2017年11月17日金曜日

帝国の復興と啓蒙の未来(3)

アウグスティヌスの洗礼
http://www.b-family.org/public_
html/omoi/027/augusdoc.htm
「帝国の復興と啓蒙の未来」備忘録エントリーの続きである。キリスト教の神の国とイスラームのウンマ(共同体)の相違について。

アウグスティヌスは、教会がキリストを頭とするキリストの身体であると見なす。キリストとその教会を神の国と呼んだ。しかし地上の可視的教会には「地の国」(その覇権を代表するのはローマ帝国)が入り込んでおり、すなわち悪人が善人の中に混ざっており最後の審判でふるい分けられると説いた。このアウグスティヌスの二国論に基づく中世の世界観は、神の国・ローマカトリック教会と、西ローマ・神聖ローマ帝国、さらに異教世界の地の国という二重構造かつ二元論的なものであった。歴史が示すとおり、この地上に於ける神の国の政治権力の所在をめぐってローマ教皇と神聖ローマ皇帝の間で教権と俗権の対立を生む。宗教改革後は教皇権が弱まり、カトリックの独占が崩れると様々な教派が神の国を代表するようになり可視的な教会は内実を失い、政教分離が既成事実化し、世俗化の進展、主権国家の成立となる。キリスト教では全ての異教徒の支配は、「地の国」の覇権として範疇的に悪である。

カトリック教会では、第1回バチカン公会議(1869)で教皇の無謬を正式に決定した。伝統的には、教皇だけでなく、公会議の総意、全ての教会員の総意の無謬を認めてきた。

イスラームにおいて、キリスト教の教会とおおまかに対応する概念はウンマである。イスラームでは、ムハンマドの無謬性については合意が存在するが、スンナ派法学は「私のウンマは無謬において合意することはない」とのハディースに基づき、ウンマの総意は「イジュマ-」は無謬とされ、イスラム法のクルアーン、ハディースに続く第三法源となっている。(他方、シーア派は、イマームが預言者ムハンマドの無謬性を継承したと考える。)

キリスト教には、資格のある聖職者による公式な洗礼があり、メンバーシップが明確で外延が定まった可視的教会が成立するが、イスラームには聖職者もいなければ認可の手続きもなく、登録する機関もないので、ウンマにはメンバーシップもなく、外延もはっきりと定まらないため、可視的ウンマなどという概念そのものも成立しない。

つまり、キリスト教の教会に生じたように俗人の上に立つ霊的権威を有する聖職者階級が公式に信徒のメンバーシップの内包と外延を定め世俗権力が聖職者階級人事や彼らによる教義の決定に公式に介入すると言った制度はイスラームのウンマには成立しないわけだ。

私はブティストであるが、アイオワでルーテル派教会の日曜礼拝を見せて貰ったこともあるし、マレーシアでムスリムの事情も見聞きしていて、なるほどと思うのだ。

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