のねじれ構造にあること、構造的暴力がますます経済格差を生んでいることが”市民性の現在”なのかなと思う。2のプロジェクトも、興味深い。どの切り口も魅力的なテーマだ。どうしてもシリア難民の問題にスポットが当たっているけれど、それはあくまで欧米先進国の利害に直接的だからで、アフリカの難民の存在は、メディアなどからは忘れ去られている。私が関わるならそういう切り口になるかなあ。3は、SDGsがさっそく話題になり嬉しい。水や環境問題は全くの素人なので、よくわからないが、大きく実践的な広がりを志向しているところが大好感である。

とまあ、第三者ではないのだけれど、第三者的な勝手なことを書いてしまった。国際理解学会の皆さんのご健闘を陰ながら祈りたい。
http://kokusairikai.com/cont/?p=242&cat=1

レヴィナスと愛の現象学を読むⅢ

フッサール
http://weltgeist.exblog.jp/
16771565/
内田先生の「レヴィナスと愛の現象学」の第二章を読んでいる。哲学書なので、常に赤ペンを持って2度読み・3度読みが必要ゆえになかなか進まない。(笑)第二章は、まずフッサールの現象学とレヴィナスの現象学の相違について描かれている。およそ倫理の授業で高校生に教えるように、ちょっとその内容を紹介しようかなと思う。

まず現象学について。現象学は、デカルトの「省察」(われ思う故にわれ有りという近代哲学の原点・第一証明)をさらに進めたものである。デカルトは、その後第二証明で神の存在を、第三証明で物体の存在を証明していく。このデカルトの構築した哲学的な構造に対して、素朴実在論者(素朴にその存在を認める人々)、懐疑論者(それを疑う人々)が現れる。
レヴィナスは、この素朴実在論者を演劇にたとえて、「夢中になって舞台を見ている観客」、懐疑論者を「しらけた観客」にたとえている。そして現象学者は、「演出家」である、としている。覚めているが同時に(劇に)没入している、と。すなわち、あらゆるモノの実体をある、と盲信するのでもなく、懐疑して、考えても無駄とするのでもなく、それらをいかにして知っていけるかを考え、実践していく存在であるといってよい。

内田先生は村上春樹とある編集者のハナシから、現象学を解き明かす。編集者が村上に普段どんな文具を使っているかを聞いたところ、「Fの鉛筆」と答えたのだが、編集者は「セーラー服を着た女学生」のようだ、と揶揄する。村上はその場は流したが、後々気になったというハナシである。「F」の鉛筆をこのように編集者は見ているわけだ。こういう「対象の意味的に把握」をフッサールは「ノエマ」と名付けた。この様々なノエマの「諸相」が1つの中心的な核の周りに群がっている。この核こそが対象的意味であるというわけだ。

…たとえば、「マレーシア」とは?と様々な人々に聞けば、年配の方なら「天然ゴムとスズ」、日本の商社マンなら「天然ガスとパーム」、高校の社会の教師なら「ブミプトラ政策」などと様々なノエマが返ってくるはずである。マレーシアの「意味」は、それらの中心にある核的存在だ、というわけだ。ただし、そういうノエマを加算していって一定量に達したからといって、普遍的なその本質的直感を得る、というのではない。実際に4ヶ月住んでみて、もっともっと様々なマレーシアが私の前に現出している。これから先、さらに増えるだろうと思う。常に、前から、上からあるいは横から、さらに斜めから見るというノエマの”厚み”が、「知」の獲得には必要であるということである。

ところで、レヴィナスの大きな特徴は、前述(7月12日付ブログ参照)のユダヤ教のラビがタルムードを様々な視点から読み論争するように、常に他者との関わりを求めていく点である。レヴィナスは、フッサールの現象学に共感し、会いにいく。しかし、フッサールとは対話が成立しなかった。「共同的に構築される知」、「他者への開かれた知」であり、現象学はそのツールだと考えるレヴィナスにとって、質問を発してもすでに発表された草稿を読み上げるようなフッサールとの対話は、「哲学者は永遠の初心者でなければならい。」と確信する彼に大きな失望を与えることになる。

と、今日はここまで。

2016年7月30日土曜日

ローカルな業務スーパー探訪

A先生から、昼過ぎに連絡があって、タマンデサ近郊にある業務スーパーに行くのですが、何か買うものがあれば一緒に行きませんか?というおさそいをいただいた。前のブログにある通り、ガスや窓の掃除も終わったので、特に必要なものはないけれど後学のために同行させてもらうことにした。

先に飲茶の店に入った。KLでは有名なチェーン店であるとのこと。うむ。全て完全に美味。香港やNYCの観光客相手の飲茶ではない。ホンモノを食べてる感じ。こういう”食の幸せ”は東南アジアならではのものだと感じさせてくれる。

この店のすぐ近くに業務スーパーがあった。果物、野菜、肉類(牛・羊・鶏)、魚、さらに様々な食品類、それらの全てが、日本の業務スーパー同様、安く大量に売っていた。自炊していない私にとっては、無縁な食材群であるが、妻が来たらきっと喜ぶと思う。そもそも妻も義姉と業務スーパーによく行くらしい。もちろん、こちらにしかない食材も多い。ドラゴンフルーツには赤と白があるらしい。そんなこともA先生に教えてもらった。魚などは、蟹も生きたまま売られているし、見たこともない魚もあるし、眺めるだけでも、なかなか楽しめたのだった。

私としては、羊肉のステーキ用のパックが6枚で、RM25ほどで売られていたのが気になった。ラム好きの私としては買おうかどうか、うーんと唸ってしまった。買っても冷蔵庫で冷凍するだけである。そもそも我が住処にはフライパンも食用油もスパイスもない。皿は1枚だけあるけど、ナイフもフォークもない。(笑)6枚もパックされてるのもネックだ。もし、美味しくなかったら他に使いようがない。(笑)妻は、たしかラム肉はあまり好きではなかったと思う。

で、今朝のガスの炎を思い出して、フライパンで、ラム肉をジュージュー焼いてくれている妻の姿を想像するだけで我慢したのだった。

生活の改善Ⅲ/ガスと窓掃除

窓はこんなに綺麗に。感謝です。
月末になると、我が住処を斡旋してくれた不動産屋のJ女史に家賃を取りに来てもらうことになっている。インターネット料金とか電気代・水道代もみんなJ女史に託している。他の先生方は、インターネットバンキングとかで済ませておられるのだが、私とマレーシアのITは極めて相性が悪いので、とりあえず妻が来るまでは、とお願いしているわけだ。

これに合わせてJ女史に様々な要望をすることがある。今回は、まずガスコンロがつかない件である。女史は前回来たとき、電池切れで点火装置が作動しない事を確認したので、今日は電池を持参してきた。しかしプロパンガス自体も、もうないようで、すぐガス屋さんに連絡してくれた。ついに、我が住処にガスの炎が復活したのだった。妻が来るまでは使う予定は全くないが…。(笑)これは当然、自前で、ガス屋さん(なんと華人の女性だった。)にRM30支払ったのである。

もうひとつ、我が住処に大きな生活の改善があった。それは2つあるベッドルーム(私はいつも両方使わないで、ソファーで寝ているのだが…。)の1つの窓のカーテンを開けると、鳥の巣になっていて、フンが溜まっているのだった。J女史には、妻が来るまでには掃除を、とお願いしていたのだが、このコンドの管理部に連絡してくれたようで、若いインド人青年か来てくれた。ちょうど先日からリビングの窓にも、鳥のフンがついていたのだ。こっちもお願いした。彼は高所恐怖症ではないらしく、16階の窓に半分身を乗り出して清掃に励んでくれた。おかげで、2つの窓ともきれいになったのだ。いやあ、嬉しい。(上の画像参照/もう1つの窓は絵面が悪すぎるので…。)

ところで、この管理部のインド人青年は、私を「ボス」と呼ぶので、「いやいや、君と私はフレンドだ。ボスなんて呼ばないでくれ。」というと、満面に笑みを浮かべてくれた。こっちは、彼のような陰で働いてくれるスタッフのおかげで快適に暮らせるのだ。終わってから、冷えた缶コーヒーを1本進呈した次第。なんだか、ローカルの友人が増えたような、そんな感覚が残った。ありがとう。

ふと、ブルキナファソで、サヘルへの旅行のガイドをしてくれたオマーンのことを思い出した。彼も最初は、私の呼称が、「サー」とか、「ボス」とかで、これを直してもらうのに一苦労したのだった。だが、運転手も入れて3人で食事して、私が2人にフレンドでありたいことを納得させてからは、呼び捨てだった。(笑)その方が、嬉しかったし、彼らも貴重な客との遭遇だったと思う。組織に上下は必要かもしれないが、人間存在自体には、上下はない。常にそういう心がけで生きなければ、人間は幸せにはなれない、と私は信じている。

2016年7月29日金曜日

ロシアの読者を夢想する。

今週は、何故かロシアからの閲覧が増えている。何か特別なエントリーに集中しているわけではないので、私のブログをひとつひとつ見ていただいているようである。

昨日など、私のブログとしては驚異的な”666”という数字がはじき出されていた。本当にありがたいことである。果たしてロシア在住の日本人の方なのか、あるいは現地の方なのか…。いろいろと想像が膨らむところだ。

今日、妻からメールがあって、8月中旬の渡馬が決定した。関空を夕方に出て夜11時にクアラルンプールに着くのだという。この日はIBTの体育祭(運動会)の日で、午前中で仕事が終了する予定である。マレーシアで1日野外でスポーツをするのは、まして午後の日差しの下で行うのは、無理があるからだ。午後は特に尋常な暑さではない。(笑)だから5種目ほどで終わるのだけれど、生徒はみんな楽しみにしている。運営に関わることになっているし、イベントが終わってから、私が一息つける土日の休みにかけて渡馬するほうがいい、と妻は判断したのだという。ありがたい配慮である。

妻が渡馬してくるのは、私にとっては念願だが、来たら来たで大いに退屈するのではないか?という危惧を少なからず抱いている。日本人会で趣味を拡大してもらうとか、いろいろと考えているのだけれど、正直なところどうなるかわからない。

もしかしたら、ロシアの日本人の方が、たまたま見つけた私のブログを、暇つぶしに丁寧に見ていただいているのかもしれない。それはそれで私の個人的なブログが役に立っているわけで、嬉しいやら恥ずかしいやらである。そんなことを夢想していたのだった。

2016年7月28日木曜日

IBTの話(23) ODAと国民性

http://defence.pk/threads/japan-et-al-to-provide-the-philippines-11-3-billion-in-oda-assistance.367845/
総合科目は、このところ、ずっと国際関係を講じている。日本のPKOやODAの話を、マレーシアの生徒に教えているわけだ。すでに、生徒たちには政治の分野で日本国憲法を教えているので、日本のある意味特殊なPKOへの理解は早い。事実上、日本の陸上自衛隊は土木作業に汗を流しているわけで、ほとんどODAでインフラ整備に携わっているのと同じといってよい。穏健なマレーシアの生徒としては、そういう平和主義は十分納得するところだ。

さて、日本のODAの4原則というのがある。人権や自由をないがしろにする国には行わない。核兵器など大量破壊兵器を持つ国には行わない。武器輸出をする国にも、また他国の紛争に大きく関わるような国ににも行わない。というものだ。これも、生徒は納得する。
ところが、実際には、中国、インド、パキスタンなと核保有国に多額のODAを行っている。しかし、これも国際関係。国益と深く関わっているのが現実。そこまで考えさせたい。
生徒に聞いてみた。なぜ中国がODAの総額においてNO1なのか?これは、授業をよく聞いている生徒ならすぐわかる。「(日中国交回復の時に)賠償金を中国は受け取らなかったからです。」「正解。」周恩来は「税金である賠償金をもらえば、日本人民に負担をしいることになる。そんな恨みをかっては、友好は築けない。だから賠償金は辞退する。」と言った。しかし、日本が何もしないわけにはいかない。実に「したたか」である。結局その時に「名」を、長い時間をかけて「実」も取ったわけで、指導者が優秀だと、こうなるわけだ。これも、みんな納得した。
マレーシアが十傑に入ってないのは、すでに中進国でODAは卒業し、今は民間投資が行われていることも教えた。そう、それでいいのだ。(笑)

ところで、日本のODAは、GNIの0.18%だとか。DACでOECDの先進諸国としては0.7%を目標にしているので、まあ少ないテキストは、このことをかなり批判的に記述している。とはいえ、長く世界で一位だったわけで、それはそれで評価できるところである。私自身もODAはもっと増やしていいと思っているが、すでに時代はTICADなどでも民間投資を要請する国が主流になっている。

しかもテキストには経済的インフラが主で、学校や病院などにはあまり支出していないとあった。私は、これは違うと思う。日本のNGOがこれらの分野の国際協力で頑張っている。NGOへの資金協力をするカタチをとっているのだ。これをODAにNGOを合わせて、ODANGO(オダンゴ)と言うのだ、と行ったらウケた。だいぶ日本語がわかるようになってきたように思う。(笑)このODANGOは、2003年にJICAでケニアの教員研修に行った時教えてもらったハナシだ。以来アフリカでそういう現場もいくつも見せてもらった。この辺は、その道の専門家でないと誤った記述をしてしまうと私は思う。テキスト執筆のむつかしいところだ。

さらにこのテキストでは、日本のODAは贈与の無償資金が少なく、借款の有償資金が多いと、いかにもそれがダメなように書かれている。私は、これは日本の勤勉な国民性が生んだものだと思っている。…働かざるもの食うべからず。…無料(ただ)ほど怖いものはない。
マレーシアに4ヶ月いて思うのだが、マレー系の人は、イスラム教徒として喜捨の精神にあふれている。だから「贈与」を好むと思う。先日のマラヤ大学でもALEPSでも無料の食事が出た。華人の生徒に聞くと、やはり少し発想が違う。損得勘定というか競争意識というか、勤勉性というか、その辺は日本と共通する部分もあって、あの無料の食事が出たことは、極めてマレー系的なもののようだ。
そんな話をしていると、日本人の私という第三者が入ることで、当事者の生徒たちがマレーシアの社会構造というか、民族性の違いのようなものを再認識する機会になったようだ。こういう授業は日本にいては絶対できないと思う。私も生徒も実に貴重な体験をしていると思っている。ありがたいことである。、

2016年7月25日月曜日

IBTの話(22) 核軍縮の哲学

http://s-hayashi.tumblr.com/post/120153328569/
総合科目は、ほぼ近現代史が終わって、国際関係の話に入っている。PKOの話を今日は引き続き講ずるつもりだったのだが、先週の金曜日に広島市長の講演をみんな聞いたことだし、テキストではそのすぐ後に核軍縮の話に入るので、今日はそっちを先にやることにした。

広島市長の言われていた「実相」という日本語はかなり難解なものだ。これを詳しく説明したあとで、核についての基礎的な話、ちょっと理系になるけれど、ウラン濃縮とか重水素とかも説明した。マンハッタン計画の話や、ラッセル・アインシュタイン宣言の話、さらに様々な核軍縮条約の話などもするのだが、最終的には、どうしても社会科学を超える話になる。

なぜ核軍縮が実現し得ないのか?この疑問をぶつけてみた。これは、最終的にはそれぞれの不信感にたどりつくからだ。人間とは善なる存在なのか、悪なる存在なのか?そんな話になる。

イスラムではどう説いているか、聞いてみた。「うーん。悪ではありません。」私の理解では、たしかにキリスト教のような原罪は解かれていないので性悪説ではない。しかも戒律をやぶることもある、という前提で人間を見ているところがある。戦争については、否定的だがやむを得ない時もあるといったかなり現実主義的人間観でもある。これにはほぼ全員納得してくれた。ならば、世界中がイスラムになったら、平和になる?「うーん。」おそらく、そういう思索は未経験なのかもしれない。でも、広島市長がいわれるように、自分で実相を知り、そして考えて欲しいと思うのだ。そういう学習もまた日本留学のためには必要だと私は思う。

せっかくなので、華人の私費生の多いAクラスも含めて両クラスとも、中国思想、就中儒教から見た人間観も教えておいた。先日の弁論大会で、ちょうど家族愛についてAクラスの生徒が発表した。家族愛、そういう惻隠の情が儒教の根本的なベースになっている。意外に、華人の生徒はそういうことを知らなかった。へー。意外である。せっかくなので、大乗仏教からも説いてみた。修羅、そして菩薩、さらに人間に内在する仏…。

こういう日本で学ぶ「倫理」のようなカリキュラムは、マレーシアの中等・高等教育ではないようだ。あまりEJUには関係ないけれど、軍縮や平和について考えていくと、人間とはなにかという哲学の世界に突入してしまう、ということを教えたわけだ。みんななかなか興味津々で聞いてくれたのだった。

2016年7月24日日曜日

シャー・アラムでALEPSに出席

KLの西、セランゴール州の州都・シャー・アラムに行ってきた。本校のK先生お誘いである。特に予定もない(いつもだが…。)ので、お誘いに乗ることにしたのだ。もちろん、K先生のお車に同乗させていただいて、である。

シャー・アラムにあるセランゴール工業大学の構内にある建物で、ALESPの会があるとのこと。「名刺をたくさん持って来てください。」「十分お腹を減らせてくてください。」というのが事前の諸注意だった。

ALESPというのは、Alumni Look East Policy Society という意味で、マレーシアで日本語の予備教育を受け、日本に留学した人々の同窓会らしい。マレーシアには、IBTの他にも、マラヤ大学で理系の国費生を送り出すコースがあるし、他にもマラヤ財団とか、いくつかあるらしい。このセランゴール大学も日本留学プロジェクトに関わっているので場所を提供しているようだった。
先週のマラヤ大学での講演会同様、ランチを頂いた。実に美味である。メインだけでなく、フルーツやスイーツ、麺や,、かき氷まであった。こりゃあ、今日は夕飯は軽く済ましたほうがよさそうである。
で、本題は、K先生を通じて人脈を広げることである。K先生は昨年までマラヤ大学で教えておられたので、まずマラヤ大学の先生方を紹介いただいた。共に食しながら、様々な情報交換。新参者で文系の私はかなり特異な存在であると思う。日本への留学生は、IBT以外ほとんど理系=工学部への進学であるからだ。ともかくも、有意義な時間を過ごさせていただいた。

帰路、ブルーモスクの横を通った。屋根の工事中であった。ちょっと残念。また妻と来ようと思う。

2016年7月23日土曜日

IBTの話(21) マグレブ

http://matome.naver.jp/odai/
2134733593802913901/
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今週、総合科目では、WWⅡ後の現代史と関連して国連やPKOの話などを講じていた。フランスがアメリカから距離をとって多極化していくという箇所で、マグレブ3国を教えた。マグレブというのは日の落ちる西方という意味のアラビア語らしい。普通、チュニジア・アルジェリア・モロッコをさすのだが、アルジェリアの独立だけが他より遅くなった理由は何だと思うか?などと質問していたのだった。(実は、この”マグレブ”という語彙は、センター試験の地理B対策では隠れた急所なのである。EJUではどうかわからないけれど…。)

すると、マレー系の国費生から、このマグレブというのは、イスラムの礼拝の日没時をさすコトバだという発言があった。「おお、完全に意味は一致するなあ。」などと、お互い盛り上がっていたのだった。
ところで、イスラム教徒は5回礼拝があるが、マグレブは4回目だと私は思っていた。つまり、夜明け、夜明け以降、影が自分の身長と同じになるお昼、日没、そして夜と、1日を追って続いていると思っていたのだが、実は日没が第1回目なのだと生徒に教えてもらった。思わず”、へー。”と、タモリの昔の番組みたいに教卓を20回叩いたのだった。せっかくなので、礼拝について少し調べてみた。

マグレブ(日没時)は、3ラカート(お辞儀の姿勢の数で礼拝の単位)
イシャー(夜):4ラカート
ファジャル(夜明け):2ラカート
ズフル(夜明け以後):4ラカート
アスル(昼):4ラカート

2ラカートのファジャルの時は、コーランの第一章ファティーハ(6月4日付の「中田・橋爪『クルアーンを読む』2を参照」)を読んでから、任意の一節を読む。これで終わり。3ラカートは、これにもう1回ファティーハが3回目に追加され、4ラカートはさらにもう1回追加される、ということらしい。…なるほど。(もちろん、これはスンニー派の場合)

マレーシアに来て、こういう今までにない新たな発見というか、知的な刺激を日々受けている。
マレーの国費生からすれば、妙にイスラム教のことを勉強していて興味を持っている”変な先生”という認識だろうと思っていたのだが、多くの生徒は私のイスラムへの興味・理解を非常に嬉しく思っている、とのことだった。ありがたいことである。

2016年7月22日金曜日

IBTの話(20) マラヤ大学で講演会

マラヤ大学の会場 人文社会科学シアターA
先日、南国新聞にアジア大学ランキングで、マラヤ大学が27位(国内トップ)だったと報じられていた。そのマラヤ大学に、F36の生徒たちと行ってきた。実は、広島市長が来られて、平和に関する講演とパネルディスカッションをされるとのことで、IBTの生徒たちに是非来て欲しいという要請があったらしいのだ。

From Hiroshima to Our World without Nuclear Weapons-Beyond Human Atrocities-というのが正式なタイトルである。

バス3台を連ねて、マラヤ大学に出発した。IBTの意外に近くである。ところが、学内は広大で、ラピッド・バス(いつも乗っている公営のバス)も乗り入れているし、信号まである。凄いなと感心していたら、バスが3台ともどこに行ったらいいのかわからず迷ってしまったのだった。日本では考えられない話である。本校で契約しているスクールバスなのだが…。ところが、結局3台とも集合時間にはなんとか間に合ったのだった。こういうヒヤヒヤはマレーシアでは、かなりフツーらしい。
マラヤ大学の女子学生の司会で講演会は始まった。マラヤ大学の先生の挨拶や日本大使館から大使も来られていて、当然のごとく挨拶もあった。みーんな英語である。うーん、チンプンカンプン。その後、いよいよ広島市長の講演であったが、これも英語。パワーポイントの画像もあったので、何を言っておられるのかは想像がつく。まずは、広島の原爆の惨禍を、投下前後で示し、被爆者の様子を伝え、最近のオバマ氏の広島訪問に触れ、世界の様々な都市の市長と平和のネットワークを構築している報告がされた、のだと思う。その後のパネルディスカッションでは、どのような平和教育が望まれるか?という質問に、被爆の実相を学び、そのうえで、自分に何ができるかを考え実行できるような教育を望んでいると、これは日本語で言われた。ここだけよくわかったし、私も同意見なので、この発言が最も私は印象に残ったのだった。

その後、意外な展開が待っていた。ランチが用意されていたのだ。マレーシアでは、こういうことはフツーらしい。生徒たちと美味しくいただいた。その中に、竹にもち米を入れて焼いたものがあった。以前、授業で私が生徒に聞いたので、生徒が「これです。これが…」と何人ものマレー系の生徒が教えてくれた。いやあ、美味。結局、6個も頂いたのだった。
住処の近くの屋台で。竹筒のもち米料理
広島市長、日本大使、マラヤ大学の先生方とともに記念撮影もして、めでたく帰校した。ん?金曜日の礼拝のため国費生の男子生徒は寮の近くのモスクにいってるはずなのに、学校に着いている。これまた予定外のバスの動きだったのだ。付き添い教員はみんな、またまたずっこけたのだった。(笑)

2016年7月21日木曜日

IBTの話(19) 避難訓練

上級生の避難訓練/寮のBBQコーナーにて
国費生の寮の避難訓練が昨日行われた。夕方からスコールで、条件としてはよくなかったうえに、上級生のスクールバスの到着が遅れ、下級生と上級生に分けての実施に急遽変更された。私としては、国費生がどんなコンドミニアムに住んでいるのか知りたかったので楽しみにしていたのだった。少し古いけど、なかなかセキュリティが厳重で、寮としてはいいコンドと思ったのだった。ここに生徒4~5人が一部屋で共同で暮らしているということだ。

気のいい素直なメンバーばかりだけれど、集団で生活しているわけでいろいろと気苦労もあったりして大変だと思う。国費生の世話をしていただいているマレーの方も、時々抜き打ちで部屋を訪れたりして指導されているのだと聞いて、大人は大人で大変だなあと思った次第。

さてさて避難訓練は自分たちの部屋から階段を使って、集合場所のバーベキューコーナーまで降りてきて点呼を受けるいうルールだ。高いところにある部屋は負担が大きかったと思う。とはいえ、全員文句も言わず、無事に避難訓練は終了した。

訓練を担当したA先生としては、上級生がまだ日本語が未熟な下級生に、先生の日本語をマレー語に訳して伝えるというカタチをとりたかったんだそうだ。部屋のリーダーには、そういう方式で事前の指導会をしていた。これを全員でやりたかったらしい。なるほど、と思う。上級生と下級生の日本語能力の差はかなり大きい。先輩の凄さを実感するのも、大きな教育の一環だと思う。

2016年7月19日火曜日

IBTの話(18) パレスチナ問題

http://kuwabara03.blogspot.my
/2012/05/blog-post_23.html
総合科目の授業はパレスチナ問題に突入した。華人の私費生は、日本の生徒同様、全くの第三者なので、白紙からこの問題を学ぶことになるが、国費生のマレー系の生徒にとっては、ユダヤ人は(非日常的な存在でありながらも)同じ啓典の民であり、同じイスラム教徒であるパレスチナ=アラブ人の敵でもあるわけで、イスラエルは悪の国というイメージが強い。

これまで、日本ではパレスチナ問題はだいたい3学期。時間がなくて軽く済ましてきた感があるのだが、そういう意味もあって、IBTでは極めて真正面から講じてみた。

すると、どうしてもイギリスの存在が浮かび上がってくる。イギリスは、WWⅠ後、アラブの名門ハシム家のアラブ統一をフランスとともに阻みながら、結局細々と分割し力をそいでいく。一方で大いにシオニストをパレスチナに迎えいれている。そういうわけで、パレスチナの人口比率がかなり変化していく。ユダヤ人が1/10から3/10へ。さらに、独自の国作りも進めていく。これは、実はマレーシアでは理解しやすい。マレーシアでは、6割がマレー系、3割が華人、1割がインド系だからだ。たとえば、インド系の人々が、自分たちだけで警察組織をつくりインド人街を守るようになったら、どう?などとかなりリアルな問いかけにはなるが、イメージしやすいのである。

中東戦争についても詳細に論じた。国連のパレスチナ分割案の賛成国、反対国、棄権国。それぞれ何故そういう結論を出したのだろうという発問をしてみる。かなりの難問ではあるが、考えさせることが国際関係の学習として重要だと思う。ソ連は何故賛成?リベリアは何故賛成?キューバは何故反対?ユーゴスラビアの棄権、中華民国の棄権、さらにエチオピアの棄権は何故?なかなか盛り上がったのだった。とりあえず、今日で両クラスとも第4次中東戦争の終了時までいった。

と、全力でパレスチナ問題について語ったので、今日は軽い疲労感がある。ところで、国費生のクラスでは、今回のトルコのクーデターについての質問も出た。少し、みんなで考え、意見もいろいろ出たのだが、基本的に彼らはトルコのイスラム化を是と考えているようである。トルコ的な政教分離政策には違和感を持っているようだ。結局のところ、このトルコの話もパレスチナの話も、国民国家論に帰着するのである。これは、全員とはいかないが、多くの生徒が理解してくれているようだ。

これまで、こういう思索を伴う社会科をあまり経験していない彼らに、時間があれば本来の社会科学的な学びの世界に、是非とも招待したいと思うところだ。それも日本に留学する彼らを応援する私の役目かなと思っている。

2016年7月18日月曜日

IBTの話(17) 秋田大学説明会

秋田大学 HPより
遠路はるばる秋田大学の先生方がIBTに来ていただいた。なんでもIBTは秋田大学にわりと多くの留学生を送っているらしい。と、いうわけで、今日は17:30から約1時間説明会が行なわれたのだった。理系の国費生を中心になかなか盛況だった。

なにより、国際資源学部の学部長、佐藤時幸先生の講義が面白かった。完全文系の私でも面白そうだなあと思うのだから、理系の学生なら尚更ではないだろうか。実は、この国際資源学部、文系の学科もある。資源政策コースというのがそれで、カリキュラムなどを覧て、これはなかなか面白いと思った次第。私としては、マレーシアのこれからを背負う国費生には、こういう学問をして欲しいと思うのだ。マレーシアの貴重な石油・天然資源をどう扱うのか、極めて重要な問題である。このうような特殊なマネジメントや政策学は、日本に留学してまで学ぶだけの大きな意義があると思うのだ。

秋田大学は、かの大震災直後、秋田商業高校訪問前に、付属の鉱山博物館に行かせてもらった懐かしいところだ。秋田の人々は暖かい。国費生は穏やかなところや辛抱強いところなど秋田の人々に近いし、向いていると思う。ちょっと、授業で背中を押してみようかな。

2016年7月17日日曜日

「羽衣あられ」を買う。

タマンデサのスーパーマーケットには、日本の食品が比較的よく目につく。お金さえ十分に出せば、日本の食卓と遜色がないものができるような気がする。日本人会館にも同様に日本食品が売られているので、あまり驚くことはない。しかし、である。先日スーパーで、「羽衣あられ」を発見した時は嬉しかった。この「羽衣あられ」、日本では最も低価格で売られていながら、根強いファンを持っている。義姉と私がそうだ。目につくと必ず購入する。そういう馴染みのものなのだ。

先日、初めて発見した時は、RM 5.2という値段に思わず買うのを逡巡してしまった。だが、よくよく考えた挙句、今日は購入したのだった。「羽衣あられ」が住処にある、という事実が私を勇気づけるではないか。(かなり大げさだが…。)

心が豊かになったというか、お金の使い方が慣れてきたというか。ただただ節約するライフスタイルから脱皮したような感覚である。慎ましく生きるという術がだんだん身についてきたというか…。たかが「羽衣あられ」を買っただけなのだが、なんとなくそういう実感がある。

ちなみに先日(7月2日付ブログ参照)エントリーしたにマレーシア製の「天ぷらうどん」もなかなかイケるのがわかったので購入した次第。

コンド内のジムに行ってみた。

先日の校内弁論大会で、「(ジムで)運動をしましょう。」という内容の主張があって、「その通りやなあ。」と妙に納得したのだった。主張した生徒は、落ち着いた性格で礼儀正しい皆からも信頼の厚い生徒である。将来の夢もなかなか壮大で、私も一目置いている国費生である。だからかもしれない。

で、朝、うちのコンドのジムを覗きにいってきた。実はこういうジムと私は全く属性がない。日本でジムに通うとなるとかなり高額だし、前任校などには最新の設備があったが、クラブの生徒たちが月月火水木金金と使っていたので、私など出入りできなかった。(笑)

しかしコンドのジムはプール同様、無料である、というか家賃に入っているわけで、気楽に行くことができる。部屋は少しばかりくたびれていたが、設備は最新のものらしい。3人ほどの華人の男女が汗を流していた。顔なじみのセキュリティのスタッフが、誰か使用しているとセキュリティするらしく前で座っていた。「自転車のもあるよ~。そんなにしんどくないよ~。」と英語で言ってくれたのだ。…なるほど。1時間ほどしてから、意を決して行ってみた。
部屋には誰もいない。電燈のスイッチをつけると、クーラーや扇風機も動き出した。で、自転車の機器に挑戦したのだった。5分くらいでやめるつもりだったのだが、前のパネルに15分くらいで満杯になるメーターがある。1分経過するごとに右に移動していく。こりゃあ、意地でも15分やろうと思うわな。10分ぐらい経過すると軽く汗をかいた。そんなにきつい運動ではないし、鍛えてる感はない。私のような運動嫌いの怠惰な人間にはちょうどいいかもしれない。
汗を拭き拭き、外に出ると、さっきの顔なじみのセキュリティースタッフが来てくれていた。「どう?」「15分だけ走ってみた。よかったよ。」と挨拶し、「そうそう、先日のスコールで植木鉢が倒れたけど、すぐメンテナンスしてくれたことに私は大変喜んでいるよ。」と伝えた。彼もすごくいい笑顔を返してくれた。うちのコンドは古いけど、なかなかいい住処なのである。

2016年7月16日土曜日

中田・橋爪「クルアーンを読む」16

トルコで、クーデター騒動が起こったようで、WEB上でも緊迫した情報が流れている。マレーシア(政府やマレー系の人々)にとっても、トルコは重要なパートナーと見ているので、決して他人事には見えなかったはず。さて、長々とエントリーしてきた「クルアーンを読む」も最終局面。中田考氏の持論・カリフ制についての議論。

中田氏はカリフ制のメリットを国境がなくなることで、人間と資本の動きが自由になると言う。それからイスラームは税金が安く累進課税もない、イスラム教徒は法人はつくれない、だがイスラームは属人法なのでイスラーム教徒以外が何をやっていても口出ししない。異教徒が儲けることは全然かまわない。今のイスラームは資本主義社会に負けているが、イスラーム経済だからソマリアが破綻し、アフガンが破綻してるわけでない。カリフ制になっても、これ以上悪くなるわけではない。それより、所得の再分配はよくなる。イスラームを無視して民主主義・資本主義の真似事をしている今の現状がものすごく悪いということを忘れて、カリフ制は資本主義に勝てないといっても意味はない。
同時にカリフ制がユートピアであるとも考えていない。正統カリフ時代も内乱と暗殺の歴史であった。問題は、「人々が信仰というか、正義が満たされている、と思え、生きる意味があると思えるかどうか」である、実際にイスラーム圏で生活すると、貧しいが幸せそうである。西側の基準で判断すべきではない、と述べている。

中田氏の言う、「西側国家の基準とは領域国民国家(近代国家)」である。この矛盾がある国民国家を直していくために、武力を使って急速にやるのか、ゆっくりとやっていくのか考える余地はあるが、解体の合意をつくる必要がある。イスラームとキリスト教文明はあきらかに違うとも言えるが、(両者とも)普遍化のプロジェクトを進めてきたといえる。そもそもグローバリゼーションを進めてきたのはイスラームである。しかしキリスト教世界は帝国主義として世界を暴力的に一体化した。この欧米発の「普遍主義」は、「国民国家のシステム」と、どうみても矛盾している。だから、病的なナショナリズムが噴出しているのである。

カリフ制の根拠について2人で議論したあと、橋爪氏が問題点を指摘する。第1に、カリフは、脆弱で偶有的・偶然的なポジションを唯一の正当な権力とすること。第2にキリスト教文明の考え方と正面衝突すること。これに中田氏は異議を唱えない。
次に2人の議論は、社会主義を近現代史から見た「ユニバーサリズム」と「ナショナリズム」の議論になる。社会主義はユニバーサリズムであるが、二重に敗北した、と橋爪氏。第一に、スターリン主義となりナショナリズムの形態をとりながらユニバーサリズムの顔で東欧諸国に接したこと。さらに第二に、経済競争でボロ負けし、自由の代わりに専制国家を作り出してしまったこと。で、橋爪氏の鋭い質問である。中田氏は先ほど、経済的な問題は決勝点ではない(=対比して論じる必要を認めない。)と言われた。では、もうひとつのイスラームがカリフ制をとった場合、スターリン主義(一国社会主義)化しないか?という疑いである。

ここで、中田氏は、「カリフは1人、国境がないのがイスラームの本質」故に、一国イスラーム主義は理論上ありえない、と断言する。
現在のISは、もともとイラク・イスラーム国という一国イスラーム主義のところから生まれてきて、それがたまたまイラクとシリアとが合体したので、これからはカリフと名乗ろう、というふうになっただけなので、(否定されるべき)一国イスラーム主義であると言わねばならない、とのこと。

…と、なかなかの白熱の議論。このエントリーの画像は第48章「ファトゥフ(勝利)」第10節。カリフと従う者が両手で手をつなぎ就任儀式で読む一節をWEB検索した画像。
「まことに、おまえと誓約する者、彼らはまさにアッラーと誓約するのであり、アッラーの御手は彼らの手の上である。」

中田・橋爪「クルアーンを読む」15

ひさしぶりに「クルアーンを読む」のエントリーをしようと思う。南国新聞(7月14日発行)によれば、ISがインターネットの映像で、マレーシアとインドネシアに宣戦布告したらしい。少年兵やマレーシアのパスポートを焼き捨てる子供の映像が映し出されたとのこと。ナジブ首相は、テロリストはイスラム教徒ではないとバングラディシュの事件について自身のフェイスブックで訴えるとともに、ハリラヤ(ラマダン明けのお祝い)のオープンハウス(首相官邸で一般市民も参加しての食事会)でもテロとの戦いを呼びかけたという。このところ、マレーシアは、反IS一色である。

私も当然、ISのテロリズムには大反対である。マレーシアは華人やインド系の人々との平和的な共生を目指し、しかも豊かで民主的な領域国民国家とイスラムを国教とするマレー人の主体性を止揚するべく、悩み苦しみなから、大きな成果を上げてきた国だ。この3ヶ月半の間、私は大いに感じ入るところがあった。この愛するマレーシアがテロリズムに潰されたりしてはいけない、それは当然のことである。

とはいえ、ISの行動原理を知ることも必要だと思っている。ISの行動原理を日本人の中で最も知りうる人物は中田考氏である。スンニー派のイスラム法学者にして、カリフ制再興を主張する人物(したがって一応のカリフの再興を行ったISとの対話が可能である。)。批判する為にも、ISの行動原理を測る測定装置(橋爪氏の中田氏を評した表現)がいる、と考えているわけだ。

今日のエントリーはイスラムの経済の話である。中田氏は、現在のイスラミック・バンクには大いに批判的だ。イスラム法には、利子の禁止だけではなく、その他にも債務によって債務を買ってはいけない、約款をつけないなど、様々な禁止条項があるそうで、イスラミック・バンクは、無利子をクリアーしているように見せているが、他のところではクリアーしていないのだと指摘する。続いて、そもそも「法人」という概念がイスラム法に合わない、という話になる。

橋爪氏はキリスト教文明でも法人という概念が出てきたのは最近で、資本主義も主権国家も法人という概念なしには成立しないと述べ、さらに最後の審判の時、人間は個人で裁かれる。法人は生ゴミにもならないと述べる。わかりやすい例として、”麻原某や井上某は裁判で有罪になりうるが、オウム真理教という宗教法人は裁かれようがない。”というわけだ。
これに対し、中田氏は「イスラームは法があって、罰というのは最後の審判になっておりますので、法人はイスラーム法の構造自体から認められるわけがないのです。最後の審判における罰がイスラーム法の効力を担保しているわけですので、罰を受けない法人が主体として入ってくることなどありえないのです。」と述べている。
「そういうのを乗り越えて、キリスト教徒は、グローバル・ルールをつくりあげた。イスラームは不利な競争を強いられたている。グローバル経済の中ではイスラームは負け組になる。」と橋爪氏。
それに対し、中田氏は、グローバル経済はいずれ破綻し、もともと商業文明だったイスラームのバランスのとれた考え方に戻るのではないかという楽観主義を唱える。

読むと、実に深い対話で、面白いのだが、長くなりすぎるので、このエントリーはここまでとしたい。ところで今日の画像は、IBTのS副社長と先日お話している中で、「おそらく先生が持ってお読みなるのがもっとも価値的だと思われるので…。」と、無期限でお貸しいただいた(IBTの現地関係者から寄贈された)クルアーンの日本語訳である。(ウィリアムブラウン著書式作成とある。)

電気代 RM62.35

マレーシアに来て、最初の電気代(4月)がRM200を超えていたので、慌ててクーラーを止め、扇風機を買ったのが、5月の中旬、日本に一時帰国する直前のことだった。5月度はやはり電気代が高かったが、全くクーラーを使わなかった6月度の請求は、ついにRM62.35になった。

だから、何なんだ?と言われると困るが、ちょっと嬉しい。頑張ったかいがあったかなと思うのである。夕方、お粥を食べたあと、住処に戻るのにゆるい坂を登る。凄い汗をかくのだが、水シャワーをして扇風機にあたってひと涼み。前までは、クーラー直撃で極楽にいけたが、今はその手前くらい。だが、それで満足している。

心の欲する所に従って矩を超えず。とは論語にあるコトバだが、そういう感じ。マレーシアに来て、ちょっと贅沢すぎる気がするコンドに住んでいるが、決して奢ることなく慎ましく生活したいと思っている次第。8月には妻がやってくる。次は妻のペースに合わせながら、慎ましく…と思っている。

ところで、2・3日前、凄いスコールがあった。コンドに帰ると、エントランスにある鉢植えの観葉植物が軒並み倒れて割れていた。異常な程の強い突風が吹いたらしい。これを処理する清掃・管理スタッフが、明日は大変だろうな、と思ったのである。翌夕戻ってくると、見事に何事もなかったように修復されていた。我がコンドはタマンデサでも古くからある著名なコンドらしい。だから少しばかりくたびれているトコロもあるのだが、メンテナンスが行き届いているので、私は大いに気に入っている。家賃はそういうところにも十分活かされているようだ。なんか、嬉しかったのだ。スタッフに感謝である。

2016年7月14日木曜日

IBTの話(16) 弁論大会

校内の第16回日本語弁論大会が、本日午後、日本人会館ホールで開催された。F36(20ヶ月コース)の5クラス、F37(12ヶ月コース)1クラスの全員が弁論大会用の主張原稿を書いて、その中から14名がセレクトされ今日の晴れ舞台を踏んだらしい。

私は初めてなのでよくわからないけれど、日本語の先生方もセレクトするだけでも大変だったにちがいない。おそらく、EJUの受験担当をする(つまり毎回弁論大会に参加する生徒を教える)私は、これから何度も見ることになる(授業が休講になっても、少なくとも見ることは絶対可能)だろうと思う。今回は第1回目、実にメモリアルである。せっかくなので、タイトルと内容を少しだけ記しておこうと思う。

1.特別な家族(F36A:女子)
  半分しか血のつながっていない姉とその娘と自分、そして母のおりなす家族愛の話。
2.目は心の窓(F36C:女子)
  「目は口ほどに物を言う」という、マレー語・英語・日本語に共通の格言を考察する。
3.デコボコの道(F36D:男子)
  自分を愛して続けてくれた祖母の思い出を語る。
4.お化けがでるんだって(F36D:男子)
  「ウソ」をつくことについて、その善悪を考察する。
5.私の求めているもの(F36D:男子)
  自由とは何か。その自由を阻むもの、さらに阻まれなければならない自由とは。
6.ヒーローはいったいだれ?(F36E:男子)
  仮面ライダーに憧れた自分は、ヒーローを目指す。
7.村娘(F36E:女子)
  子供の頃、私は両親の菜園で農業を只管させられた。だからこそ今頑張れる。「12.チカラウタ」とともに、センスが光るタイトルだと思う。
8.たった一つの希望(F36A:男子)
  のび太のようだった自分は、今は良き友人を得て、共に日本留学を目指している。
9.私の夢(F37:男子)
  小説家になりたい。だから、今、日本語を学んでいる自分。
10.自分をかっこよくする方法(F36A:男子)
  運動することは根気と忍耐を育て、友を得る道。そして隠れた自分の自信を取り戻す鍵である。
11.私へ(F37:男子)
  19歳のひたすら内証的かつ文学的な自分への手紙。
12.チカラウタ(F36C:女子)
  歌には力がある。自信を失いかけていた自分を取り戻せた歌の力を語る。実に文学的な素晴らしいタイトルだと私は思う。
13.人生の階段(F36B:女子)
  いじめられっ子だった自分が立ち直れたのは日本への短期留学だった。
14.完成編 長文1(F26C:女子)
  修学旅行で訪れたカリマンタン島の原住民の村。そこでの異文化体験と考察・自省。

内容もかなりよかったのである。生徒たちも、自分のクラスの生徒を手作りの紙のアイテムを使って大声援で応援していたし、司会を始め運営も生徒が自主的に動いていた。審査中も生徒たちのパフォーマンスがあったりして、大いに盛り上がっていたのだった。勉強、勉強のIBTだけど、こっちの優秀な生徒たちも、日本の高校生同様、学校生活の楽しみ方をちゃんと知っていると思ったのだった。

審査の結果、1位/8 2位/10 3位/7 特別賞として11と13の生徒が表彰された。さらに上の大会に3人が代表として送られるらしい。是非とも頑張って欲しいものだ。

2016年7月13日水曜日

天皇陛下の御意向について

陛下の御意向を伝えるBBCNews
日本を離れて、少し違ったスタンスで日本を見ている自分がいる。活字を追う新聞がない。WEBのニュースは見ることが可能だが、電子版の有料サイトには入れない。NHKも国際放送で英語のみ。なんとなく、抑制された情報源。

これが反対に重要な記事を見つける下地を作っているような気がする。参議院選も、結局のトコロ争点がぼやけたまま。このブログであえて取り上げる必要も認めなかったし、都知事選も話題豊富に見えて、それがどうした?と思ってしまう。

だが、今日の陛下の「生前退位」「数年以内に譲位」という報道は、これらとは重みが違う。

憲法第1条の最後に「天皇の地位は国民の総意に基く。」とある。憲法を遵守される陛下は、あくまで、そういう希望をお持ちだという意向を伝えられた上で、後は国民の総意に託された、と見るべきだろうと思う。

82歳というのはかなりのご高齢である。日本国の(事実上の)元首としての公務は、すでに肉体的にも精神的にも限界に近づいておられるのではないか。実直に公務に専念されてきたがゆえの責任感から譲位という意向が出ざるを得なかったのだ、と私は推察する。たしかに「摂政」という装置も皇室典範にはある。だが、陛下は、天皇としての地位、完全なる公人というお立場におられること自体にお疲れなのではないか。我々はただただ推察するしかないが、あの実直な陛下が、様々な問題の提起が起こりうることをご承知の上で、なおかつ御意向をしめされたのだと拝するしかないと私は思っている。

この上は、皇室典範の専門家や憲法の専門家の意見を集約して、国民に総意を問うべきである。この陛下の御意向を検討することは、司馬遼的に言えば、日本という国のカタチに関わる「大事」であると私は思う。私としては、陛下のご希望にそえるようなカタチの決着を望みたいところだが…。

2016年7月12日火曜日

レヴィナスと愛の現象学を読むⅡ

タルムード:http://www.tabletmag.com/scroll/196121/new-york-
businessman-leon-black-buy-bomberg-babylonian-talmud-for-9-3-million
内田樹先生の「レヴィナスと愛の現象学」を読んでいる。と、いっても第1章がやっと終わったところだ。難解な書物なので、とても書評などという代物ではないのだけれど強く印象に残ったことを書いてみたい。

「(レヴィナスが行うところの)タルムード的対話においては、ラビたちが口にしたすべての異論は併記される。一度でも思考されたものは記憶にとどめられなければならない。そこでめざされているのは、ラビたちの合意による議論の終結ではなく、豊かな異論の湧出による議論の継続である、というのはラビたち一人一人が、それぞれにユニークな仕方で「啓示」を聴き取っているからだ。」

実は、私はこの一節に大きな引っ掛かりを受けたのである。中田考先生の「クルアーンを読む」と合わせて考えている。イスラムの法学者は、クルアーンやハディースを同様に解釈するが、少数意見も合わせて記録されることが書かれている。このあたり、タルムードに対するラビとよく似たスタンスである。

私の浅い一神教の学識では、似ている、としか表現のしようがない。両者の差異についても知りたいのだが、イスラムの方がよりシンプルなように感じる。(両書を読み比べて)そう感じる、だけである。だが、こういう似ている、という発見だけでも十分なくらい重要な事のように感じているのである。

2016年7月10日日曜日

前任校の野球部に檄

大阪ドームでの予選大会入場行進の画像 出場校がホント多い
WEBを見ていたら、夏の高校野球の大阪府予選が始まったようだ。前任校は、春季大会で大阪第4位、惜しくも近畿大会出場(大阪は2校出場)は逃したものの、もちろん公立では大阪No1になったようだ。凄いな。

だが、往々にして春活躍したとき、夏はいつもクジ運が悪くなる。今回は2回戦、私学の超強豪(R高校とK高校)の勝者とあたるようだ。勝てば、間違いなく新聞の全国版に載ると思うが…。

今年は、マレーシアにあって、当然応援に行けないが、頑張って公立の意地を見せてほしい。もちろん、ラグビー部や柔道部など他のクラブも同様だ。悔いのない時間を送ってほしいものだ。

高校生の時間は人生の中でもさらに価値の高い特別な時間だ。濃厚で流れるスピードも早い。私はそう感じている。だからこそ、悔いのない時間を送ってほしいと思う。

追記1:残念ながら、7月19日、強豪・R高校に敗退してしまい、春季大会準決勝の雪辱はなりませんでした。今日から、また2年生を中心に新たな挑戦の日々が始まります。3年生、ごくろうさんでした。
追記2:以下のページに「公立の雄」の記事が載っていました。あわせて読んでやってください。
http://www.asahi.com/koshien/articles/ASJ7L3F4NJ7LPTIL004.html

2016年7月9日土曜日

マレーシア人が日本に来て驚く事

WEBページ掲載のイメージ
マイクロソフトのWEBサイトで、旅行会社が調べた「母国と違う マレーシア人が日本に来て驚いたこと9選」というのが載っていた。備忘録的にエントリーしておこうと思う。なかなか面白い。

1.大声で話している人がいない。
2.公衆トイレが多い。
3.イスラム教徒に優しい。
4.公共交通が混乱せずにきっちりと動いている。
5.どこへいっても新鮮な食材が食べられる。
6.とにかく町が清潔。
7.自動販売機や24時間営業のコンビニが多い。
8.日本人はとても親切。
9.日本人は時間を守る。

なるほど、と思うことばかりである。
ところで、この対蹠点が日本人のマレーシア評になるのか?というと、それは全くあたらないと思う。少しだけ私的なコメントをしておきたい。

1について、確かにバスや列車の中なので携帯電話で話す人もいるし、わりと声の大きい乗客もいる。だが、日本以上に老人(どうやら、マレーシアでは白髪故に私もそのカテゴリーに入るらしい。)に席を譲る、あるいは若者が最初から立っているのが普通である。もちろん、老人にマレーも華人もインド人もない。その辺が凄いよな、と私はいつも人間観察をしては感心しているので、単に静かな日本と比較して、マレーシアの車内の方が私はいいと思う。
6について、これは確かである。きっと私の教え子たちも日本に留学してそう思うに違いない。だが、私などアフリカ大好きオジサンからすると、マレーシアは大したコトはない、許容範囲内だと思うのである。
7について、自動販売機は確かに日本みたいに異常に多くない。しかし、コミニュケーションに勝るマレーシアの方が私は好きである。
8について、マレーシアは日本以上か、少なくとも同等以上の親切さである。それは間違いない。これは断言できる。

この記事、マレーシア人の人の良さがにじみ出ている感じ。もっと母国に自信を持って欲しいと思うのあった。ちなみに、4も許容範囲内だけど、もう少し改善して欲しいな、とは思う。

ブキッ・ビンタンに行ってきた。

ブキッ・ブンタンに用事ができたので、初めて行くことにした。ブキッ・ビンタンにある某銀行に給与の件で来たことはあるけでど、個人的に自分の足で行くのは初めてである。KL最大の繁華街。とはいえ、実は私はそういう人が多いところはあまり好きではない。用事もないのにわざわざ行くのもなあ、とこれまで足が向かなかったのだった。

ブキッ・ビンタンには、例によって、KLセントラル駅までバスで出て、モノレールに乗りかえることになる。初めて自動販売機を使った。トークンが出てくることは知っていたが、NYCのような金属製の5円玉のようなものを予想していた。(私にとって、トークンといえばNYCの地下鉄のトークンである。)ブキッ・ビンタンまではRM2.5である。最初にRM0.5のコインを入れてみた。おお。あとRM2.0になった。それからおそるおそるRM1札を2回入れたら、トークンがちゃんと出てきた。しかしこれが、青いプラスチック製の意外な程チャチなものだった。これには些か驚いた。

これでまた1つ、マレーシアの自由を獲得できたわけだ。おそらく他の人よりはるかに歩みは遅いけれど…。

モノレール、なかなか乗ってて面白い。一番慄いたのは、昨日翻訳作業をしていた生徒の中学校(日本の高校にあたる。)を発見したことだ。ミッドバレーのすぐ近くにあると聞いていたけれど…。まさかモノレールの駅沿いとは思わなかったのだった。なかなかりっぱな学校だったのだ。

しかし、不満もある。それは、駅に駅名が書かれてないことである。
結局1つ手前の駅で、「ブキッビンタン?」と聞いたら、「そうだよ。」と言ってくれた人といっしょに降りたのだが、その本人が、「ごめんごめん、1つ前の駅だった。」と謝ってきた。聞くと、イエメン出身のアラブ人で中国と貿易業をしているという、30代くらいの青年であった。仕方がない。(笑)首都のサヌアや内戦の話をしていたら、わりと早く次のモノレールが来た。なかなか気持ちのいい人との出会いだった。ちなみに、このブログの常設ページ「地球市民の記憶」に、イエメンの人はなかったような気がして調べたら、2人目。あちゃー。と、思っていたら、意外にもインドネシアがない。住処のCAFEのウェイトレスさんも清掃のスタッフもインドネシア人で、よく挨拶する。こそっと追加した次第。これで私の地球市民の記憶は101カ国になったのだった。

まあ、こういう猫ブル(トラブルというほどでないトラブル)も楽しい。用事が済んで、帰路は、結局またインド人街の出口のバス停から帰ってきたのだった。

2016年7月8日金曜日

IBTの話(15) 翻訳作業

https://ja.glosbe.com/ms/ja/sejarah
スクールホリデーの出勤日・3日目である。今日は、いよいよ翻訳作業に取りかかった。翻訳作業というのは、留学志望の生徒たちの諸書類を翻訳する仕事のことである。生徒によって、というか学校によってかなり書類が違う。マレーシアの高校に当たるのは2年間であるが、1年ごとに成績証明書を出している学校もあれば、定期考査ごとに出している学校もある。卒業ではなく離校証明書といったりするし、出生証明書を翻訳する必要があったりするのだ。

私が担当しているのは、華人生徒の多い私費生のクラスである。ありがたいことに、英語と中国語(漢字なのでなんとなく意味がわかる。)であるので、比較的スイスイ進んだ。しかし、SPMの成績証明書と出生証明書はマレー語である。うーん。
*SPMというのは、高等学校2年間の学習成果を見る全国的なテストである。

これに対抗するのは、WEBの辞書である。(今日の画像参照)これまでの長年の翻訳作業で集約された単語帳のようなものも、IBTのPCネットワークに整理されているのだけれど、私としては、ついついまず自力で挑戦したくなる。とはいえ、わからないことも多い。そういう時は事務室のローカルの方々に直接聞くと丁寧に教えてくれる。なるほど~、そういう意味かと納得したりする。素朴な学びがそこにある。

案外、翻訳作業は楽しいのである。

2016年7月7日木曜日

アフリカ開発経済学テキスト刷新

来週から、総合科目の補習として「アフリカ開発経済学」をやろうと考えている話を先日エントリーした。一気にテキストを印刷するのではなく、少しずつ配っていき、最終的に綴じれば完成、という感じで配布していこうと思っている。今週の月・火曜の両日は、そのルビふりに追われていた。実は昨日も住処で作業を続けていて、やっと完成した次第。

日本語を学んでまだ1年強の生徒たちであるから、いくら優秀とはいえ、難しい語彙にはルビをふる必要があるのである。まあ、前半の経済的アプローチの分野は、そもそも日本の高校生向けに作ってあるし、すでに総合科目で講義している語も多いので、ルビは少ないのだけれど、政治的アプローチの分野、さらに文化人類学からのアプローチの分野になると、ルビの数がそれぞれ倍増していく。(笑)自分で読んでいても、最後のほうは完全に学術論文化している。こりゃあ、解説にだいぶ時間を必要としそうである。でも、それでいいと思っている。彼らが日本の文系の大学を目指す以上、避けて通れない高度な日本語の世界であるからだ。

今読んでいる「レヴィナスと愛の現象学」には、もっともっと凄い語彙が出てくる。
レヴィナスのテクストは「完全記号」である。
弟子となることは「命がけの跳躍」。
テクストを「眼光紙背」に読めば…。
テクストに固有の「知の周波数」に同調…。
…さすが人文科学、といいたくなるような語彙ばかりである。私のほうは、もちろん第一義で十分読解できる内容である。(笑)

ところで、今回の補習で伝えたいことは、いろいろあるのだけれど、もし本気で開発経済学を大学でもやってみようと思う生徒がいたら、「統計はウソをつく」と「貧困を救うテクノロジー」を読むことを勧め、私の本音を最後の最後で明かしている。

「このテキストが立脚している2015年MDGsがSDGsに取って代わるまでの時期の学問的集積を根底から覆すかもしれないからだ。時代は常に変化している。すでにこのテキストは古くなっている、という批判と可能性を著者は否定しない。それこそ教育者の本望である。」

つまり、もう古くなったかもしれない学問的な集積をあえて教えたのだよ、私を乗り越えていってね、ということである。だから、今回のテキストは、バージョンが刷新され、7となっているのである。

レヴィナスと愛の現象学を読む。

内田樹先生の文庫本・「レヴィナスと愛の現象学」を読んでいる。これがなかなか面白い。冒頭、内田先生とレヴィナスの師弟関係について、わりと長々と、タルムードの読み方という視点から詳細に述べられている。これも実に新鮮で面白かった。

「認識するとは暴露し、命名し、それによって分類することである。パロールは1つの顔に向けては発せられる。認識とは対象をつかむことである。所有するとは存在を傷つけぬようにしながらその自立性を否定することである。所有は被所有物を否定しつつ生きながらえさせる。だが、顔は侵犯不能である。人間の身体のうちもっとも裸な器官である眼は、絶対的に無防備でありながら、所有されるこに対して絶対的な抵抗を示す。この絶対的抵抗のなかに、殺害者を誘惑するもの-絶対的否定への誘惑-が読み取られる、。他者とは殺害の誘惑をかき立てられる唯一の存在である。殺したい、しかし殺すことができない。これが顔のヴィジョンそのものを構成する。顔を見ること、それはすでに「汝殺すなかれ」の戒律に従うことである。そして「汝殺すなかれ」に従うことは「社会正義」の何たるかを理解することである。そして不可視のものたる神から私が聴きうることのすべては、このただ一つの同じ声を経由して私のもとに届いたはずなのである。」

この文章は、内田先生が初めて読んだレヴィナスの9ページ目であり、弟子のなるきっかけとなった文章でもある。いったい、この人は何が言いたいのだろう。世の中には「難解だけれど、分からなくても別に困らない」種類の難解さと、「難解だけれども、早急に何とかしたい気がする」種類の難解さがある。内田先生は後者の気分になったのだ、という。

リトアニア生まれのユダヤ人で、ドイツの現象学と存在論についてタルムードの弁証法を駆使して、フランス語で批判的著述を行っているひと、それがレヴィナスである。

内田先生は、「レヴィナス効果」と呼ばれる、彼の思想に引き込まれていくことに関して、次のように述べている。今日のエントリーはここまでとしたい。

「レヴィナスはタルムードの文体を範例として彼のテクストを書いている。彼のテクストにおける読みの開放性・複数性は、意図的に工作されたものである。彼はあえて一義的な解釈が成立しにくいように書いている。その難解さと曖昧さは戦略的に選び取られたものであり、デイヴィスが言うように”レヴィナスのとらえどころのなさは、彼のエクリチュールと思考の本質なのである。”」

2016年7月6日水曜日

ハリラヤ…です。

我が住処のセキュリティーにもハリラヤを祝う電飾が。写真を撮らせてくれました。
ついにラマダンが明けたらしく(いつ開けたのかわからないので…。)、今日・明日とハリラヤという祝日です。昨夜は、午前0時に近くで、大音響とともに花火がドドドーンと何発も打ち上げられました。意外に上がらないので、高台に立つ16階の我が住処からは見下げる形になってしましたが…。睡眠妨害に近いとはいえ、なかなか綺麗な花火を見せてもらいました。

ところで昨日も在マレーシア日本大使館から、テロに対する注意喚起のメールがありました。今日は、ハリラヤのお祝いが、政府関係の建物でもあり、一般の人々にも食事が振舞われるそうです。いつか行ってみたいイベントですが、時期的にはかなり問題があると思われます。実際、マレーシアでも、先日テロ事件がありましたし、ダッカの犯人もマレーシアの大学で学んでいたという報道も流れています。昨日もサウジで同時多発テロがあったりと、ISが主体的に行うテロもあるでしょうが、ISに忠誠を誓う人々の個人的・偶発的テロも増える傾向にあるだろうと容易に推測されます。

妻からも、今回は出歩かないように、と大使館員のようなメールがきました。妻には逆らえません。(笑)

と、言う訳で今日はおとなしく住処で読書して過ごすこととします。今、読んでいるのは5月に日本から持ってきた「レヴィナスと愛の現象学」(内田樹/文春文庫)。このところ、イスラーム関係の本を読むことが多かったので、一気にユダヤ学に転換します。この転換は、別にラマダン明けとは関係ありませんし、妻のメールを読んで、この本を選んだわけでもありません。(笑)

2016年7月5日火曜日

茂木氏の世界史・新書を読む。

5月に帰国した際に、本屋でついつい手に取って少し読んでしまったので買った本がある。茂木誠氏の「ニュースの”なぜ?”は世界史に学べ」(SB新書/15年12月発行)である。「経済は世界史に学べ」を書いた駿台予備校の先生の本である。したがって学術書ではない。だが、同業者としては、わかりやすく万人向けに書かれた良書だと思う。もちろん、大きな発見はなかったけれど、あらためて現代史を講ずる上で参考にさせていただこうと思っている。

私の方も、いずれEJU(留学生が日本の大学に入るための試験)用のオリジナル・テキストをプリント類を整理して編んでいかねばならないと思っている。EJUのシラバスを検討してみると、世界地理と経済に重きが置かれて、地誌と経済学的な視点で国際感覚を身につけているかを問う問題が多い。これに近現代史的な知識が必要になってくるわけで、テキストにまとめるというのもなかなか楽しい作業だと思う。最終的には、私の見識が問われるわけだ。それもまた緊張感があって面白いと思っている。

2016年7月4日月曜日

IBTの話(14) スクールホリデー

IBTは、今週がスクールホリデーである。要するに1週間休みである。奇数月に1回こういう休みが組まれている。日本のようなドドーンとした夏休みはない。毎日が夏であるから分割して休むという仕組みだ。毎回日本に帰るわけにもいかないので、今回は居残りで仕事をしている。

今日のメインの仕事は、定期試験の社会科の成績会議と、それにまつわる資料作り、会議後の入力であるが、来週から金曜日の放課後、1時間程度補習することになったので、その教材も作り始めた。いや、作り始めたというのは正しくない。これまで編んできた「高校生のためのアフリカ経済学テキスト」を、留学生のための…に変えて、ひたすらルビを振りつつ校正していたのだ。これが案外楽しくも目が疲れる作業なのである。(笑)

補習だから、EJU対策をするべきだが、それは正規の授業でしっかりとやるつもりである。どうしようかな、と思っていたのだが、ふと開発経済学を本気で教えようと思ったのだ。たとえば、昔々、ドイツ語を学んだ時、英語の方がはるかに簡単なのではないか、と思った感覚があった。(実際は両方とも全くモノにはならなかったが…。)この感覚を大事にしたいと思ったのだ。開発経済学を学び、基礎的な社会科学から一歩先んじることができれば、ドイツ語と英語のような感覚を得ることができるのではないか。そんな理屈である。

先日、ふと、IBTの母体である帝京大学のことを調べていた。帝京大学のことは、ラグビーが強いこと、医学部があることくらいしか正直なところ知らなかった。建学の精神を読んでいて、実は私の教育理念とよく似ていることを発見した。ちょっと嬉しかったのである。実践を通して論理的思考を身に付ける「実学」、異文化理解の学習・体験で身に付ける「国際性」、幅広く学ぶ「開放性」…。IBTの総合科目の補習として、私が開発経済学を講じても、母体の建学の精神に十分沿っている。多少難しいコトも教えて、それがEJUやその後の大学での学びに活かされるのではないか、と思った次第。

教え子諸君には、私がほくそ笑みながら難しい漢字にルビをふっている姿が容易に想像できると思います。
…マレーシアで、地球市民、育成させていただきます。

そうそう、ベッケンバウワーです。昼休み、またまたメイバンクに行きました。クレジットカードが出来たので取りに来て下されという連絡がきたので行ってきました。びっくりしたのは、カードが2枚渡されたこと。VISAとアメリカン・エキスプレスの2種類。(今日の画像は、VISAがマスターになっていますがデザインはこれです。)これまた、ホワイ?マレーシアン・ピーポー?全くの想定外のハナシでした。それにしてもアメックスのカード。…恐れ多いと思ってしまうのでした。

2016年7月3日日曜日

中田・橋爪「クルアーンを読む」14

 QURAN 5-33 http://myonlinequran.com/quran-images/picture.php?/622
エントリーを続けたい。さらに本の内容を飛ばすことにする。
基本的に不正な支配者であってもイスラーム教徒である以上は、明らかに不信仰を冒して確実に背教者だと言われない限り、反乱を起こしてはならないという合意がイスラーム法学者の間で成り立っていることを中田氏は述べる。それに対してISは、西欧法の法律に裁定を求めるものは背教者であるということを法学的に正当化して、反乱を合法化したことが語られる。それに対して、橋爪氏がロックの抵抗権を持ち出して、「反乱は正当か否か?」を聞いているところから。

橋爪氏「背教者である統治権力には服務義務はないということになると思いますが、彼らに対してどう振舞えばいいんですか?」中田氏「倒すしかないですね。背教者というのは、多神教徒より悪い最悪のカテゴリーになるますので、殺すしかないってことになってます。」と、クルアーン第5章33節を引く。

アッラーと彼の使徒と戦い、地上で害悪をなして回る者たちの報いは、殺されるか、磔にされるか、手足を互い違いに切断されるか、その地から追放されるかにほかならない。これが彼らへの現世での恥辱であり、彼らには来世でも大いなる懲罰がある。

この最初の地上で害悪をなして回る者とは、反乱軍ではなく、実は強盗に対する規定で、強盗団は1人でも人を殺していた場合、この全部が適応されるそうである。イスラームでは、反乱に対しては緩い(どちらが正当かを問わない。どちらも正当性があるという前提で議論し、決着がつかなかったら仕方ないので戦う。やめれば罪が消える。)が、強盗にはきつい。それで、この強盗罪の規定を使うらしい。シリアのアサドの父親時代、ムスリム同胞団を強盗罪で処刑した。ISの処刑もこれによっている。(注:ビデオなどでは)クルアーンのこの句(第5章33節)が流れるとのこと。

当然橋爪氏が異議を唱えるが、中田氏によるとISは自分たちは正当なカリフ国で、強盗団と戦っているという理解にある。少なくとも彼らの理解はそうなっている。と答える。また、異教徒の敵軍に対しては、別の法規(これがイスラーム国際法にあたるらしい)があって、基本的には成人男子は全員戦闘員として扱う。たとえば修道士や体が不自由な人とかは戦闘員から外される。女性・子供は非戦闘員扱い。ただし女性でも武器を持って戦えば戦闘員扱い。先ほどの強盗罪の適用は、あくまで、イスラム教徒同士の場合となるそうだ。

さらにヨルダンのパイロットの檻に入れて火で殺すという行為について、橋爪氏がつめよる。中田氏は、預言者ムハンマドによる「火で殺すこと」は明文の禁止がある。(注:最後の審判とのからみであると推測される。)しかし、例外規定で、相手が先に火で殺した場合、しないほうがいいけれど、同程度ならば、その報復が許されていることを述べる。ただし、それは戦っている時の話で、捕虜に対してあのような処刑を行うのは、イスラム法的には問題があるとのこと。

しかし、ISの論理を橋爪氏が説明している。「パイロットは空爆を行った。空爆行為は、ISの非戦闘員に対する火攻めである。これがまず先にある。この戦闘員は捕まったけれど、それは一味の強盗団で背教者だ。そして共同正犯である。そこでそのパイロットにも責任を追求することができるのだが、復讐法の原則によって火攻めが許されているということから推論し、報復として、檻に入れて火で殺したと。」

中田氏は、イスラーム法の推論だと捕虜に対しては許されないのがおそらく法的に正しいが「、もうこのあたりになると私も含めて完全にどちらが正しいとは言えないレベルなのです。」ということになるらしい。橋爪氏が、ヨルダンやアメリカの空爆に対する憎しみの共有が文脈にあるのでは?と言われると、それも十分にありうると答えている。

…ダッカの事件を受けて、関係するような箇所を2回に分けてエントリーしてみた。当然ながら異教徒たる私にとって、理解を超える世界であるが、理解の糸口は常に持っていたいと思う。このマレーシアにも、多くのバングラディッシュの人々が出稼ぎに来ているようだ。低賃金で働いておられる。そこに去来する思いは何か?共生をめざす地球市民ならば、その声を聴いてみたいと思うのだ。今回の不幸な事件を考えるにあたって、私はそんな思いにかられているところだ。

中田・橋爪「クルアーンを読む」13

apostate で画像検索したら、こんな画像が。 http://mormonismschism.blogspot.my/2011/03/apostates-and-anti-mormon-propaganda.html
バングラディッシュのダッカで、IS関係者(ISのカリフに忠誠を誓った者と言った方がいいと私は思う)による、凄惨なテロ事件が起こった。亡くなられた方々のご冥福を心から祈りたい。まして、日本の被害者は、私もいろいろとお世話になったJICAのプロジェクトで赴任していた方々である。しかも極めて平和的で普遍的な交通停滞緩和を目的にしたプロジェクトであって、途上国の持続可能な開発のための貴重な人材が多数失われたことに悲嘆を隠せない。あらためて無意味なテロ行為だと非難せざるを得ないのである。

この「クルアーンを読む」のエントリーは、私の備忘録的な自主学習のノートのようなもので、だいたい土日に行っている連続物なのだけれど、今日はすこし順番を飛ばそうと思う。最近は、中央アフリカやナイジェリア、さらに今回もそのような場面があったような報道があるのだけれど、イスラム教徒か否かがテロの対象か否かに結びついている。このことにまつわる中田考氏の論説を抽出してみたいと思うのだ。

中田氏は「イスラームは戒律の宗教であるという誤解があります。確かに戒律・法は守らないといけないんですけれども、法が救済の条件ということでは全くありません。」「救済の条件はあくまで信仰であって、しかも信仰自体にその力があるのではなく、あくまでも神の一方的な慈悲によって救われるのです。」「そもそもイスラーム教徒の信仰とは何かと言えば、スンナ派だと基本的には、心の中でアッラーの存在を認めて、口でそのことを証言すること、というのが標準的な信仰の定義になっています。」

…というわけで、テロリストが処刑の際に使う手段、信仰告白をアラビックで言えない人間は、イスラム教徒ではない、という判断がなされるわけだ。一方で、良き行為を沢山やっている人間のほうが信仰は深いだろうという常識的な判断がある。信仰と行為は別物だけれど、そういった信仰と行為の結びつきは、特に穏健なイスラム国家マレーシアなどでは日常的に見受けられる。

イスラーム教徒かどうかが重要な問題になる場面について。例えば結婚する時、イスラーム教徒同士でないと結婚できない。男性はユダヤ教徒やキリスト教徒の女性と結婚できるけれど、葬式の礼拝はイスラーム教徒にしかあげれないので、イスラーム教徒であるかどうかをどうやって判定するかということは法的にすごく重要になるそうである。心の中のことはわからないので、それについては問わない。自称・他称でイスラーム教徒だと言われている人間をイスラーム教徒として扱うのだが、非常に明示的に偶像を拝んでいるとか、アッラーなんかいないと言ったり書いたりすれば、それは不信仰の印として扱うことができる。そういう場合、不信仰者、背教者として処刑されたり、お墓に入れてもらえなかったりする。それ以外のイスラームで禁じられている行為をやっても、それが悪いことであると認めていれば背教者とはみなされない。ただし、カリフが任命したイスラーム法裁判官(カーディー)によってきちんと審理して有罪になった場合は背教者となるのだという。とはいえ、基本的にはそもそも問わないものらしい。結婚の際に親族が認めず背教者として訴えた時ぐらいの話らしい。

「実際には、背教者として処刑することはまずないのです。ほとんど狂人として処理するからです。イスラームは理性的な宗教だという自己認識がありますので、健全な理性があって正しい知識があれば、イスラーム教徒でなくなることはありえないというのが基本認識です。」

…と、まずは背教者という概念を提示しておきたい。しかも現状では、そんな扱いはほとんどありえず、狂人として扱われるということである。うーん。フーコー(仏の現代思想家)だな。

私の新しい住処 タマンデサ9

先日、同じコンドに住むF先生から帰宅のバスの中でタマンデサの公園の話が出た。スーパーやフードコート、いろんなお店が並ぶタマンデサの中心部にある公園の話だ。すこし高くなっていて、道からはどうなっているのか見えない。しかも高級住宅街のセキュリティーが横にあるので、私などは入れないものだと思い込んでいた。F先生によるとセキュリティーは全く関係ないらしい。「朝行くと、太極拳とか、いろいろやってますよ。マン・ウォッチングが先生はお好きなようだから、一度行ってみるといいですよ。」と言ってもらえた。うむ。F先生の言われるとおり。マン・ウォッチング大好き。

と、いうわけで、今朝行ってみた。7時過ぎから8時過ぎまで約1時間、公園をぶらぶらしていたのだった。7時過ぎは、まだ薄暗くて風が吹くと涼しい。なにやら、木の周囲を回ってしる華人の集団を発見した。太極拳というよりは気功のようだ。年老いた華人の人々が多い。木に向かって気を整えながら周囲を回っている。じっと見ていると指導しているのは比較的若いご婦人であることがわかった。足の運びが武道のそれであることで判る。他のオジサン・オバサンの足の運びとは全く違うからだ。案外、右手やら左手やらを上げながら回るので疲れるようだ。当然中国語の指示で動くわけで、参加してみたいけど無理。
もうひとつ、華人の集団があって、こちらは太極拳のようだった。でもかなりの年配の方もいて、椅子に座ったまま気を貯めていたりして…。もっと見たかったが、だんだん日差しが強くなってきたので退散した。

公園内は、ロードを走る人、歩く人、テニスやバスケットボールに興じる人、子供の遊戯場など、なかなか見ていてあきない。芝生のサッカーグランドやハンドボールコートもあったりして、なかなかの運動公園であることがよーく判った。夕方はどうなっているのかまたいつか覗きに来ようと思う。

8時を過ぎるとストロングな太陽がど-んと上がってきた。今日も暑くなりそうだ。

2016年7月2日土曜日

生活の改善Ⅱ/校長先生に感謝

電子レンジが我が住処に来てから、食生活が豊かになった。と、いっても豚まんをチンするのに使うことが多いのだが…。妻によると、スーパーとかでレンジが利用できるものをいろいろと買えばいいとのことである。メールであれやこれやと指示があったのだが、実際スーパーに行くと、うーんと唸ってしまう。食に関して、私は超保守主義者なのであると思う。とにかく冒険を極力避けようとする。だから、グルメではないのだ。(笑)

そんな話を先日職員室でしていた。と、いうか、私が中華粥ばかり食べているということが話題になったのだった。校長先生が心配されて、自宅に置いてあったオーブントースターと電気ポットをわざわ持ってきていただいたのだった。なんでも以前マレーシアに滞在していた友人や先生の中古品だから、気にしないで使ってください、とのこと。とはいえ、買えばそこそこの金額になる。ラマダン明けのセールに買おうと思っていたので、非常に助かった次第。しかも、トースターはフィリップス社製、ポットはケンウッド社製。かなりいいものである。これで、さらに生活の改善が進む。

と、いうわけで、スーパーで初めてカップ麺を購入てきた。カップ麺というよりは、天ぷらうどんである。RM3強。万が一、美味しかったらもっと買っておきたいと思っている。食べるのは明日の昼くらいになりそうである。校長先生に深く感謝しながらいただこうと思うのであった。

「まんが パレスチナ問題」を読む。

先日、日本人会にあるパソコンを修理してくれる和風堂に寄った。ここには古本も置いてあって、意外な本が格安で置いてあったりする。そもそもは、KL近郊の見所を書いた本はないかと、探しにいった(6月26日付ブログ:「クラン港へKTMで行ってみた」参照)のだが、いざ支払いをしようとすると、華人のおばさんが、早口の英語で私に何か言ってくる。「?」何度も聞き直したのだけれどわからない。結局、おばさんは、ある日本語の但し書きを指さした。RM20分買うと4%引きになってお得だという話だったのだ。…なるほど。

と、いうわけで何冊かプラスして無理やりRM20にして、RM16払ったのだった。その中の1冊が今日の書評に出てくる講談社現代新書1769「まんが パレスチナ問題(山井教雄著/2005年1月発行)」である。実は、私の古本にはカバーがない。WEBで初めて、本来の姿を拝見した次第。

この本、パレスチナ問題を漫画にしたわけではない、どちらかというと,イラスト満載のマルクスやフロイドなどのFOR BEGINNERSシリーズに近い。カバーの帯にあるように「日本一わかりやすい」というのは、さすがに眉唾ものだけれど、今までの知識に上積みするような話は沢山あったし、興味のある高校生にはオススメの1冊である。ただし、この1冊でわかったような気になってはいけないと思うのである。パレスチナ問題は複雑でそう簡単に理解できる代物ではない。いろんな本を読んで、様々な違う角度から見て欲しいと思うのだ。ちなみにWEBで見たら、続編があるらしい。著者が当然書ききれてない部分もあるだろうと思う。

この本は、ニッシムというユダヤ人少年とアリというパレスチナ人の少年、さらにエレサレムの由緒ある野良猫が案内役を務める。当然立場の相違もそこに表現されるわけだ。猫は中間的な立場で語っている。実際、エレサレムの聖墳墓教会のそばにはたくさんの野良猫がいた。で、私などはそういう理由で妙にリアル感があったりするのだった。